今月号の特集は「女性俳句ぬきに現代俳句は語れない!」である。編集部の特集リードを読むと「各俳人協会協会員の八割は女性である。いまや女性俳句の存在なしに現代俳句は語れないのである。杉田久女から始まり、台所俳句などと揶揄されながら俳句に精進し、現代に百花繚乱の華を咲かせている。女性俳句はいまや俳壇の宝、そして俳句の未来なのである」とある。
そーなのか、やっぱそうだよなぁと改めて思ってしまった。たまに句会を覗いても、参加者の半分くらいは女性である。もっと多い句会もある。というか今やどこに行っても女性の姿が目立つ。芝居に行っても温泉に行っても、中心になっているお客さんは女性グループで、男たちの影は薄い。俳句以外の文学イベントなんかでも、比較的熱心に通って来るのは女性が大半だ。男たちはいったいどこに行ってしまったのかと思わないでもない。通勤電車でスポーツ新聞読んで、たまに悪所に寄って、家に帰ってビール飲んで寝てるのだろうか。
ただ句会などで、場を仕切っているのは圧倒的に男が多い。こんなことを言うと怒られるだろうが、一昔前の俳壇にはそれなりに社会的地位の高い男が多かった。生活者としては余技で俳句を詠んでいて、定年してから専門俳人として結社主宰となるケースがけっこうあったのである。しかしまあ、今ははっきり言うと、社会で落ちこぼれギリギリの男性俳人が増えていると思う。じゃあ彼らが句会でおとなしいのかというと、恐らく会社にいる時より活き活きしてるんじゃなかろうか。誰もが納得するような社会的地位の有無にかかわらず、男という生き物はどうやら仕切りたがりのようだ。
じゃあ女性の特性はどういったものなのかということになる。このあたりを議論し始めると途端に面倒になる。アメリカ人やブラジル人が母国にいる間は、「日本人ってこんな連中だよね」とバッサリ切って捨てられるが、実際に日本に住んでみると「日本人っていろいろだねぇ」となるのと同じである。こういった男女性差を考えるよりどころとして、一応はジェンダーという概念がある。ジェンダーは後天的男女性差という意味で、もっと砕いて言うと、「男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしく」と言って育てられることで身につく後天的思考や行動様式のことである。
ところで夏になったので、また稲川淳二さんの怪談を聞きに行く予定である。今年のツアーの惹句は「今年もあいつがやってくる・・・」で、ポスターを見ただけでワクワクしてしまう。ところが女性には怪談話等々が嫌いな方が多い。「わざわざお金払って怖い話を聞きに行くなんて気が知れない」と責められたりする。なぜなのかなーと考えていて、はたと気がついた。なんのことはない、僕も子供の頃はお化けや幽霊が怖かったのである。それがいつの間にか、お話の内容ではなく、演者の話芸を楽しむ方向にズレていっている。これもジェンダーと言えばジェンダーだろう。人によってジェンダーのあり方は違うだろうが、男や女に生まれてしまったのだから、特に創作者なら、ある程度の社会的コンセンサスを得ているジェンダーをうまく活用してゆくほかにないだろうと思う。
池田(澄子) 自分の情を表そうとは思わない。自分を離れて俳句を作ろうとしている。人間の一人としてという感じで・・・・・・。私がこう思っているとか、自分の物語ではないの。私はあくまで人の一例。人間の中のたまたま私という〝一例〟がたまたま思っている。その姿勢は絶対通したいのね。だって、わたしが悲しいとか楽しいとかって宇宙の中で大したことではないもの。父が戦争で死んだから戦争反対と書くわけではない。あの時代、戦争で死んでいった人たちの中の一人、遺された子供たちの一人。その子供たちが大きくなった中の一人が私。(中略)
