日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展
於・国立西洋美術館
会期=2016/03/01~06/12
入館料=1600円(一般)
カタログ=2800円
前回取り上げたボッティチェリ展と同様、カラヴァッジョ展は日伊修好通商条約締結百五十周年を記念する展覧会である。ボッティチェリ真作と認められているのは約百点だが、カラヴァッジョはさらに少なく約六十点である。移動できない教会祭壇画もあるので、海外に貸し出しできる作品はもっと少ない。今回の展覧会では十一点のカラヴァッジョがやってきた。イタリアには日本のような国宝制度はないが、ボッティチェリやラファエロ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらのルネサンス画家や、カラヴァッジョ作品は国宝級である。これはやっぱり見ておかなければならない。
なおカラヴァッジョ展は二〇〇一年に東京の庭園美術館でも開催されていて、その時は八点が来日した。カラヴァッジョは世界各国の美術館に分蔵されているが、どの美術館でもメイン作品の一つである。わずか十一点といっても借り出すのは容易なことではない。それにルネサンスとポスト・ルネサンス期の巨匠と言っても、ダ・ヴィンチやミケランジェロは専門画家ではない。ダ・ヴィンチの絵画作品はわずか十三点と言われており、ミケランジェロ代表作は彫刻と室内フレスコ画で移動が難しい。展覧会が開かれても何を見ればいいものやらという内容になってしまう。巨匠でもある程度まとめて作品を見ることができる画家でないと充実した展覧会は難しい。
ちょっと余計なことを書いておくと、カラヴァッジョ展は、今年七月に世界遺産に登録された国立西洋美術館で開催された。フランスを中心に日本など七カ国共同推薦の「ル・コルビュジエの建築作品」として世界遺産に認定されたのだ。これはこれで意義があり祝賀すべきことだとは思うが、どうもしっくり来ない。僕はもうずいぶん長い間上野公園内の美術館に通っているが、国立西洋が素晴らしい建物だと感じたことはない。西美はよく知られているようにコルビュジエ基本設計だが、実際に手がけたのは前川國男、坂倉準三、吉阪隆正らの建築家たちである。そのせいなのかどうかわからないが、外観・内装・導線すべてで面白みのある建物ではない。コルビュジエは偉大な建築家だが「全部の作品が素晴らしいわけじゃないよ」と言いたくなってしまう。
まあ西美は、第二次世界大戦後にフランスから返還された松方幸次郎コレクションを収蔵するために建てられた日本で初めての西洋美術専門美術館で、日本にとって歴史的価値は高い。しかしそれを言い出せば東京国立博物館や国立科学博物館にも来歴はある。関東大震災後に建てられた東京国立博物館の設計者は有名ではないが、東洋趣味の本館は外観・内装ともに素晴らしい仕上がりである。内壁のタイル装飾や階段の手すり、天井近くの明かりとりにまできめ細かな神経が行き届いている。上から見ると飛行機の形をした国立科学博物館も同様で、建物内は広いがまるで迷路のような面白い導線である。この二館に比べると西美の建物は見劣りする。
美術館はハコモノと呼ばれ、税金の無駄遣いだと批判されることも多い。ただ身も蓋もないことを言えば、文化は豊かな社会の上澄みであり美術館はその象徴である。どうせ建てるなら非日常的でうんと豪勢な建物の方が美術館らしい。二〇〇七年開館の黒川紀章設計の国立新西洋美術館など、エントランスから建物に近づくだけでわくわくする。東博や国立科学博物館は古い建物だが、実に美術館らしい風格と非日常性を備えている。僕は別に国粋主義者ではないが、コルビュジエ、コルビュジエと言われると、一昔前の欧米崇拝風潮を思い出して恥ずかしくなってしまうところがある。建築物はある時代の象徴でもある。西美の世界遺産は慶賀すべきこととして、それとは別に〝東博・国立科学博物館LOVE派〟を作りたいくらいである。
カラヴァッジョ『女占い師』
一五九七年 油彩/カンヴァス 縦一一五×横一五〇センチ ローマ、カピトリーノ美術館蔵
さて、『女占い師』はカラヴァッジョの若い頃の作品で、若く美しいジプシーの女が手相占いを口実に貴公子に近づき、その指輪を盗み取っているところを描いた絵である。ボッティチェリ展でも書いたが、ヨーロッパ絵画は広義のキリスト教イコンを中心に、ギリシャ・ローマなどの異文化を取り込みながら発展してきた。写真がなかったので貴人の肖像画も盛んに描かれたが、名もない市井の人々を描く風俗画はカラヴァッジョの時代になってようやく盛んになった。むしろカラヴァッジョが風俗画というジャンルを魅力あるものにした最初の一人だと言っていい。
カラヴァッジョの時代も絵にサインを入れる習慣がなかったので、この作品も真作と認められるまでに長い時間がかかった。ただこの絵にはカラヴァッジョらしい特徴がよく現れている。背景はグラデーションを施した無地で、人物の造形は実にシャープでくっきりしている。例外はあるが、一つの作品であまりたくさんの色を使わない画家でもあった。ジプシー女の服は白と赤と濃いブルー、貴公子の服は黄色が目立つが、単調にならず深みがある。人物の顔は陶器のようになめらかだが、やはり単調な肌色ではなく、それどころか人間らしさを感じさせる仕上がりだから不思議である。サイズを見てもらえばわかるようにかなりの大作である。『女占い師』同様、カラヴァッジョ作品は比較的大きな絵が多い。しかし彼は大作でもかなりの速度で描いたようなのだ。
作者不詳『カラヴァッジョの肖像』
