池の水ぜんぶ抜く&駆除の達人 緊急SOS!ヤバイ現場に行ってみた!
テレビ東京
6月25日 19:54~
大ヒット企画「池の水ぜんぶ抜く」の第3弾だ。今回は池の水だけではなく、果樹園を荒らす外来生物、畑に落ちてきた巨大な岩、隕石跡と思われる巨大な穴など、あらゆる「駆除」に対象をひろげている。それはそれで面白い。が、ヘタをすると以前のUFOや超能力の番組みたいになってしまうかもしれない。
「池の水ぜんぶ抜く」のヒットの理由についてあちこちで論じられているけれど、そんなのは聞いた瞬間に面白いと思うに決まっている。それが我々一般の視聴者の感覚だが、企画会議では大反対にあったという。我々もまた、制作者側だったら反対せざるを得なかった、そういう事情は思い当たる。
つまりそれは「保険がきかない」ということだ。あまりにシンプルすぎて、膨らませようがない。企画が膨らんでいれば、不測の事態があったときにどうにかして対処できる、テレビ番組制作とは、その場の機転で間を持たせつつ、まとめていくことの連続みたいなものだ。「池の水抜いたら、何が出てくるか見たい」というシンプルな欲求には、テレビ的な文脈すなわち物語がない。
「外来生物が生態系を壊し、池の水を濁らせているから駆除する」というのは、ぎりぎりのところで組み立てられた物語だろう。もちろんそれは悪い物語ではないし、掃除をするということはすなわちキレイにするということだ。日本古来の水辺の生き物に親しんでもらう、というのもよい。しかしそれは「何が出てくるやら」という怖いもの見たさより以上に視聴者を惹きつけるわけではない。
そして制作者をして大反対に至らしめるのは、この「何が出てくるやら」だろう。コストもかかる、ロケそのものが大掛かりなイベントとして近隣の人々が集まる、そこで予測がつかないなど、これほど怖ろしいことはない。死体でも出てきちゃったらどうする、あるいは異次元への扉とか、いや、もし何も出てこなかったらどうする。無責任に愉しめる視聴者と違い、ちょっした「怖いもの見たさ」では済まない。
もちろん観るに値するものが万が一、何も出てこなかったとしても、そこを何とかするのがテレビマンだ。ただ、池の水はぜんぶ抜けた瞬間、ほぼすべて決着する。後日談というものはあり得ず、ロンブー淳の例の「あーあ」で終わらせるには設えがデカすぎる。その辺が制作者をして本能的恐怖を感じさせしめる。
そして大ヒットの理由は、まさにそこにあるのだ。池の水ぜんぶ抜いたら、少なくともそこにあるものは観られる。視聴者の期待はそこにしかない。制作者の手馴れがみえる物語、上手に膨らませた文脈には、本当のところ飽き飽きだ。テレビはタダだし、ぼんやり眺めているだけだから目くじらを立てないだけで、けれども数字は正直だ。
巨大な岩が落ちてきて困っていた人たちが救われたなら、心優しい視聴者は文句なんか言わない。結局出てこなかった隕石にかつての超能力ショーを思い出したとしても、またほんの数匹しか捕まえられなかった果樹園荒らしの動物の、残りは誰がどうするのだろうと考えても、世の中ってそんなものだと思う。だからこそ決着がつくことだけが観たいのだ、と地団駄踏むほどのことでもないと、納得してしまうのだ。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■