世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
一、モーパッサンのバーバラ
ジャケットが少し窮屈だ。太った覚えはない。つい三日前も体重計に乗ったが、特に変化はなかった。来年三十歳。年取るとさ、体重そのままでも余分な肉が付くんだよね。さっき来年四十歳のあんたはそう言った。ピンとこない。知り合ってからそろそろ十年。全然変わらないように見えるけど、案外そうでもないのかな。
最後にあんたの裸を見たのは……と考えるのも馬鹿らしい。一昨日、仙台から遊びに来ていた二人組のOLを連れ込んだばかりだ。二十七歳のマオちゃんと二十八歳のヒナコちゃん。ゴールデンウィーク後半はずっと東京だと言っていた。あの子たち、ディズニーランドを満喫できたかな。
それにしてもコーヒーが不味い。七百円はふざけてる。看板には「ラウンジ」とあったけど、ここはビジネスホテルの二階、場所は池袋の片隅だ。ただの薄暗い喫茶店じゃないか。BGMのクラシックだってどこか安っぽい。これが三百五十円なら? とあんたに訊かれ「普通」と答えた。
「じゃあ百五十円なら?」
「まあまあ旨い」
笑われたけど、味ってそういうもんだ。結局あんただって、ほとんどコーヒー残してるじゃないか。
さあ、そろそろ四時。モーパッサンのバーバラが来る。当然初対面だが、俺はあんたの写メで向こうの顔を知っている。確かにモーパッサンだ。あんたが太った女をそう呼びだしたのはいつからだっけ? 怪訝顔の俺に、そんな代表作がある小説家の名前だと教えてくれた。その本も貸してくれたけど読んでいない。まだ家のどこかにあるはずだ。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開き、バーバラが入ってきた。眼鏡をかけているが間違いない。時間は四時ジャスト。辺りをキョロキョロ見回している。
黒のスカートにグレーのジャケット、胸元にはコサージュ。フォーマルというか少々堅すぎるが、それもあんたの指示だろうか。立ち上がって一礼すると、頭を下げながら近付いてきた。手元には高そうな黒皮のハンドバッグ。何かを探るような視線に、ゆっくりと微笑みを返す。
「えっと……」
「あ、今ちょっと席を外しています。すぐ戻りますので」
「ああ、はい……」あんたが残していったコーヒーをちらりと見るバーバラ。「そうですか……」
眼鏡は縁なしで金の鎖が付いている。服を着ているからか、写メよりも太っていない。俺が見たのはバスタオル姿のバーバラ。多分ホテルで撮ったんだろう。
「メニュー、これです」
「あ、すいません」
こんな状況だから不安げな表情だが、元々の顔立ちはきつめ。意志の強そうな目と、筋の通った鼻。どことなくエキゾチックな感じがする。ハーフかクォーターかもしれない。
バーバラ、と命名したのはあんた。そういう名前のアメリカの女優に似ているらしいが、そもそも俺は映画を観ない。ただ、目の前のバーバラが若い頃に綺麗だったのは分かる。今だって十キロ落とせばかなり違う。でも、その十キロ余分なところが、あんたは気に入ってるんだ。間違いない。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
「ええ、アイスミルクティーで」
八百円。絶対不味い。高いっすよね、と思わず言いそうになる。初対面・五十八歳の女性にかける言葉としては不適切だ。じゃあ何から話そう。考えていると目が合った。気まずい。あんたは彼女を「本や映画に詳しくてさ、話してて飽きないタイプだよ」と言っていたが、俺は両方とも苦手だ。おまけにスポーツや音楽にも疎い。本当、こういう時の話題は難しい。お互い目が合う度に微笑むだけで、無駄に時間ばかりが過ぎていく。
多分、もう一度あんたのことを訊かれるだろう。どう答えようかと考えるのは面倒くさいし、何なら今こうしているのも面倒くさい。だからアイスミルクティーを運んできたウェイトレスが立ち去った瞬間、リモコンのスイッチを入れた。ひ、と声を出し彼女の身体が大きく揺れる。ウェイトレスが振り返ったので、慌ててスイッチを切った。俺の顔を凝視しているバーバラ。この感じだと、あんたは話していないのかもしれない。
「え、あの、これって……」
