世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二、命名・安太
さっき来たばかりだから道には迷わなかった。あっという間に池袋の駅だ。とりあえず立ち飲み屋に入る。ロング缶二本の効き目が切れないうちに補充しないと。運ばれてきた大瓶とポテトサラダを前に溜息をひとつ。言葉にするなら「くだらねえ」。一応口には出したけど、半端な結果になっちまった。
あの後バーバラはパニックになった。引き抜くのが遅れていたら食いちぎられていただろう。危ないところだ。口に溜まった俺のを吐き出すと、逃げようとしたのかベッドから転げ落ち、顔を覆って「どうしてどうして」と泣き喚いていた。射精直後の俺はぼんやりするだけ。脱がすはずだった薄紫の下着を目で追っていた。
なんで「校長先生!」と叫んだのか、自分でもよく分からない。でも気持ち良かったのは確かだ。騒ぎに気付いたあんたは浴室から出てきて、全裸のまま慌てることなくバーバラをなだめていた。濡れたままの貧相な身体。口パクで「どうした?」と訊くので、口パクで「校長」と答える。あんたは一瞬顔をしかめた後、顎で「出ていけ」と告げた。
逆らっても仕方ないので、素直に従い今は立ち飲み屋。俺以外は外人のカップルと小さなジジイが一人。シャワーを浴びてないせいか、気持ちが切り替わらない。あんたはまだバーバラをなだめているんだろうか。それとも続きをおっ始めているんだろうか。口に突っ込んだ時のバーバラの顔を思い出し、突っ込んでた部分が熱くなる。こんな時、人は風俗店に行くのかもしれない。
ここは池袋、隣は大塚。その気になれば店は何軒もあるが、結局射精してもすっきりはしないだろう。ひとまずホーム・グラウンド、俺とあんたが出会った下北沢に行こうと会計を頼む。大瓶とポテトサラダで税込七百円。さっきのコーヒーと同じ額だった。
店を出て下北沢まで約三十分。念の為、道々メールやLINEで誘いをかけてるが、今のところ朗報ナシ。さすがゴールデンウィーク最終日。女たちは明日のために身体を休めているようだ。でもまだ午後六時。希望は捨てていない。
さあ、どこで連絡を待とう。馴染みの店ならどこへ行っても、あんたのことを訊かれるはずだ。今頃バーバラとぐちょぐちょやってるかと思うとうんざりだが仕方ない。この界隈であんたはちょっとした有名人。みんな酒の肴にしたがってる。十年前、初めて会った時からそうだった。まあ、俺の分までバーバラを堪能しといてくれ。有名税、ちゃんと払っといてやるから。
だらしない男。
あんたのイメージはそれに尽きる。ダラダラというよりノラリクラリ。掴みどころがない。そして呑み屋にとっては少々厄介な客だ。無銭飲食はしないが、酔い潰れて床で寝る。滅多に絡みはしないが、絡まれたらずっと離さない。界隈の連中はみんな困った顔して言うんだ。
「まぁ、だらしないんだよねぇ」
だからよく訊かれる。何であんなのとつるんでるの、って。
そう、みんなは知らない。俺とあんたが一緒になって、ぐちょぐちょやってるなんて夢にも思ってない。外からは接点も共通点も見えないらしい。
無趣味な俺には呑み屋で熱く語れるネタなんてないし、主義・主張だってない。あんたの言うとおりノンポリだ。ノン・ポリシー。その点あんたはネタに困らない。吐いて捨てる程あるんだよな。いつかそうからかうと、「捨てられないのが悩みの種だ」って呻くように呟いてた。周りは笑っていたけど、あれ本音なんだろう?
