『ゴメンナサイ』2011年(日)
監督:安里麻里
脚本:安里麻里、南川要一
原作:日高由香
キャスト:
鈴木愛理
夏焼雅
嗣永桃子
相楽樹
上映時間: 94分
『リング』(98)や『呪怨』(02)よりも映画的な表現に溢れたジャパニーズ・ホラーの秀作。「ハロー!プロジェクト」のアイドル・グループ「℃-ute」の鈴木愛理と「Berryz工房」の夏焼雅、嗣永桃子を起用しているが、本作を「ただのアイドル映画」という一言で一蹴することは今後のジャパニーズ・ホラーの隆起を見逃すことを意味するだろう。
今後のジャパニーズ・ホラーの方向性を示す素晴らしき映像・音響演出に満たされた本作『ゴメンナサイ』は主題だけでなく、メタ・シネマ的な脚本の構造美学、心理描写で観客に忌まわしき体験をさせてしまう卓越した心理表現の妙など、数多くの魅力と洗練された表現演出が複合的に絡み合っていた。「デジタル・メディアによる呪いの伝染」といったかつてのホラー映画のアイディアを踏襲しながらも改変し、新鮮な恐怖演出でジャパニーズ・ホラーの方向性を決定的にさせたジャパニーズ・ホラーの集大成と言えるだろう。
■新たなる実話性■
まず本作が巧妙だと思われるのは、「映画鑑賞」そのものを「呪い」とし、観客に「呪い」をかけてしまう体験型の恐怖体験を脚本上で採用したことだ。
かつてジャパニーズ・ホラーは『ほんとにあった怖い話』(91)や『亡霊学級』(96)など実話テイストの色を強め、日常的な恐怖を構築しようと試みてきた。時にPOV(ビデオ・カメラの視点など)による映像などを駆使し、テロップやナレーションによって、話の事実性を強めていたように思える。しかし本作は、そうしたテレビ的演出をすることを避け、観客に「何かが憑依している」かのような感覚を映画体験によって体感させてしまうニュー・レヴェルのリアリティを試みる。
つまりそれは、オープニングとラストの観客に対する挨拶と謝罪。「ゴメンナサイ」というエンディング・タイトル。「貴方たちが呪われても死ぬのは交通事故よりも少ない確率だから大丈夫」というリアリティである。トリッキーなそれらの罠が、より一層実話性を強め、映画とわかっていてもどこか忌まわしい体験を背負わされた思いに至ってくるから巧妙だ。また映画体験そのものを「呪い」とし、タイトルと絡めるまとまりの良さは、ホラーというジャンルを超えて、映画作品としての質の高さを露呈させてくれる。
しかし、このような実話テイストのメタ・シネマ的構造だけで作品がJホラーの秀作にまでなるわけではない。では一体何が、本作を秀作の評価へと至らしめたのだろうか。それは本作の心理表現だと筆者は考えている。
幾度となく登場しては凡庸な恐怖表現として消化されていった無数のホラー映画に希薄だった(往年の名作には色濃く表現されていた)「恐怖する人物と観客を同一化させることで、恐怖を観客に体感させてしまう表現」。そうした「映画表現による心理的恐怖の伝播」を最大限に利用し、心理描写だけで観客に忌まわしき体験をもたらしてしまう点がずば抜けて巧妙なのだと思う。
■恐怖心理の伝播■
映画には主に三つの恐怖描写がある。一つは嫌悪をもたらす物理的な存在を観客に見せつける「物理的恐怖」。二つ目は映像と音響の世界に漂う空気感が観客に不穏な体験をもたらす「世界観の恐怖」。そして三つ目は恐怖に怯える人物の表情を緻密に表現することで、人物と観客を同一化させ、恐怖している人物と同等の恐怖体験を観客に与えるという「恐怖心理の伝播」である。
言うまでもなくスプラッターやスラッシャー映画は「物理的恐怖」であり、『リング』や『CURE』は前者と「世界観の恐怖」が入り交じった作品と言えるだろう。一方『リング』や『呪怨』といったJホラーとは別に学園ホラーというサブ・ジャンルが存在するが、この馴染み深く異質なホラー映画作品群は、心理的な恐怖を主軸に置いているという点で、「恐怖心理の伝染」が主な恐怖描写と言えるのではないだろうか。そうした恐怖表現によって『エコエコアザラク』(95)や『携帯彼氏』(05)など数多くの傑作が生まれたが、特に『ゴメンナサイ』の心理表現はジャンルの枠を飛び越え、映画的な秀逸さを魅せてくれる。
