テレビ東京
金曜 深夜0:12~
【出演】
松重豊、正名僕蔵、戸塚純貴、田中聡元ほか
変わらない。まったく変わらない。しかしもちろん、そのことに問題を感じることはない。同じで結構である。最低限のストーリー、ともあれ主人公がその土地のその店に入ることになる顛末を語るだけ、それさえあればいい。そんなおざなりな物語なのに、やはりジャンルとしては「ドラマ」に属している。観るものの目当ては店の情報なのだが、「情報番組」ではないようだ。
それは確かに。私たちをほっとさせる。なぜなら私たちは「情報番組」をあまり信用していないからだ。それでも情報番組を観るし、それによって動くことだってある。なおかつ情報番組を信用していないというのは、そこでの情報が常に相対的なものとして扱われているからだ。今はAという蕎麦屋で、すごい、めずらしい、美味いと叫んでいるが、次の瞬間Bというラーメン屋でそれが繰り返されるのを知っている。
飲食店の情報といったものは、もともと真か偽か、ではなくて相対的なものに過ぎない。相対化された情報が網羅されたかたちでリスト化されているというのは、実はとても有益なものである。ただ私たちはそのリストを使い、その一つを選択しながら、いつもきょろきょろしている。もっといいものはないか、と。それは無論、リストそのものの相対化にも繋がるが。
しかしリストを使うにせよ、私たちが実際にそこに訪ねていく過程は多少の物語性を含む。すなわち経緯があるのだ。そして私たちは問われれば、また問わず語りにその経緯を語る。物語とは経緯を語るものなのだ。聞かされる方は迷惑なこともあり、情報だけが欲しい、要点を言え、ということはあるけれど、そういった無駄な情報を含んでいるものの方が記憶には残る。
そうなのだ。実は要点は記憶に残らない。わけのわかんない話で時間を潰されちゃって、あーあ、というその「あーあ」が記憶の源であるかもしれないのだ。我々は我々の人生に入り込んで、好むと好まざるとにかかわらず、また長短にかかわらず伴走したものしか覚えてはいない。我々の人生はたいてい「あーあ」の連続だから、「あーあ」の集積こそが記憶領域である。
物語はその救いがたい記憶の集積に構造を与えるものだが、リアリティのある小説はこの「あーあ」を展開の中に含んでいる。このとき物語性は劣化し、構造は弱体化する。リアリティとはそれと引き換えに与えられるものなのだ。我々は終わりのない「あーあ」に耐えつつ日常を送るが、それに本当に耐えきれなくなれば、終わりのない長大な物語構造の中へ逃げ込む。
それでは「あーあ」に耐えられないわけではないが、やはり日々それを抜ける瞬間が欲しい、となったらどうか。『孤独のグルメ』の主人公はシリーズを通して、ようはそういう立ち位置であり、その状況を説明する冒頭のナレーションも変わらない。「あーあ」の日常から見知らぬ場所での昼食という小さな脱出を試みるにあたり、そこへとたどり着く小さな物語が必要なのである。
主人公がだから「食べログ」などを参照しないのは当然で、その日その土地のその店に、勘と本能にしたがって運命的にたどり着いた、いう物語のためである。それは時間の無駄であるような「あーあ」な物語に過ぎないが、それで獲得したリアリティは、実在する店を出すというリアリティと呼応している。店の人はしかし、主人公と同様に俳優である。このバランスこそが傑出しているのだ。
田山了一
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