足の向くまま寄ったのは、下北の中心部から少し外れた老舗の立ち呑み屋「大金星」。定員三十名以上の店内に、客の入りは半分弱。やはりゴールデンウィーク最終日は、家でゆっくり休みたくなるらしい。メニューが書かれた短冊まみれの壁を眺めてから、結局また大瓶とポテトサラダを頼む。別に呑みたいわけじゃない。粉をかけた女たちからの連絡を待っているだけだ。でも何の連絡もないまま十分経過。もう瓶が半分空いちまった。常連たちがポツポツあんたのことを訊き始める。
最初は探るように「あれ、今日はひとり?」。次に「今日は一緒じゃないんだ?」と一歩踏み出し、「最近会ってないの?」と上がり込んでくる。近頃はあんまりね、と濁したのはバーバラの薄紫の下着を思い出したから。本当は俺が剥ぎ取るはずだったのに、と横取りされた気分だ。少しノリが悪かったかもしれないが、常連たちは気にする風でもなく、あんたを肴に呑んでいる。放っておけばいいのに、みんな構っちまうんだ。
焼き鳥屋のコウさん曰く「害は無いんだよなぁ」。
そう、害は無い。ほぼほぼ人畜無害。喧嘩をふっかけるわけでも、女を殴るわけでも、勘定をごまかすわけでもない。
女優の卵五年目のトミちゃん曰く「害とまではいかないのよ」。
なるほど上手いこと言う。たしかにあんた、害未満の何かはやらかしてるんだ。寝たら忘れちまうような何か。人に話そうとしたら思い出せないような何か。
中華屋バイトのワダテツ曰く「でも自分は害のある男だって思ってんじゃないっすか?」。
お調子者のキレのいい一発で店内大爆笑だ。店主のキンさんも、その娘でバイトのマドカちゃんもみんな笑ってる。実際にあんたがいる時よりみんな楽しそうだ。
あんたは――、いや、ここにいないのに何度も「あんた」って呼び掛けるのは虚しい。ハリボテを相手にしているみたいだ。でも、だからといって本名で呼ぶとしらけちまう。興醒めだ。
そうだ、新しい名前をつけてやるよ。あんたはアンタなんだから……「安太」で構わないだろ? 安っぽいくせ、やけに図太い。ほら、意外といい名前じゃないか。ちゃんと体を表してる。何だか少し気が軽くなった。マドカちゃんに大瓶をもう一本頼む。命名祝いだ。時間は七時過ぎ、まだ誰からも連絡は来ない。
安太は三十九歳の売れない絵描きだ。
売れない、じゃなくて売らないんだ、とニヤつく百七十センチの痩せっぽち。美大を出てると言っていたが嘘かもしれない。バツイチと言っていたが多分そっちは本当だろう。純粋な絵の儲けは月に二万弱、と出会って間もない頃、聞いてもいないのに耳打ちしやがった。
いや、その二万の話さえ怪しいところだ。俺は安太の絵を見たことがないから、どことなく信じ難い。女に貢がせてるのか、親から仕送り貰ってるのか、何処かからちょろまかしてるのか、とにかく収入源は不明。
駒場辺りのコンビニで働いているのを見かけた、という噂なら聞いたことがある。時給がいい深夜のシフトだからいつも変な時間に呑み歩いてるとか、勤務態度良好で雇われ店長にならないかと誘われてるとか、まあどれも安太らしい話だ。
でも俺は何も言わない。深夜、そのコンビニに行って確かめようとも思わない。自分が可愛いから何も知りたくない。安太にそんな事実を突き付けたって仕方ない。気分が悪くなるのは間違いなくこっちの方だ。
安太は酔っ払うと泣く。女がいる時は絶対泣かないくせに、俺と二人だと結構な確率で泣く。ひどい時はみっともないくらいにしゃくりあげる。カウンターやテーブルに突っ伏したまま、小刻みに肩を震わす姿を何度見たことか。理由はいつもよく分からない。みんなはそれを見てニヤニヤ笑ってる。
笑われる理由はよく分かる。人前で泣く、ってのは特別な権利だ。ある程度の「蓄え」がなければ手に入らない権利。蓄えるのはもちろん金じゃない。上手く言えないが、そいつの生き方みたいなものだ。
安太が「生き方」を持ってない訳じゃない。安太の「生き方」と、人前で泣くという行動が不釣合いなだけ。いや、バランスが良すぎて嘘臭いのかもしれない。そういう嘘臭さはどんな店でも、どんな世界でも、どんな時代でも決して歓迎はされない。せいぜいニヤニヤ笑われて終わりなんだ。