にこっと微笑んでまたスイッチを入れる。今、バーバラの奥に突っ込まれたローターは小刻みに震えているはずだ。二度目だからか声は洩らさなかったが、身体の震えはなかなか止まらない。
「お願い、ちょっともうやめて、ねえ」
顔を歪め小声で懇願するバーバラに少しだけ欲情した。あんたに言われてローターを仕込んで来たら、リモコンを操っているのは初対面の男。そんな状況が彼女の何かを剥がしている。
「纏ってるものを剥がすのがいいんじゃない?」
昔、あんたはそう言ってた。会って間もない頃、俺は大学生だったと思う。
「女の裸、見たいけどさ、見せてもいい裸じゃ興奮しないよね」
「見せてもいい……?」
「脱がす為の服を脱がしてもつまらない、って言えば分かるかな?」
俺はあの時分かった振りをした。十歳年上のあんたになめられたくなかったから嘘をついたんだ。でも今はちゃんと分かる。俺はバーバラの剥がしてはいけない何かをひん剥こうとしてる。
「やめなさい……!」
軽く前屈みになりながら、彼女は少しきつい口調になる。スイッチを切ってやると、大きく息を吐き出した。もちろんすぐオンにする。
「い……」びくっと背筋を伸ばす。「ちょっと……やめなさい、やめなさい……!」
眉間に皺を寄せて睨みつけるバーバラを見ながら、あの話は本当だなと確信する。彼女は数年前まで群馬で小学校の校長だった、という話。でも、あんたが知っているということをバーバラは知らない。まだ言うなよ、と俺もさっき口止めされた。
「いいからすぐにやめなさい」
何だか懐かしい。そうそう、先生ってこういう顔で叱るんだった。
席の場所は店の一番隅。近くに客はいないし、ウェイトレスの待機場所は対角線上。絶好のポジションだ。おまけに俺の位置からは全景が見渡せる。それをいいことに、結局十五分くらいスイッチを入れたり切ったりしていた。こんなAVみたいなこと、初めてだ。ある時からバーバラは眼鏡を外し、懇願も抵抗もしなくなった。観念したのか納得したのかは分からない。少しだけ会話らしい会話もした。もちろん、スイッチはオフだ。
「今日、僕が来ることは……」
「いえ、まったく。ただ……」
「ただ?」
「ええ、こういう時が、何と申しますか、いつか来る可能性といいますか……」
それ以降は何の躊躇もなくリモコンを使えた。オン、オフ、オン、オフ。あれなら七百円のコーヒーだって旨い。俺が楽しみ過ぎたせいか、バーバラもアイスミルクティーをほとんど残していた。
あんたからメールが来たのは一度だけ。移動完了の報告だ。てっきりこのビジネスホテルに部屋を取っていると思い込んでいたが違った。そそくさと席を立って会計を済ます。合計二千二百円。トイレに入ったバーバラを待っている間、道順を調べた。ここから徒歩十分。名前から察するにラブホテルだろう。ごちそうさまでした、と頭を下げる彼女に尋ねたが心当たりはないと言う。
そろそろ夕方だが、外はまだ明るかった。気候も丁度いい。暑くもなく寒くもない。ゴールデンウィーク最終日、空港は朝から混雑していると昼のニュースでやっていた。海外帰りのサングラスをした小学生のガキが、「楽しかったです」とインタビューに答えているのを見てチャンネルを替えたんだった。バーバラはどんな連休だったんだろう。案外昨日まで海外にいたんじゃないのか。
二十九歳と五十八歳が並んで歩けば親子に見える。ちょうど俺の倍。当然記録も更新する。今までの年上ランキング一位は五十一歳だから、一気に七歳アップ。ちなみに年下ランキング一位は十五歳、中学三年生。ヤバい響きだが相手は同級生。甘酸っぱい思い出だ。
途中、缶ビールを買おうとコンビニに寄った。このままシラフでいける自信はない。俺はあんたと違うんだ。酒で勢いをつけたい時もある。ロング缶を二本持ち、レジ前の列に並びながらスイッチをオンにした。十メートルまで電波は届くらしい。バーバラは店の外で待っている。瞬間ガクンと体勢を崩した彼女は、咳払いをしてごまかしていた。
古びた雑居ビルが立ち並ぶ通りに、目的のホテルは唐突に現れた。ひょろっと細長い建物だ。見る限り駐車場もないし、看板も小さくて目立たない。もう少し暗くなれば見落としそうな、くすんだ雰囲気に包まれている。
さあ、どうしよう。普通なら三人一緒に入るが、一人はもう部屋の中だ。フロントであんたの名前を告げればいいのかな、でも本名を伝えてるとは思えないしな……。このままバーバラと二人、ラブホテルの前で悩んでいても仕方ない。あんたに連絡をする。答えは簡単、「どこですか、って訊くだけで大丈夫」。まあ、確かに部屋番号を尋ねる客なんて滅多にいないか。