大木(あまり) どんどん人間って老いていくから、美しく年を取るというのは私のテーマだったんだけど、同じように俳句には俳句の可能性があって、私たちは幻影を見て、追い求めているわけ。私は俳句に夢とか希望をもって追求していきたい。偉くなるとか関係なく、俳句に対して真摯でありたい。多くの人が俳句に対してそういう真摯な姿勢を持って欲しいというのが私の願いです。
(「対談*池田澄子 大木あまり 時を超えて通じ合う」)
特集に掲載された池田澄子さんと大木あまりさんの対談である。お二人とも俳人になるべくしてなった資質がよく表れている。池田さんは「詩は「作品」だとわかっていなかったのね。自分の悲しいとか恋しいとかを書くものだと勝手に思い込んでいた。それって恥ずかしいじゃないですか。(中略)それで短歌にしようかな、と思っていたら突然俳句が現れた」とも語っておられる。大木さんも「私も詩って恥ずかしいんですよ。父が詩人だから、小さい時、親の真似をして書いたりするじゃないですか。でもドキドキして何か違うなと思っていたんです。だけど俳句は恥ずかしくない」と同様のことを話しておられる。
ただこれはお二人の資質というだけでなく、俳句文学の特性でもあるだろう。昔馬場あき子さんが、「自分をさらけ出したくないエエカッコしいが俳句を書くのよ」と放言を吐いたことがあるが、これもまたある本質を衝いた言葉だと思う。池田さんと大木さんは高い俳人の資質を持った詩人として、私性を超えた抽象的高みにまで作品を引き上げようとなさっているのだと言える。ただ歌人もベクトルが違うだけで同じなのだ。歌人は自分の感情と生活と恥をさらしてある抽象的高みに至ろうとする。だから問題の焦点は、抽象的高み――池田さんの言葉で言えば〝詩は「作品」だ〟ということが、どんな実質的内容を持っているのかということになる。
ここまで来ると問題は、メビウスの輪のようにクルリと反転して最初の地点に戻ってきてしまうのではないかと思う。人間存在が認識把握できる抽象的真理などたかが知れている。〝その通り、だがしかし〟からしか文学は始まらないのではないかと思う。だから文学表現では抽象的高みではなく、その過程が問題になることが多い。人生の機微や矛盾が表現され、それが統合されてある抽象に至り着いていなければ、文学作品は魅力を発揮しない。ジェンダーであれなんであれ、自分が持っているものを出し惜しみしないで全部使うしかないのである。
もちろん池田さんも大木さんも、実作ではそうなさっている。ただ社会的ジェンダーが次第に曖昧になっている時代でもある。杓子定規に言えば世の中は完全男女平等で、男女性差は存在しないと言い切ってもその主張は一定の賛同を得られる。ジェンダーだけでなく、俳壇内でも対立軸が失われている。比喩的に言えば、女性が詠む俳句は「台所俳句」とすら揶揄されない時代である。抽象的な高い志を持つのは大事だが、わたしたちは下界にいる。下界は人と人とが角突き合わせ、せめぎ合うものだ。性差だろうと伝統俳句と前衛俳句うんぬんの対立だろうと、いつだって異なる主張と思想が下界を活性化させる。平板な抽象に傾いた時代は、表向き、思いっきり何かに偏った保守反動も一定の効力を得られるかもしれない。
霜月の暦の白き余白かな
氷上を徒渡るときみな黙す
罅走る竈はなれず竈猫
子規庵は子規庵らしく冬ざるる
何もなきやうで鼠のゐし冬田
冬田道昨日と同じ人と会ひ
討入りの日にして新聞休刊日
酒飲めず隠し芸なく年忘
大根の白とは描きにくき白
庭椅子に溜りし昨夜の落葉かな
(大久保白村「霜月」連作より)
大久保白村さんは昭和五年(一九三〇年)生まれのベテラン俳人である。蕉門の大久保長水の末裔なのだという。虚子の「ホトトギス」に参加した後、星野立子の「玉藻」同人となった。「霜月」連作では、なにもないことが具体的現実描写によって見事に詠まれている。これも俳句文学のあるべき姿だと思う。
岡野隆
■ 池田澄子さんの本 ■
■ 大木あまりさんの本 ■
■ 大久保白村さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■