ジャン=リュック・ゴダール監督作品
1963年制作・公開
ゴダールの映画を初めて見たのは大学生の時で、名画座の『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』の二本立てだった。この二本はとにかく楽しかった。『勝手にしやがれ』で金髪ショートカットのヒロイン、ジーン・セバーグが「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン!」と叫びながらシャンゼリゼ通りで新聞を売り歩くシーンを見て、まじパリに行きてぇと思った。『気狂いピエロ』のアンナ・カリーナもすてきだった。また二本とも主演はジャン=ポール・ベルモンドで、『勝手にしやがれ』の超カッケ~チンピラに憧れなかった男子はいなかったんじゃないかと思う。まあ当時からゴダールは神話的映画監督で、こちらは知恵熱に浮かされた学生の一人として見に行ったわけだけど、面白いなぁと思って帰ってきた。
で、そのあとはおきまりのゴダール・コースをたどりました。どこで見たか忘れたが、『女は女である』や『中国女』を見て、混乱というより「なんじゃこりゃぁ!」と叫び、『アルファヴィル』や『パッション』を見て「楽しい冗談だねぇ」と笑い出したりしたわけです。ゴダールに関する本はものすごい量が出版されているのでそちらを読んでいただければと思うが、この御方、相当な変わり者です。フランソワ・トリュフォーらと同じように映画批評家から映画監督になった人だが、ゴダールは従来の映画の文法を踏まえるよりも、壊すことに情熱を傾けた監督の一人だ。『映画史』などの仕事を見れば、彼がいかに映画を愛し、また豊富な知識を持っているのかがわかる(映画の歴史は全く説明されていないけど)。ゴダールは好き嫌いでは片付けられない数少ない映画作家の一人だ。泣くことはほとんどないと思うが、笑っても、怒っても、馬鹿にしてもゴダールの映画には魅力がある。
『軽蔑』はもう半世紀近く前に制作された映画で、当時29歳で美しさの絶頂にいたブリジッド・バルドー主演だ。Brigitte Bardot、頭文字はB.B.で「ベイベー」と発音できる。60年代を代表するセックス・シンボルの一人である。アルベルト・モラビア原作で、フィルム・ノワールの巨匠フリッツ・ラングが本人役で出演しているなど、ゴダールらしい仕掛けが随所にちりばめられている。しかしそんなことはどうでもいいだろう。『軽蔑』はゴダール映画の中では比較的素直な作品だ。一種のラブストーリーだがアメリカや日本映画とは質が違う。恐らくフランス人にしか撮れない映画になっている。ゴダールが男女の愛を描くと画面は明るくなる。特に『軽蔑』は底抜けに明るい。だから秘密は何もない。僕らはただ映画を見ていればいい。
映画の冒頭で、セミヌードでベッドに横たわったB.B.が、恋人の脚本家に「わたしの脚好き?」「わたしの背中好き?」「私の髪は好き?」「私の目は好き?」と甘えた声で聞く。脚本家は「好きだよ」と生返事を返す。B.B.は「毎日100回キスして」とさらに言葉を続ける。「ああいいよ」と脚本家はまた生返事をする。男は売れない作家だ。金になる仕事を探し求めている。やがて彼の元に映画脚本のリライトの仕事が舞い込む。アメリカ人プロデューサーがラング監督で『オデュッセイア』を撮っているのだが、意見が対立して撮影が頓挫しそうになっている。脚本家は仕事を引き受ける。エーゲ海に面したロケ地で脚本を書き直す契約だ。B.Bは「私も一緒に行く」と言う。彼女を止めることなんてできやしない。脚本家はB.B.と一緒に眩い光に包まれたエーゲ海へと旅立ってゆく。
ゴダールはプロデューサーを型にはまったステレオタイプのアメリカ人として描いている。正直だが映画制作ではがざつなまでに自分の意見を押し通す。恐らく当時のアメリカ人プロデューサーによくいたタイプだったのだろう。彼は一目でB.B.の美しさに魅了される。脚本家は気付いているが素知らぬふりをしている。よくあることさ、とうそぶいている。ある日、ロケが終わってからプロデューサーが、「これから滞在先の家でパーティを開くから、一緒に車に乗っていかないか」とB.B.を誘う。脚本家に向かって「いいだろ?」と聞く。B.B.は「でも」と答えて脚本家を見るが、彼は「いいですよ」と答える。B.B.はプロデューサーの車に乗る。高級スポーツカーは走り出す。運転手のプロデューサーは前を向いたままだ。B.B.はシートにしがみついて振り返っている。見えなくなるまで脚本家を見つめている。
脚本家がプロデューサーの家に着き、B.B.の姿を探し求めると、彼女はソファに座っている。不機嫌そうで言葉を発しない。「どうしたんだい?」としつこく尋ねる脚本家にB.B.は言う。「あなたのことは嫌い。もう愛していない。心から軽蔑するわ」と。二人の仲はそれで終わる。脚本家がいくら言葉を重ねても、もうB.B.は振り向いてくれない。B.B.とプロデューサーの間に愛が芽生えたわけではない。キスしてセックスの関係を結んだかもしれないが、それが愛ではないことは手に取るようにわかる。B.B.はロケ地を離れたいので、ローマまで車で送っていってほしいとプロデューサーに頼む。ローマに行く途中で彼らは交通事故に巻き込まれ死ぬ。脚本家はそれを契機にロケ地を去ることに決める。真っ青なエーゲ海が見える高台から、脚本家が海を見つめているシーンで映画は終わる。
「もう愛していない。心から軽蔑するわ」。ゴダールの映像がどんなに素晴らしくても、この言葉の意味がわからなければ『軽蔑』の魅力は半減するだろう。恐らく男性よりも女性の方がB.B.の台詞の意味を直感的に理解できるのではないかと思う。それは唐突に訪れる。一度訪れたら後戻りできない。理由はあるが、ないとも言える。ただ女の甘い囁き声が途絶えた時に、美しいエーゲ海に包まれていた男はそれでも幸せ者なのだろうと思う。彼は小心者の船乗りだから生き残った。オデュッセウスは部下の耳に蝋を詰めさせ、部下に命じて自分の身体をマストに縛らせて一人だけセイレーンの声を聞いた。一人でも船乗りを誘えなかったセイレーンは死ななくてはならない決まりだ。だがマストに縛られていたオデュッセウスは、セイレーンの歌の意味を、ほんとうの最後まで知ることができなかったのである。
『勝手にしやがれ』のラストで、チンピラ同士のトラブルで路上で死ぬことになるベルモンドの顔を、駆けつけた警官と恋人のセバーグが上から見つめるシーンがある。「この男知ってるか?」と聞いた警官に、セバーグは「知らない」と答える。ゴダールはふられ男がお好きなようだ。映画はいい。ベルモンドの最後の台詞は「くそっ」か「ちくしょう」だったと記憶しているが、一度でいいからB.B.やセバーグのような絶世の美女にふられてみたいもんだ。
イトウ ケンタ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■