部屋は四階の二号室。狭苦しいエレベーターの中で、バーバラの手を握って微笑みかける。キスを拒まれたので、右の耳を強引に舐めた。嗅いだことのない香水の匂いと、抵抗する仕草に欲情する。別に狙っていたわけではない。多分、ロング缶二本のせいだ。中途半端な感じになってしまったが構わない。後でたっぷり楽しんでやる。
鍵のかかっていない二号室に無言のまま入る。まず聞こえたのは女の喘ぎ声。壁掛けの液晶テレビにはアダルトチャンネルが映っていた。その脇には馬鹿でかい鏡が貼り付けてある。何というか、趣味の悪さが中途半端だ。
靴を脱いで部屋に上がる。テーブルにはスーパーで買った酒と肴。あんたに軽く手をあげ、腰を降ろしたソファーの色は濃い黄緑色。これも中途半端に趣味が悪い。訊けば予め五時間、部屋を押さえているという。一時間分オマケするって、とかったるそうに服を脱ぐあんた。やっぱり体型、昔と変わらないじゃないか。
バーバラは俯いたまま突っ立っている。シャワーは後でいいよね、というあんたの声に「でも」と呟いたが、すぐに「はい」と返事をして黒革のハンドバッグをテーブルに置いた。
「じゃあ、ベッドに座って」
「はい」
「喉、渇いてる?」
「いえ、大丈夫です」
「服はそのままでいいからね」
「はい」
あんたに会って安心したらしく、彼女の表情も声も柔らかい。ただ気になるのは従順すぎる態度だ。普段からこんな感じなのか。それともそういうルールなのか。そういえば二人のプレイについては何も聞いていない。ただ、お声がかかっただけ、今日はゲストだ。とりあえず余計な口出しはしないでおこう。
あんたはバーバラにタオルで目隠しをして、俺にぼんやり微笑みかける。そうだ、返す物があったんだ。立ち上がりポケットからリモコンを取り出す。馬鹿でかい鏡に映っているのは、無言のまま受け渡しをする俺たち。その間抜けさに思わず笑いが込み上げる。あんたもつられて笑った後、リモコンのスイッチを入れた。いやーーーっ、と身悶えながらベッドの上で転げるバーバラ。あの喫茶店では相当我慢していたらしい。
今求められているのは動画の撮影でも、いきなり参加することでもない。このソファーでぼんやり待つことだ。三人の時はいつもそう。先攻はあんた、後攻は俺。同時に攻めることはない。多分、同時に攻めたらお互い自爆するだろう。
ソファーに寝そべり天井を眺める。ここには鏡が貼り付けていない。やはり中途半端だ。テレビの中では綺麗な顔の若い男女が、汗まみれになってセックスをしている。女の喘ぎ声には陰りがない。とっても健康的で、ちっともやらしくない。
あんたが買ってきた酒はプライベートブランドの発泡酒が数本。肴もプライベートブランドだ。品質は同じかもしれない。いや、もしかしたらこっちの方がいいんだろう。でも、プライベートブランドの百円スナックじゃ気分が乗らない。この部屋に入ってから俺はどこかイラついている。
目の前には薄紫の下着姿のバーバラを罵りながら、ネチネチと尻を叩いてるあんた。五時間あると思って、じっくりやってやがる。三十九歳にしては贅肉の少ない身体だが、貧相といえば貧相だ。尻に唾をかけ下着をずらし、浅いところで出し入れを繰り返している。あんたのは長いから丸見え。その動きに合わせて波打つバーバラの声は高めだ。ごめんなさいごめんなさい、おかしくなっちゃうおかしくなっちゃう――。若い頃の写真、見てみたいな、相当綺麗なんじゃないかな。
気を抜いてたらあんたと目が合っちまった。勃つ前から萎えちまう。なあ、そろそろ目隠し外してやれよ。そんな言葉を呑み込み、プライベートブランドの酒と肴を放り込む。大体察しはつく。ああやって目隠ししながら、黒革のハンドバッグを漁ってバーバラの素性を調べたんだろう。
「本名さえ分かれば何とかなるからね」
彼女が来る前、あの喫茶店であんたはそう言った。何とかなる、という意味が分からない俺を試すような、含みのある喋り方だった。
「ネットで引っ掛かるってこと?」
「そうそう」
どうやら正解だったようだが、結局その先は分からない。長い付き合いだから、脅して金を巻き上げたりはしないと思うがそれも分からない。人なんてすぐ変わる。そう教えてくれたのはあんただった。金か暴力で大抵のヤツはコロっといくんだろ?
