NHK ドラマ10
金曜 22:00~(放送終了)
海外作品である原作がある。タイトルからして、そうである。類似の作品をいくつか読んだ気がする。それらは傑作の呼び声があったものだが、この原作もまたよく売れたようだ。もちろん傑作と売れた作品はイコールではない。しかし傑作の定義も時代とともに変わるのかもしれない。
連想したのは、事故で顔を作り変えられて別人になる設定の小説、記憶喪失となって夫である人の正体がわからないという設定の小説だ。このドラマのストーリーは、この2作が突き混ぜられている感がある。さらに女主人公が記者で、取材対象の家の奥さんの顔になるというメディア的な要素も加わり、なにやらてんこ盛りなのだ。ひと昔前なら、それでテーマは、とか狙いは、とか、編集者その他の突っ込みが避けられなかったろう。
これまでの傑作の定義とは、伝えるべき強いメッセージがあり、作品のすべての細部がそのテーマを支えるべくピラミッド構造を成している、というものだったと思う。その構造が強固であるほど説得力を持ち、ピラミッドが高いほど普遍的なテーマを持つものとして多くの受け手にアピールした。
もちろん今でも、それが基本であることを疑ってはいない。ただ、それが達成できない場合に、そうであらねばという努力を放棄することが許されているかのようだ。ポストモダンと言えば聞こえはいいが、ポストモダンで面白く仕上げるにはよほどの才覚が必要で、たいてい単なる失敗作になる。そうではなくて、単にモダンとしての構造を放棄していると言えばよいか。
にもかかわらず細かい設定は、モダンの落穂をちりばめてくるのだから厄介である。何をしたいのか掴ませない戦略なのか。すなわち期待いっぱいで観はじめ、読みはじめ、煙に巻かれて終わることになる。それが許されてあるようなのは時代の特徴なのか、はたまた〝劣化〟なのかという問いに対しては、むしろ〝劣化〟しているのは制作側なのか、受け手なのかと返すのが端的でよい。
そしてもちろんそれは同じことだ。ただ小説であれば、過去の作品の完成度と比較され、記憶に残る強度から〝劣化〟とみなされる度合いが高い、ということだ。しかし完成度に対する感受性も日々、失われている。失われている以上、それを〝進化〟として解釈する感受性が幅をきかせている。
もしそれがテレビドラマならば、害はないかもしれない。テレビドラマというジャンルのジャンルの掟は、そしてテレビドラマのジャンルの掟だけが、完成度の喪失を肯定できる。どんな作品も、そのジャンルの掟に対して意識的であるものは佳作であると言える。それは自分自身のことを正確に語っている、と言えるからだ。何であれ、そのようなものは存在に値する。
テレビドラマに完成度の喪失が許されてあるのは、それが失われていく記憶そのものだからだ。受容は日常の記憶と混ざり合い、常に断片として留まる。作品としての完成度が意味を持たないジャンルであるとも言える。すなわちそれは作品ですらなく、作品概念を逆照射によって際立たせるものかもしれない。
田山了一
■ 脚本の篠﨑絵里子さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■