「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
フォークの分かれ目が好きだ。
あの曲がり角。
あの芸術的なまでの曲線。
あのカーブ。
どういう言い方をしても当てはまりそうにない形をしているそれに、人を惹き付ける何かがあるような気がしてしかたがない。
ドイツ国籍のとあるスポーツナビゲーターが、イタリアかどこか(曖昧な言葉が続いてしまって申し訳ない、僕は曖昧な物言いも好きなのだ)の町の形を「フォークの分かれ目のような」と例えていたときは、その発言に美しさすら感じた。
まるでイチローが打つレフト前ヒットのように、僕の心にあるらしきフェアゾーンに落ちた。
ぽとん。
フェア。
ヒット。
「どう」
「わからない」
目の前でぼそぼそと豆腐サラダを食べ続ける彼女は僕の言うことにちっとも同意してくれることなく、2人ぶんのサラダをただ咀嚼することに集中しているように見えた。
健康器具を主とした卸業社に勤めている彼女が、疲れた目を血走らながらサラダを一心不乱に食べ続ける様は、なにか盛大な皮肉を体現しているような気がして、少なくとも僕よりよほど詩的に見えた。
僕は改めて自分用に用意された銀色のフォークを眺めてみる。
美しい曲線が僕に語りかけてくれるようでもあり、そのカーブはそこにカレー屋がありそうな、素敵なしなり具合をキープしていた。
「素敵な曲がり角にはカレー屋があるものなんだよ」
いつだったか、誰かが僕に言ってくれた言葉だ。根拠も証拠も何もないその仮説に、そのときの僕はやられてしまった。いや、根拠も証拠もないからこそ美しいと思った。きっとそうだとも思うようになった。
曲がり角とカレー屋。
そのふたつは僕にとってセットだった。
そのふたつがあって初めて、その曲がり角は完璧になりえるのだと僕は信じている。
「ねえ」と、彼女。
「ん」
「あとは食べていいよ」
サラダボウルの中には玉ねぎドレッシングのかけられた豆腐がきれいに残されていた。
「ねえ」と、僕。
「ん」
「豆腐サラダを頼んでくれたのは確か君のほうだよね」
「そうだよ」
彼女は誇らしげにうなずいてみせた。目はさっきよりも幾分赤みが薄れているような気がした。
「豆腐サラダの豆腐を残すなんて、そんなことしちゃいけない」
「どうして」
それは。
ええと。
母親に怒られるときは決まって僕は浴室にいた。
僕がシャワーを浴びている間に母が僕の部屋を詮索して何かまずいものを見つけ出すことが多かったからなのかもしれない。渡しそびれていた学校から親宛の連絡プリントであったり、友人からこっそり借りた漫画本だったり(そういうものを見つけることにかけては、母は天才的な才能をもっていた、そしてそれを発揮した)を見つけては、僕が浴室から出るのを腕組みをして黙って待っているのだった。
子どもながらに僕もその気配を感じて、シャワーの栓をひねって外の世界に耳を傾けるのだ、10歳に満たない僕にとって、母親という存在は世界そのもので、彼女の機嫌を損ねることは世界の破滅を意味していた。
母が僕の名前を呼ぶ。
1度目は無視をする。
もう1度、母が僕を呼ぶ。湿気と緊張に包まれた僕はただただ母の呼ぶ声に返事をするまいと、耐えていた。
不思議なのは、浴室から出た後の記憶がないことだった。
「ねえ」
「ん」
「どうしたの」
僕と彼女は町にできたばかりのカレー専門店を訪ねていた。
ここにカレー屋ができてくれたらいいなと常々思っていた曲がり角に、思った通りの店ができたと聞かされたときは夢じゃないかと疑ったけれど、たしかにカレー屋はあった。
「フォークの分かれ目」
「ん」
「いや、なんでもない」
「変なの」
変なの。
事情を知らない彼女側からすれば、そう思うのも当然だろう。
店内に1歩足を踏み入れると、ヒノキとスパイシーな香辛料が混ざった何ともいえない匂いとともに、懐かしさを感じさせる曲が聴こえてきた。
ジョージアの雨の夜
ジョージアの雨の夜よ
今夜はなぜか
世界中が雨のような気がする
「変なの」
そう、変だなと僕は思った。
今日は平日だったような気がする。
なぜ僕は彼女と午後のひと時を過ごすことができているのだろう。
彼女の勤め先は平日の有休を許してくれるようなタイプのそれではなかったはずだ。
僕と彼女は席に着いて、豆腐サラダとビーフカレーふたつを注文した。店の中が湿気だらけなせいか、彼女の頬に汗がひとすじ流れた。
「あついね」
「そう?」
首を傾げる彼女の目元は薄く赤みがかかっていた。
今日がもし休みだとすれば、疲れというよりも寝不足気味なのだろうか。
「ああ、思い出した」
「何が」
「曲だよ、今流れてるやつ。ジョージ・ベンソンの『雨のジョージア』だ」
「詳しいね」
「母さんが好きだったんだ。それで思い出した」
先に豆腐サラダが運ばれてきた。
彼女がそれを口に入れる様をじっと眺めて、僕は手元にあった銀のフォークを手にとった。
美しい曲線だった。
そして前にもこんなことがあったような気がした。
「ねえ」と、彼女。
差し出されたお皿の中には豆腐だけが残されていた。
僕は黙った。
彼女はそれ以上何も言わなかった。
すべてが停止してしまったかのような空白のなかに『雨のジョージア』だけが鳴り響いていた。
店内は異常なほどの湿気に包まれていた。
「僕はいったい、どうやってあの浴室から出たのだろう」
今夜はなぜか
世界中が雨のような気がする
わからなかった。
おわり
(第40回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月5日と17日に更新されます。
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