Chef~三ツ星の給食~
フジテレビ
木曜 22時~
天海祐希だ。観ようと思う。この条件反射は何なのか。それがまさしく高視聴率女優と呼ばれる所以なのだろうが、他にもそういう俳優さんはいるなかで、天海祐希については理由がよくわからないのもあって、別格という気がする。若い女性を夢中にさせるラブストーリーとは無縁だし、いわゆるリアリティのある演技が上手いというのも違うし、平均的に無難でNHK的な支持があるわけでもない。
ただ、観ていたいのである。すっきりして、きれいに型にはまる。シリアスでもコメディでも、このすっきり感でリズムが出て、重くならない。重くなるのはある種の穢れだ、という気がする。穢れ、というのはすなわちウェットな抒情だ。ドラマをそれによって成り立たせようとする場合も多いが、それは実は制作者の都合で、能力の欠如からくるものだ。視聴者はあくびして付き合っている。
付き合うのは、ドラマを観る以上、それがお約束なのだろう、と諦めるからだ。そして落としどころを求める保守的な感覚は誰のなかにも存在するので、ウェットなオチに自分も納得しているような、場合によっては感動さえしているかのような錯覚をおぼえる。錯覚と決めつけるのは、それが例外なく記憶に残らないからだ。
天海祐希のすっきりした容姿は持って生まれたものだろうから、あれこれ論じるにはあたるまい。ただもちろん、外見はある程度内面を反映して、宝塚でよく仕込まれた感じもたっぷりする。娘役も含め、宝塚出身の女優さんはムダなウェット感がない。女のそれにあくびしながら付き合ってくれる男がいない世界にいたわけだ。
ムダなウェット感がないとよいことがあって、知性をはたらかせる余地ができることだ。宝塚出身の女優が求められればコメディをもこなせるのは、そこのところだろう。『女王の教室』の怖ろしかった天海祐希が、子供たちの給食に翻弄される三ツ星シェフ役では結構おかしい。笑いと恐怖は紙一重だから、それも不思議はない。日常的な、陳腐な抒情が入り込まないという共通点もある。
それで、天海祐希だから観ていられるのだけれど、数字はやはり残念みたいだ。やはりというのは低迷が続くフジテレビだからだが、そう取り立てて何が悪いという感じはしない。強いていえば、フィクションとしてまったく破綻のないフィクションだ、というところか。破綻がないというのは矛盾がないということではなく、フィクションであることに開き直っているとか、安住しているということだ。
つまり自身に対する疑いのなさ、というべきだろうか。今の時代、どんな組織も危機感を抱えているのに、フジテレビにはもしかしてそれがないのでは、などと噂されるところだが、いったんそうレッテルが貼られると、あとはイジメみたいにもなる。数字が低迷しているのに危機感がないわけはない。
しかし突破口は常に、危機感などメンタルではなく、具体的な手法の改変によってしかもたらされない。制作の方途が硬直化しているなら、そこに隙間を作っていくしかない。天海祐希というウェット感抜きでドラマにできる女優を配したのなら、そこで制作の都合のいい、陳腐なパターンを排除できるか、が試されるのみだ。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■