結果、大瓶三本空けて「大金星」を出た。コウさんやトミちゃんはまだ呑んでいて、安太によろしく伝えてくれと手を振られた。あまり食べてないからか、酒の効きが早い。あれから四件連絡は来たが、これから会える女はいなかった。今日はダメかもな、と思いながらもう一軒。安太はそろそろホテルを出る頃だろう。まさか延長してるんじゃないだろうな。
知った顔には会いたくなかったので、初めての店にした。「ランブル」という地下のバー。扉を開けた瞬間に一杯で帰ることを決める。理由は簡単、椅子が高すぎる。あれじゃ落ち着いて呑めやしない。近頃本当に腰痛がひどい。もう来年三十歳だ。結婚しててもおかしくないし、離婚してても不思議じゃない。
意外と狭い店内の中心にはカウンター。端っこに席を取る。やっぱりこんな椅子じゃダメ。腰が落ち着かない。ぐるっと見渡してみる。天井から吊り下げられているのは派手なロードバイク、奥でチカチカしているのはピンボール台、壁際にはいくつかの観葉植物。とにかくバランスが悪い。ちぐはぐだ。つるっとした顔の若いバーテンに頼んだのはマティーニ。これ一杯でとっとと出よう。先客は若い女が二人。楽しそうな声が掃除だけは行き届いた薄暗い店内に響いてる。
この場所、数年前は違う店だったような気がするがなかなか思い出せない。頼りない記憶をどうにか呼び起こしながら、バーテンの動きを眺めている。素人目に見てもぎこちない。ある意味ちぐはぐ。でも多分、昼に飲んだコーヒーよりも高いんだろう。こういう嫌な予想はきっと当たる。やっと出来たマティーニを差し出しつつ、「おつまみの方はいかがいたしましょう」と微笑むバーテン。これじゃあ居酒屋だ。すぐ出るんで、とメニューを突き返す。
うっすら流れるBGMは日本語のラップ。ちぐはぐもここまで来れば立派だ。今まで気付かなかったのは、それをかき消すくらい女たちが盛り上がっていたから。二人ともギリギリ二十歳、下手すりゃ高校生だ。
「それマジかよ」
「違えし」
「だって今焦ったべ」
「だから違えし」
意気がった服装と口調が、ちぐはぐな店にハマってる。やらしくなくて助かった。ちっとも気にならない。あれに声をかけたら「ヤバい」とか「無理」とか言って笑われるんだろう。
似たような言葉だが、「ヤバい」はまだ許せる。ギリギリセーフ。でも「無理」という評価は厳しい。完全にアウト。「ヤバい」と「無理」には、僅かだけど決してなくならない違いがある。そういうところ、安太は俺より更に敏感だ。シラフの時は、という条件付きだけど。
他人にどう思われているか。
その理由はどこにあるのか。
だったら今どう振る舞うべきなのか。
安太はいつだって気にしてる。だから女に声をかけるのが上手いのかもしれない。いや、正確には向こうに声をかけさせるんだ。そういう風に仕向けるのが抜群に上手い。別に必殺技がある訳じゃない。何となくそういうムードに持っていく。それに関しては、本当お見事だ。そんな一連の流れの中で、個人的にツボなのは仕事を訊かれた時の安太。
「うん、まぁ絵を描いたりしてるんだけどね、うん、いや全然全然、食えないもんだよ、なかなか」
普段でさえ、くぐもっていて聞き取りづらい声が、更に聞き取りづらくなる。でも御心配なく。本当に聞き取れなくなることは断じてない。匠の技だ。後はいい頃合いで「始発までアトリエで呑み直さない?」と興味なさそうに呟く。俺は毎回「何がアトリエだ」と突っ込みたくなるが、もちろん我慢。最終的に交渉成立なら安太の家に行ってぐちょぐちょ。一昨日の仙台のOL二人組もそうだった。「えー、アトリエ、見たい見たい」と、酔っ払いながら目を輝かせていた。
自称アトリエの安太の自宅は下高井戸。年季の入った築四十年以上の木造アパートだ。アトリエ、と言われてなければ大抵の女はその場で帰っちまうだろう。嘘も方便、とはよく言ったもんだ。
