■『マクシマス詩篇』チャールズ・オルソン著/平野順雄訳 ■
『マクシマス詩篇』はアメリカ詩の伝統ともいえる長篇叙事詩の系統に連なるものである。つまり、ホイットマンの『草の葉』やメルヴィルの『クラレル』という始原ともいうべき長篇詩から始まり、パウンドの『詩篇』、ウィリアムズの『パタソン』、エリオットの『荒地』といったモダニズム文学の金字塔を経て、ポストモダニズムに位置づけられるオルソンの本著『マクシマス詩篇』、さらにはズーコフスキーの『A』へと至る、他国に類を見ない極めて特異な詩的アイデンティティーである。しかし、長篇ということに加えて叙事詩であるとなると、現代文学としての評価が確立されているとは言えない。
叙事詩が歴史を内包した詩であるとすれば、ホメロスやダンテのように事の次第を歴史の秩序に沿って物語るという明確な構造こそが、長篇叙事詩を安定的かつ絶対的な評価へと導くのだが、「現代」という混沌ともいうべき複雑な歴史観のもとでは、民族や宗教を物語る秩序などは時代にそぐわないに等しい。ましてや「アメリカ」における「現代」は、それだけで十分「世界」と呼ぶべき構造を有している。「現代」という歴史と、「世界」という混沌を言葉だけでいかに表現するか。そこにアメリカ詩が長篇叙事詩を志向する動機があると同時に、アメリカ詩を困難にしている理由がある。
『マクシマス詩篇』もまた例外ではない。しかしその困難さとは、詩として表現された主題や意味を指して言っているのではない。そもそも『マクシマス詩篇』には読むべき主題や意味はほとんど見当たらないと言ってもいい。アメリカの一地方都市を舞台にした新たなアメリカ建国史の創造と、建国という歴史的事業における創造的エネルギーの表現が、この詩篇の極めて重要な主題だと指摘する声があるのは確かだ。しかしそれは長篇詩における構造に過ぎない。主題にしろ構造にしろ、それらによって詩の価値が決まるわけではない。『マクシマス詩篇』という長篇叙事詩における文学的価値とは、時空を限定した構造の中で、いかにして「現代」という「世界」そのものを、言語空間に現出することができるかどうか。その一点に懸かっていると言ってもいい。
『マクシマス詩篇』のMAXIMUSとは、最大とか極大という意味のmaximum(マクシマム)=max(マックス)を擬人化した造語で、訳者の平野順雄は訳註の中で「最高人」と訳している。とはいってもこの長篇詩に登場する主人公マクシマス氏が、自らを神のごとき至高者と思い込んだ偏執的な人物であるという訳ではない。たしかにマクシマスと名のる一人称の、「ぼく」から君への手紙で始まる詩篇の冒頭からは、マクシマスを主体とした話者による物語と読むこともできる。以下に引用した序詩は、そうした詩の構造の一端を示唆するかのようだ。
はるか沖合い、血液の中に隠れた島々のそば
宝石と奇跡のそばで、ぼく、マクシマス
沸き立つ海から生まれた熱い鋼(はがね)が、きみに語る
槍とは何か、現在の舞踏の姿に
従う者は誰かを
「はるか沖合い」からぼく(=マクシマス)が語るのは、アメリカ東部はマサチューセッツ州アン岬の漁港都市グロスターの物語だ。しかし沖合いとはいっても、マクシマスの位置は平面的な距離として示されてはいない。そこは同時に自らの血液の中でもあり、血液の中には島が隠れていたり、宝石やらさまざまな奇跡の記憶やらが詰まっていると言うのだ。また語り部として登場するマクシマスは、あるときは「熱い鋼」のような肉体を持った観察者へ変身したり、「槍」のように垂直に立った視点から見下ろす神のような存在に化けたりするのだ。そして「現在の舞踏」のように、変化し続ける運命に従わざるを得ない者たちを、マクシマスは執拗に見届けようとするのである。
この前帰郷した時、おれに
サバ缶をいくつも渡して「帰り道で食えよ」
と言ったが、おれは言えなかった。ピクニックなんかは
御免だ、とは
(「ピック・ニックだと」とパウンドは怒鳴った
それは妻のコンが、フライドチキンを持ってきたから