「珍しい名前だったからすぐにヒットしてさ。全部小学校絡みだったから間違いないよ」
「小学校?」
「うん。ほら、『学校便り』みたいな月イチで配るプリントってなかった?」
「ああ、あった」
「最近はああいうのをネットにアップしてるからさ」
そうやってバーバラが群馬で小学校の校長だったことを突き止めた。それは分かった。でも、やっぱりその先は分からない。あんたの目的は何だろう。いつもみたく、こうやって楽しむだけじゃないのか。それとも、と考えてぞっとした。あんた、バーバラに惚れてるのかな。
何だか疲れそうだったので目を閉じた。アダルトチャンネルの健康的な喘ぎ声の方がよく聞こえる。うるさいくらいだ。バーバラの声は湿れば湿るほど聞こえづらい。ごめんなさいごめんなさい、おかしくなっちゃうおかしくなっちゃう――。そんな声を聞きながら、喫茶店で向かい合っていた彼女の顔を思い出す。ローターに刺激されながら睨みつける顔、溜息を吐きながら眼鏡を外した顔。色々こんがらがってきた。一度さっぱりしたい。シャワーを浴びようか。タオルの数は足りるかな。それはどうにかなるか。でも俺はソファーの上から動かなかった。本当にさっぱりしたら醒めちまいそうな気がしたからだ。
結局あんたは二度射精した。変な声を出すから数え易い。ちゃんと見てた。腹の上と口の中。で、最後まで目隠しは付けっぱなし。どこかおかしい。いつもとは少し違う。本当に惚れてんじゃねえのか、と思ったが最後、勢いがついちまった。もちろん態度には出さない。ひた隠す。別に恥ずかしいことじゃない。それが普通だ。
プライベートブランドの発泡酒を一気に空け、あんたとバトンタッチ。バーバラの目隠しを外して「また服を着て下さい」と頼む。これは通常通り。後攻としては一度仕切り直したい。
一時間半ぶりの光に顔をしかめながら、自分の服を探し回る彼女。あんたはシャワーに入った。一足先にさっぱりするのは先攻の特権だ。はいこれ、と床に落ちていた黒いスカートを渡してやる。バーバラは「すいません」と受け取り、俺に背を向けながら喫茶店で会った時の格好に戻った。
「これで、いいですか?」
本当は眼鏡もかけさせたかったが、俺の方に余裕がなかった。抱き寄せてキスをする。今度は拒まれない。ベッドの上に座らせて、今着たばかりの服をまた脱がし始める。無駄なようだが大事な儀式だ。
背後に回りブラウスの上からふくよかな身体を触る度、バーバラの力が抜けていく。ダメですダメです、という声を聞きながらボタンを外す途中、首筋に何度も舌を這わせた。我慢できず強く吸うと「ダメーーー」と身をよじらす。脱がしたブラウスを床に落とし、薄紫の下着に手をかけた。見ていただけでは分からない、やけにゴワゴワとした感触。そこで一度目の波が来た。早すぎるが仕方ない。まだあんたはシャワーを浴びている。今のうちだ。俺は立ち上がりバーバラの口に突っ込んだ。眉間に皺を寄せ、上目遣いで頬張る顔を見ていたらすぐだった。少し気を抜き過ぎていたのかもしれない。その瞬間、彼女の頭を持ちながら「校長先生!」と叫んじまった。
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