『戦火の馬』2011年(米)
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:リー・ホール、リチャード・カーティス
キャスト:
ジェレミー・アーヴァイン
エミリー・ワトソン
デヴィッド・シューリス
ピーター・ミュラン
ニエル・アレストリュプ
上映時間:147分
想像力を創造することに長けた作家がハリウッドにはいる。『E.T.』(82)や『ジョーズ』(75)『ジュラシック・パーク』(93)を監督したスティーブン・スピルバーグである。彼は常に観客の想像力を信じ、全てを映像(ショットとショットの衝突)と音響、そしてスクリーンに映る人物の表情によって物語や感情を想像させることに徹し、傑作を数多く創造した作家である。本作『戦火の馬』はスピルバーグのフィルモグラフィにおける一つのメルクマールであるように思われる。では、スピルバーグはこれまでどのような演出で観客を魅了し、どのような映像と音響の戯れが本作の重要な表現として活躍しているのだろうか。
■王道を進まぬ映像作家スティーブン・スピルバーグ■
しばしば非難の的になるように、確かにスピルバーグの表現は技巧的で、あからさまである。しかしスピルバーグの物怖じしない堂々とした映像表現は、「観客の想像力が技巧を越え、エモーション(心的躍動)を引き起こしてくれる」と信じているかのような絶対的な信仰に支えられているようだ。
『ジョーズ』の時だって彼は想像の力を信じていた。オープニングで美女がサメに襲撃されている所を見せられた観客は、劇中でサメが近づく有名なメロディが流れると、無性にサメの攻撃を想像し、あるいは喰いちぎられた被害者の肉体をも脳内で想像してしまうだろう。だから観客は映画館を出た後もサメの恐怖に震えるのである。
言葉で語るのが王道(ありきたりの表現)というものだが、スピルバーグはいつの時代でも王道(言葉でストーリーを語る)を極力避け、映画の持つ想像力を信じてきた。そこに彼の表現力の才がうかがえる。本作は言葉を話さない馬ということだけあって、彼の想像的な表現がさく裂した秀作であった。
第一次世界大戦前夜。農家に引き取られたサラブレットのジョーイを大切に育てる主人公アルバートは、戦地へと駆り出されたジョーイに会うために戦場へと向かう。しかし本作ではアルバートが志願し、出兵するシーンを映してはいない。ただ、闇夜の塹壕の中で照明弾の光を見つめる兵士たちの顔が閃光に照らされていくシーンのみによって語られるのだ。兵士たちの顔が、四回ほど照明弾で照らされた時、そこに主人公の顔が照らしだされる。主人公の出征を観客の想像力を使って創造し、ジョーイと同じ場所にいることが一切の台詞や説明なしに、視覚的に感じさせられる構成となっていた。スピルバーグの視覚的なストーリーテリングの手腕が見事に表れているシーンではないだろうか。
また戦場を駆け抜ける馬ジョーイが塹壕の上を飛び越え、落下し、そしてまた立ち上がり、暗闇の中で煌めく爆発と爆音の中で疾走するシークエンスも極めて映画的で躍動的。それでいてエモーショナルに働きかける表現性に富んでいたように思われる。視覚的な美的さと音響としての美的さ、そしてモーション(躍動)が絡み合って、ジョーイ(馬)の自暴自棄な感情が想像させられたのだ。
視覚的な躍動感とドラマとしての躍動感を映画的な表現によって魅せてしまうスピルバーグの未だ衰えない表現力は、他の監督には決して真似することのできない想像の創造力に溢れている。とりわけ本作『戦火の馬』においては俳優たちのパフォーマンス性が鋭い。
■心のクロース・アップ■
時折、画面いっぱいに顔が映し出されることに対し、「画面を何かで常に埋めていないと不安で仕方がないのだろう」と揶揄する批評が目につく。私はこうした揶揄に対して批判的だ。なぜなら彼らは、「画面を埋めている」事実を批判しているだけであり、顔をクロース・アップすることで観客に何を体験させているかには一切触れていないからだ。重要なのは、スクリーンを表情で埋めたそのシーンが観客にいかなる体験をもたらすのかを感じ、考え、評価することではないだろうか。
序盤、農夫が競売でかけられているサラブレットに一目ぼれするシーン。彼の表情がクロース・アップされるが、単にクロース・アップするだけでなく、彼の瞳はまさしく運命的な何かを感じさせてくれる。そこにはすでに彼の顔はなく、あるのは彼の心理であり、これから運命的な何かが動き出すことを予感させるストーリーテリングである。馬の眼球や人物の表情は、我々の想像力を媒介にして、言葉以上に雄弁な「何か」をもたらしてくれるのだ。
もちろん、その体験は一人ひとり違うし、彼らの演技や表情、仕草に何を感じ、何に魅せられるかは個人の主観にゆだねられるだろう。しかしスクリーンに映っている構図は間違いなく普遍的なものだ。そうやって見れば、本作の画面構成(画面の中央に表情を持ってくるのではなく、スクリーンの端に寄せた構図)が人物の瞳や表情、仕草を強調するために構成されていることがわかる。単に顔を映すのではなく、その心を観客に想像させようとする画面構図こそ、まさしくスピルバーグ流の「心のクロース・アップ」ではないだろうか。
だから話や出来事だけを追っている観客にとって、本作は実にご都合主義に思えるだろう。しかしスピルバーグは信じているのかもしれない。観客の想像力が可視的な出来事や理屈を超えて、映像と音響の戯れの中にある「ドラマ」や「刺激」を体験してくれることを。
しばしば「スピルバーグの映画はご都合主義的だ」と批判されがちだが、本作の魅力は理屈を超えた向こう側の不可視的なものにあるのだと思うし、観客の想像力を利用して、そちら側の世界に浸ることを意図した演出がなされているのだと思う。
王道を行く監督は、万人に物語を語り、出来事やアクション見せる。しかしスピルバーグは想像力を使って理屈を超えた世界へ観客を連れて行ってくれる演出をする。だから「想像」という魔法に乗れずじまいだった観客にとっては、王道にしか見えないのかもしれない。しかし魔法にかかった観客は彼が作り出したユートピアに向かって夢の旅立ちをするのだろう。本作はまさしく想像力の勝利であった。スピルバーグは間違いなく王道を行かない想像の魔術師である。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■