午後のひととき、聖リズ病院の外へ出て、
アナコスティア川を眺めながら、
テニスコートのそばで食べるのはどう、と提案した時のことだった
おれもコンの思いつきに反対だったが
理由はちがう。テニスコート脇だと、海軍軍用機の
轟音がうるさい、それに、この凄い男の背景には
入院患者たちのおしゃべりの方がふさわしい
黒外套に身を包み、大きな帽子をかぶった全人が
おぼつかなげに歩く、パウンドの
ゆらりとした動作
〈第1巻「手紙6」59行~74行〉
『マクシマス詩篇』には、アメリカへの入植から現代に至るさまざまな時代の記述が、時系列を無視するかのように、まるでフラッシュバックのように極めて唐突に散りばめられている。引用した詩行に出てくる「パウンド」とは、もちろん作者オルソンが敬愛してやまなかった『詩篇』の詩人エズラ・パウンドであるが、晩年のパウンドが収容されていた聖エリザベス病院に、オルソンが妻とともに見舞ったときの様子を、細部に至るまで極めて執拗に記述している。いわゆる日記よりも事細かくその細部を記述するオルソンの姿勢は詩篇全体を貫いており、そうした記述の膨大な積み重ねによって創造のエネルギーを詩行に現出させていると言えよう。
二月十四日の朝出発し、二十四時間後、
海底が岩だらけのジョージズ浅瀬の南側に到着。百隻もの船が
群れ集まり、半マイルか、船によっては一マイルの間を空けて、それぞれ
手釣り糸を垂らしていた、鱈(たら)が産卵する海域なのだ。
漁と天候は、幾日も良好。寒さは厳しいものの
船の手すりの同じ場所に、丸一時間たちっぱなしで
いることもあった。そして、オヒョウでも釣り上げようものなら、コックがお祝いに
プラム入りのパンケーキを持って来たものだ。それにコーヒーも。
〈第2巻「ジョージズ浅瀬に関する第一の手紙」7行~14行〉
翻訳した平野順雄の訳註によると、この部分はジョージズ浅瀬を襲った嵐の記述で、ジョージ・H・プロクター著『漁師の備忘録』(1873年)中の「1862年2月24日にジョージズ浅瀬を襲った恐ろしい嵐について。初めから終わりまで現地にいた者の体験」と題された章からの引用だという。『漁師の備忘録』がどのような本であるかは想像するしかないが、おそらく体験談を集めたような本ではないだろうか。漁師が覚えておかねばならない様々な困難のケーススタディを紹介したものだろう。だとすると、オルソンは詩の中で現場の臨場感をよりリアルに表現するために、原文(おそらく散文形式で書かれていると思われる)をそのまま詩行の中に挿入する通常の引用ではなく、原文を行分けにアレンジしたうえで引用していることになる。
二十四日の日没後に突然、天候が変わり始めた。雲が重くのしかかり
風が立ち始め、海が荒れた。午後八時、不安になった船長は
空と水平線から目を離さなくなった。風はすでに、
北東に変わり、風力も増している。雪が降り出した、初めは静かに
降っていたが、次第に激しくなっていった。
船長は船首へ行って錨鎖を調べ、十尋(ひろ)分鎖をゆるめよ、と
指示を出した。日没以来、索具(さくぐ)の照明を点していたので、
他の船の姿はまだ見えていた、この時、船長の警告があった
今夜は全員、寝ずの当直をする、眠れる者は今のうちに
眠っておくように、と。われわれは八時半頃、船室へ降りていった。
〈第2巻「ジョージズ浅瀬に関する第一の手紙21行~30行」
『マクシマス詩篇』全体を通して、訳者の平野は几帳面なほど忠実に、ほとんど逐語訳のように原文を日本語に置き換えている様子が見受けられる。引用箇所の14行目「プラム入りのパンケーキを持って来たものだ。それにコーヒーも。」とか、28行目からの「船長の警告があった/今夜は全員、寝ずの当直をする、眠れる者は今のうちに/眠っておくように、と。」のように、日本語の文章として読み得るぎりぎりのところまで、原語と訳語とのタイポグラフィーの一致を図っているのだ。
