NHK ドラマ10
金曜日
22:00~(放送終了)
テレビドラマは因果なものだ、という意味のことをしばしば書いてきた。が、このところ少し違う気がしはじめている。因果なのはこの時代の表現そのもので、何というか状況的にえらく厳しい。もっとも厳しくみえるのは、これまでの手法が通用しないことが大きな部分を占めている。新しい手法が確立されれば、これほど楽ちんな時代はない、ということになろうか。
ともあれ今は、過去の手法への囚われが無残な姿をさらすばかりなのだが、これも通らなくてはいけない道なのかもしれず、とりわけテレビドラマがその役割を一身に引き受けているように映る。それはテレビという巨大な、それゆえに方向転換の難しい旧世代のメディアになりつつあるものの置かれている状況をときに端的に、ときに象徴的に示すからだ。フィクションという踏み絵を携えて。
フィクションが何の踏み絵かといえば、自由、というものについての感じ方ではなかろうか。フィクションは表現において自由だということになっている。もちろんそれが建前なのは、テレビドラマにおいては顕著であると知られている。その不自由さをも自由な表現の一環として示さなくてはならないことも。
それがテレビドラマのポストモダン化を進めてきた。問題はすべてのテレビドラマがポストモダンになってしまうわけにはいかない、ということだ。なぜならすべての視聴者がそのエッジを理解するわけではないからで、ポストモダンに逃げることを許されない制作者の意識はどこへ向かうのか。
それは多くフィクションに見切りをつけ、事実に取材する方へ向いているように思う。朝の連ドラではうまくいって、それら一連の著名人伝記ドラマは数字の上ではあの『あまちゃん』より高い。肝要なのはそれが著名人の伝記であることで、すなわち事実であることを誰もが確認できるのだ。
それでポストモダンでもなく、著名人の伝記でもない『運命に、似た恋』やなんかはどうなるのか。このタイトルの真ん中に挟まれた「、」が象徴するように、それはまさしくため息をつくような状況だろう。しかし密やかなそれはおそらく、制作者のものだ。今や多くのドラマ制作者は高学歴のインテリで、形骸と化したテレビドラマの不自由さがどこに向かうものでもないことを知っている。
オリンピックのデザイン盗作といったスキャンダルを取り込み、富裕層向けクリーニング店といっためずらしい風俗を設定しても、それ自体が視聴者を説得することはない。視聴者を説得するのはテーマしかないが、〝純愛〟というフィクションを〝死〟のリアリティで補強するなら、死は成就しなければ説得力はない。ご都合主義のハッピーエンドに利用されるだけの死の匂いは何にも増して無残だ。
インテリジェンス溢れる制作者たちは、そんなことはとうに承知している。それでも、すでに誰が求めているかもわからないコードに沿わなくてはならない現在をすり抜けるかのような、原田知世の佇まいだ。フランス映画を思わせるような俳優の存在、あるいは現前する映像美のリアリティがテーマである、ということだろう。
田山了一
■ 脚本の北川悦吏子さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■