一六一七年 油彩/カンヴァス 縦六一×横四七センチ ローマ、サン・ルカ国立アカデミー蔵
カラヴァッジョと同時代の画家だった、オッタヴィオ・マリオ・レオー二の素描を元に描かれた作者不詳の油絵である。三十代のカラヴァッジョの肖像だと考えられている。ローマに来た当初、モデルを雇う金がないのでカラヴァッジョは鏡に自分の姿を写して絵を描いた。そういった作品にも画家の面影はあるが、顔は絵の主題に合わせてモディファイされている。この作品は素のカラヴァッジョを捉えたという意味で貴重である。他者の手になるものだがこの作品が有名なのは、カラヴァッジョがどうしてもその内面を知りたくなってしまうような画家だからである。伝記的興味を掻き立てる画家なのだ。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは一五七七年にミラノで生まれた。日本では織田信長が台頭していた戦国時代である。ミラノで絵を学び、最新の研究では従来の説より数年早い一五九五年にローマに移住したようだ。二十四歳の時のことである。ミラノ時代と同様、ローマでも工房で働いたが、すぐに貴人たちにその才能を認められるようになった。一五九七年、ローマ移住から二年後の二十六歳の時に、フランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿がカラヴァッジョ最初のパトロンとなり、旺盛な創作が始まった。カラヴァッジョのミラノ時代の作品は存在せず、確実な作品はローマ時代からだが、初期からすでに極度に完成した技量を示している。
画家としての評価が高かったのは、教会のための壁画や祭壇画を数多く手がけていることからもわかる。ただカラヴァッジョは貴族的生活を送ったわけではない。それどころか彼の生活はトラブルに満ちていた。一六〇三年、三十二歳の時には画家バリオーネを誹謗中傷したかどで訴えられている。翌一六〇四年には食堂の給仕に食べ物を盛ったままの皿を投げつけて告訴された。一六〇五年には公証人パスクワロニーを斬りつけ告訴され、一ヶ月間ジェノヴァに逃亡した。レーナという女性を巡ってのトラブルなのだという。極めつけは一六〇六年に起こした殺人事件である。ラヌッチョ・トマッソーニのグループと乱闘し、トマッソーニを殺してしまったのだ。カラヴァッジョには死刑宣告が出され、彼はナポリに逃亡を余儀なくなれた。画家としては順風満帆だったローマ時代は、わずか十年ほどで幕を下ろしてしまった。
ただナポリでもカラヴァッジョはおとなしくしていたわけではない。騎士道に憧れる血の気の多い男だったようで、一六〇七年、三十五歳の時にマルタ島に渡り、マルタ騎士団に入会した。翌一六〇八年にはマルタ騎士団から恩寵の騎士に叙せられたが、同年八月に同僚の騎士を襲撃して逮捕され、牢獄に幽閉されてしまった。脱出不可能なはずが、何者かの手引きによってマルタ島を抜け出しシチリアに逃れた。トマッソーニ縁者とマルタ騎士団の追っ手に怯えながらシチリアを転々とするが、一六一〇年、三十八歳の時に、恩赦を求めてナポリからローマに向かう途中で熱病に倒れて死去した。暗殺されたのではという説もあるがどうやら病死のようだ。カラヴァッジョの画家としての活動期間はわずか十五年ほどなのである。
驚くべきことに、毎年のようにトラブルを起こしていたローマ時代はもちろん、マルタ島やシチリアに逃れてからもカラヴァッジョは旺盛に仕事をしている。大作で精緻な作品が多いが、工房を持っていなかったカラヴァッジョが一人で作品を仕上げたのは確実である。制作期間の短い速筆の画家だったと考えざるを得ない。そのためカラヴァッジョには〝天才〟の称号がついてまわる。確かにカラヴァッジョの作品だけを見ればそう思えるだろう。また最上級の作品ならボッテッチェリやラファエロ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、レンブラントやフェルメールだって天才である。ただある時代を代表する作家が現れるためには文化的な大きな盛り上がりが必要だ。
飛びっきり腕のいい画家だったのは確かだが、カラヴァッジョは盛期ルネサンス絵画の技法をほぼ完璧に習得している。その基盤の上に彼の同時代の社会的精神を付加した。カトリック教会の権威はいまだ絶大だったが、聖職者の世俗化を厳しく批判する宗教改革の波はじょじょにイタリアにも及んでいた。加えて中世初期には虐げられていた市民階級の人々が次第に力を持つようになっていた。少しずつだが確実に進行する宗教的な緩みと市民階級の勃興が、より人間らしい宗教画を生み、風俗画という新たなジャンルを生んでいったのである。それはほかならぬカラヴァッジョの人生の軌跡からも辿ることができる。
カラヴァッジョはローマで数々の問題を起こしたが、パトロンである貴族の力で窮地を脱している。さすがにトマッソーニ殺人事件では罪を免れ得ずローマを逃げ出したが、マルタ島やシチリアでも有力者の庇護を得て絵を描いた。それは宗教画を描く画家であっても、画家その人は聖人君子ではないという社会的了解があったことを示している。ラファエロが典型的だが、ダ・ヴィンチやミケランジェロといったルネサンス期の画家は、絶対権力を握る貴人に随従する芸術家たちだった。しかしカラヴァッジョは筆一つで世を渡ってゆける芸術家であり職人だった。その驕慢とも言える独立不羈の精神が、カラヴァッジョ作品を同時代の画家たちのそれよりも頭一つ抜け出したものにしている。
鶴山裕司
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