平野が意図したであろう逐語的翻訳が、オリジナルテクストの価値を日本語に的確に移し得たかどうかは、今後増えていくであろう本書の読者による判断を待たねばならないだろう。もちろん作品部分だけでも1000ページを優に超える訳業である以上、すでに偉業といって間違いないが、だからこそこの翻訳が来るべき第2、第3の日本語版『マクシマス詩篇』を生み出すための土台になるためには、翻訳を通した『マクシマス詩篇』の価値判断を様々な角度から下す必要があるのではないだろうか。たとえば、平野訳は日本語として必ずしもこなれているわけではないため、誰もが意味を理解しながらすらすらと読み進められるわけではない。しかしそこにこそ訳者としての、『マクシマス詩篇』に対する価値基準が表現されているとも言えるのだ。
平野もまた『マクシマス詩篇』を、意味的に還元すればそれで理解できるような詩とは考えていない。当然そこには、オルソンの提唱する「投射詩論(プロジェクティブ・ヴァース)」の存在があるには違いない。ここでは「投射詩論」を詳しく説明しないが、乱暴な言い方を辞さないならばそれは、詩の主題を言葉の意味から理解するというよりも、言葉と言葉の繋がりが発現する詩そのものの力を感受すること。つまり詩とは理解するものではなく、体験するものであると言うことになるだろう。もちろん「投射詩論」によって創作された詩文を、それと判るような日本語に写すことには無理があるが、言語に対するスタンスが共有できさえすれば、「投射詩」の効果を日本語に訳すことはそう難しい話ではない。
カヴェサ・デ・ヴァーカは
グアンチェ族から贈り物をもらい
病を治せるようになった
ニュー・メキシコ州のコラソーネで
実際に病を治し、彼の名前は
人々の記憶するところとなった
フエルテヴェントゥーラから出て、天狼星(シリウス)をたよりに、
グラン・カナリア島を横切って、進んだグロスターは
グアンチェ族と言っても良いほどだ
だからグロスターもグアンチェ族同様
よく思われ、よく感じられる場所を
人々の心の中でもてますように
〈第三巻より〉
引用した詩行のように『マクシマス詩篇』には、全編を通じてさまざまな固有名詞が頻出する。それはアメリカという「世界」の特質そのものであるかのようだ。もちろん固有名詞には特定のイメージ(=意味)がある。しかしそれはその固有名詞を知っている場合に限ると言っていい。知らなければ名前であるという以外に意味はない。英文の翻訳においてほとんどの固有名詞がカタカナで表記されるが、そうしたカタカナの羅列が意味を持つには、「パウンド」や「グロスター」のように人名や地名として知っていることが前提だ。知らなければそれは単なる音にしか過ぎない。
『マクシマス詩篇』に頻出する固有名詞がアメリカ的な「世界」そのものであるとは、広大な空間にお互い何の繋がりもないもの同士が、群れ集うと同時に擦れ違うような様態を指す。固有名詞とは「世界」=「アメリカ」を構成する単位(モナド)なのだ。それは意味の無い記号であるがゆえに、容易く時代を飛び越えてしまう。そして異なった歴史に存在したもの同士が結びついて新たな時代を立ち上げる。つまり縦の時間軸と横の平面軸が交わる立体な世界像が現われるのだ。そのような世界においてもマクシマスは、群れ集い擦れ違うひとりひとりを描写すべく執拗な観察を続けるのだ。
ひとたび立体化した「世界」はその境界を食い破ろうとして、自身の欲望ともいうべき創造のエネルギーを滾らせる。第三巻になると主人公マクシマスは、第一巻の生地グロスターや第二巻で舞台となった都市ドッグタウンといった限定された空間から抜け出し、自らが至るあらゆる場所にコミットしようとする。そうしたマクシマスが遍在する空間の中で、血液中を流れる血球を描くかのような詳細かつ執拗な描写が続く。だが、そうした描写の積み重ねが知らず知らず観念的な言葉を招き寄せてしまう。マクシマムが自らを語りだすのはこのときである。
わたしが住むのは
日の光の射さないところ
わたしは墓石
あるいはその下の地面
わたしの人生は埋もれている
あらゆる種類の通路とともに