文化祭の出し物で演劇をやることになり、脚本の執筆を黒羽さんに任せてしまう女の子が黒羽さんを見た時、彼女の表情は凍りつき、黒羽さんの眼球と笑顔のショットが入り込む。再び彼女のショットへと戻ると、そのまま凍りついた表情を長々と写していくのだ。また脚本執筆に没頭する黒羽さんの異常性を目の当たりにする主人公の表情を丹念に映すなど心理描写に重点を置き、恐怖の対象を目撃した人間の心理を恐怖として表現しているから巧い。
さらに、呪いが彼女の元へ忍び寄り、息が苦しくなってくる主人公が「死にたくない…」と言いながら泣きじゃくるシーン。暗闇の中のわずかな光で彼女の表情が照らされ、その演技の表情は(恐怖の対象などないにも関わらず)死の匂いを感じさせられる表情演出となっていたように思える。とりわけ泣きじゃくる彼女をクロース・アップした際に、すぐ横で、死んだはずの黒羽さんが睨みつけているショットが入り込み、ショットが変わると誰もいないというシーンでは、ショック描写によく使われる大きなサウンドを一切いれていない点が評価できる。音で驚かすのではなく、むしろ怯える彼女の動作や表情によって「憑依されているかのような忌まわしい感覚」を体感させる演出だから、従来の凡庸なホラーとは一味もふた味も違う秀逸さを持っていると言えるだろう。
終盤の殺戮も(『サイコ』(60)の血と同じように)スプラッターとしての見世物的描写ではない。むしろ新たな呪いの誕生を目の当たりにした彼女の表情を長々と写し、黒羽さんの最期の表情を見せるなど、彼女たちの心理が重点的に描かれていた。
■「コミュニティ内での負の心理」=恐怖■
本作にはグロテスクな描写や幽霊などほとんど登場しない。しかし心理描写だけで忌まわしい感覚を体験させ、人物の恐怖心理を観客に伝染させてしまう巧妙さが潜んでいるようだ。黒羽さんの日記を独白していくエピソードでも黒羽さんの顔はほとんど映さず、彼女の視点だけで家族内での疎外感や孤独感を構築していく手腕は『告白』(10)以上の共感と忌まわしさを持っていたように思える。
学校というコミュニティ社会で巻き起こる嫉妬や憎悪、無関心と怖れ。家族内での疎外感や怒り、理不尽な想い、孤独感、愛情の渇望。そして「呪い」に込められた狂気的な心理。人間関係の中で生まれてくる様々な負の側面を巧みな心理描写で表現し、憑りつかれている感覚を体験させ、映画鑑賞を通して観客にも呪いを与えてしまうメタ・シネマ的構造の美学。脚本、キャスティング、恐怖描写としての心理描写。どれを分析しても一流の表現演出で構成されている本作は、まさしく学園ホラーの集大成と評価できる作品ではないだろうか。
そもそも学園ホラーとは「学校内で築かれた人間関係から暴力が生じていること、あるいは学校の構内で暴力が行われていることを強調したホラー映画のサブ・ジャンル」のことを指し、『リング』や『女優霊』などのJホラーから派生したと言われている。尚、ここでの暴力とは超自然的で不可思議な暴力、あるいは肉体的な暴力だけではなく、悪質なイジメなど精神的な暴力も含まれており、強烈なイジメと子供社会の闇を描いた『トイレの花子さん』(95)やオカルト色満載のスプラッター・フィルム『エコエコアザラク』(95)を学園ホラーの代表的な初期作品としてあげることができるだろう。
2005年からJホラー・シアターの興行的失敗や株式会社オズの実質的な倒産などJホラーの衰退が目につくが、「学園ホラー」は衰退の一途を辿るどころか、近年目覚ましい活躍を見せており、本作『ゴメンナサイ』はそうした学園ホラーのメルクマールである一方、今後の学園ホラーの活躍を期待させてくれる。今夏にも「究極の学園ホラー」と宣伝されている橋本愛主演の『アナザー』(12)が公開されるなど、学園ホラーのサイクル的な躍進は止まることを知らない。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■