部屋は二階の一番奥。古臭い木目調のドアを開けると、すぐにキャンバスが見える。何も描いてない真っ白なキャンバス、画材の入った木箱、黒い小型の冷蔵庫、床に置かれたテレビとビデオ、埃が絡んだコンセントのコード、三畳と六畳の二間には大きすぎるクローゼット、そしてレンタルビデオ店の袋――。
それしかないんだ。ベッドや布団もない。寝る時は床に転がるだけ。冬は服を着たまま、夏は上半身裸でゴロンと。本当のアトリエってあんな感じなんだろうか。分からない。安太があそこで絵を描いているかどうかも分からない。
数年前、訊いたことがあった。あの真っ白なキャンバスに絵は描かないのか、って。すると微笑みながら安太はこう言ったんだ。
「あそこに描くのは人生最後の絵だからさ、なかなか描き出せないんだ」
ほざいてろ、このペテン野郎。
ぐちょぐちょに大差はないから、偽アトリエの記憶はひとつの塊だ。あまり分類されてない。
わざとらしく缶ビールに口をつけた安太が、面倒くさそうに灯りを消して暗闇にする。それがいつもの合図。目が慣れてしまわないうちに女を抱き寄せてコトは始まっちまう。たとえどっちがいいなんて好みがあっても、そうなったら構ってられないんだ。互いの匂いを擦り付け合い、唾液や体液で境目をなくそうと試みる。何度も何度も試みる。当然、集中し過ぎてやり過ぎちまう夜もある。
何年か前の夏、日本語ペラペラのフランス人二人を連れ込んだ時、隣の部屋の奴が怒鳴り込んできた。まあ、気持ちは分かる。二人とも声がデカかった。午前二時くらいの話だ。ああいう時の安太はどこまでも腐りきってるから、予想外の行動で楽しませてくれる。ペラペラのフランス人と手をつないだまま、全裸で玄関先に出て「ご一緒にどうですか」と真面目な声で言いやがった。次の朝聞いたら、怒鳴り込んできたのは長髪の若者で、向こうの方が小声で謝っていたらしい。
「頭おかしい奴だと思われたかな」
明け方、そう呟いてまだ寝ているペラペラのフランス人の乳首を足の指でつまんでた。画面には古い映画のビデオ。映画が苦手な俺は名作のタイトルをかろうじて知ってるくらいで、俳優の名前なんて全然分からない。でも、あのアトリエでぼんやり画面を眺めているのは好きだ。すっと入って、すっと出ていく感じ。たまに安太はタイトルや俳優の名前を教えてくれる。
「フェラティオ、シマショウカ」
あの日もぼんやり映画を見ていると、目を覚ましたペラペラのフランス人にそう言われたんだ。どうやらそれが気に入ったらしく、安太はそれをよく真似しては笑っていた。いや、この間会った時もまだ言ってただろ。
――フェラティオ、シマショウカ。
本当に下らないな。
ヨーグルトを使ったりしたのもあの時だ。砂糖まぶした方がやっぱり旨いよ、と呟いた横顔。十歳上とは思えない幼い横顔。やってる最中の安太はいつもよりも若々しい。そして変な声をあげながら射精した後は、いつもよりも老けている。たしかさっきもそうだったはずだが、よく思い出せない。
さあ、そろそろ腰も限界だ。今日はおとなしく帰ろう。その前に、とトイレに入っておく。もうこの店には来ないだろうから、最後にトイレのちぐはぐさを確認したかった。
結果は期待外れ。黒一色の至って普通の造りだった。もちろん洗面台も普通。何だか煮え切らない日だったな、と鏡の中の自分に同情する。結局、女たちからの返信も四件だけ……ではなかった。新しくメールが来ている。ナオからだ。ただ素直には喜びづらい。さっき誘いをかけた中にナオは入ってない。知り合ってからは長いが、会わなくなって二、三年経つ。だからLINEも知らない。偶然連絡をよこしたんだろうか。
久しぶり/さっき「ランブル」に入っていかなかった?
なるほど。どうやら見られていたらしい。正解、とだけ返す。残念ながら、ナオはこれから呑みたいタイプではない。さあトイレを出よう。と、すぐに返信が来た。
一人なら気をつけて/そこボッタクリ!
穏やかじゃない内容だ。これなら煮え切らない日のまま終わってほしかった。
(第02回 了)
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