両脇の道も正面の道も、地面に
下っていくだけ
あるいはコネティカット州北東の、長い、優れた、伸び伸びした石垣に
組み込まれるだろうか
十八世紀の道が今でも何本も通る
王国のような石垣に
〈第三巻終結部〉
人は老いるに従い過去の記憶に執着するようになるというが、マクシマスとて例外ではないようだ。詩篇も終わりを迎えるにつれ、語り部であるマクシマスは作者オルソンと一体化するように寄り添い始める。いつしか歴史はひとりの記憶と分かち難くなる。そうして記憶の全てが現在と摩り替わっていく。とはいえ現実の老人とは裏腹に、マクシマスの創造エネルギーは枯渇する気配すら見せない。むしろエネルギーそのものがテクストの永続へ向けて再生されたかのようだ。つまり過去と現在が擦れ違うことで、長篇叙事詩という歴史を創造してきたエネルギーが、『マクシマス詩篇』そのものの創造エネルギーとして再生されているのだ。
別種の国家を
創始すること
その一撃こそが創造
それに、ひねり キンレンカなのだ
われわれの誰もがその一撃であり
創造のすべてが起こる場所なのか?
母 大地 孤独
〈第三巻終結部〉
マクシマスの長い旅もようやく終着点にたどり着いたかに見える。その旅は「別種の国家」の創造にあった。つまり新たなアメリカ建国史の創出という船出の目的は果たせたと言ってもいいのだろう。と同時に、もう一つの詩人オルソンとしての目的でもあった、創造するエネルギーの具現化という「その一撃」も。ただし、「われわれの誰もがその一撃であり/創造のすべてが起こる場所なのか?」というように詩篇が疑問で終わっていることから、素直にこれが終着点とは考え難いのもたしかだ。巻末の詳細な解説で平野が言うように、詩篇が未完である所以とも言えようか。
もちろんこれだけの大冊であれば、むしろ完結するほうが奇跡かもしれない。二万七千行にも及ぶパウンドの『詩篇』にしても完結したとは到底言えない。この書評冒頭でも触れたように、歴史と構造に支えられた長篇叙事詩は、「現代」という「世界」の鏡像たることを必然的に強いられる。繰り返しになるが、「現代」という「世界」に混沌しか見出せないとしたら、その詩篇もまた未完にならざるを得ない。もちろんエリオットの『荒地』といった、完結した長篇叙事詩も文学史上には存在する。しかしそうした「成功」が文学の革新にどれだけ貢献し得たかは、現在の世界文学におけるエリオットの評価を省みるに、はなはだ疑問と言わざるを得ない。
平野は『マクシマス詩篇』を指して、パウンドの『詩篇』とウィリアムズの『パタソン』と並ぶ、現代アメリカ文学を代表する長篇叙事詩と紹介しているが、先行する両者のいずれもが、作品として完成しているとは言い難い。が、その文学に対する影響力は、今なお計り知れないほど大きい。『マクシマス詩篇』にしても、同じく作品としては未完であるばかりか、その文学的評価もいまだ確定してはいない。何しろこの翻訳によってやっと、『マクシマス詩篇』の全貌にまみえることができたばかりなのだ。しかし、こうして全巻を通読して初めて、『マクシマス詩篇』が次代の世界文学を革新していくであろうことを予感した。何よりもそのエネルギーがそう確信させたのだ。
『マクシマス詩篇』は、「わたしの妻 わたしの自動車 わたしの色 そして わたし自身」という一行で終わる。おびただしい名前を辿ってきたマクシマスの旅も、ついにマクシマス自身へと至ったわけである。マクシマムからミニマムへ。そしてミニマムからマクシマムへ。極大と極小の間を往還するこの現代の長篇叙事詩の全航跡は、いま明らかになったばかりである。
田沼泰彦
【書籍データ】
書 名:マクシマス詩篇
著 者:チャールズ・オルソン
編 者:ジョージ・F・バタリック
訳 者:平野順雄(ひらの・よりお)
発行所:南雲堂
発行日:2012年2月20日
定 価:32,000円(税別)
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■