実に心惹かれる。これはどうしてだろうか。なぜ我々は島が好きなのだろう。それは日本が島国、と呼ばれることと関係しているのか、していないのか。大陸の国でも、岸に近い島、あるいは川の中洲をリゾート、あるいは隠れ家などの在り処として大事にすることはあろうか。
そもそも我々は、自分たちが島国に暮らすという意識はない。見渡すかぎりの空間にしがらみとルールが満ちて、それが我々の生活空間であり、大陸でもある。自分の暮らしの空間がより広い大陸に属しているか、島とみなすべきものに属しているかなど、何か俯瞰的な視点を強要されたときしか考えることはない。「日本は島国で」などと聞かされるのは、そう、まさに強要の類いである。
つまりそれを聞くたびに「我々は狭量だ、視野が狭い」と言い聞かせられている気がするのだ。「日本は島国であり」と教科書にも出ているのは、もちろん「神国日本」なんて書かれているよりは気持ち悪くないけれど、その地理的な事実がともすると自虐的な卑下に結びつかないこともない。
ところで最近、ときおり耳にするのは「アメリカは巨大な島国で」という物言いだ。これは地理的説明というより100%批判を含んだ言い方なので、すなわち視野が狭い、自分たちの価値観で閉じている、という意である。ようは国土の大小に関わらず、他国と(あんまり)境界を接していない、だから他者を意識しないのが「島国」ということだ。アメリカの場合、それに強者であることでなお拍車がかかる。
そしてあのアメリカが、また我々がそうであるということは、島国であるというのは心地よいことなのだ。他者をたぶんにイライラさせようとも、我々はそれを夢みる。「島」とはその具現化であり、だから我々は心惹かれる。日本人でもアメリカ人でも、我々は日々、他者との関係性の空間に生き、島の暮らしをしてはいない。「島」とはいわば子供時代の世界観の象徴である。
象徴なのだから、現実の島の暮らしとはかけ離れる。より濃密なしがらみに捉われるのは閉じた空間の方だ、と島に暮らせば思うだろう。我々が夢見て、イメージする「島」は確かに無人島に近いものであり、都合のいいものだけが棲息している。「自分だけの」と「自分たちだけの」との大きな違いはエゴのぶつかり合いにあり、隣国も隣人も他者であることに違いはない。
それでも我々は、この『日本島図鑑』のページをめくり、島々を眺めるとき、海に囲まれた 〝孤〟と、それによって育まれたに違いない個性を見い出す。その個性とはそこに棲む人々が縛られ、しかし彼らによって作り上げられたものだ。島の表情、たたずまいは人のそれと同じである。
本書にある島々には、そういうわけで我々の夢見る無人島はない。島の表情は人が作るもので、山や崖、草木と動物たちがいたとしても、無人であればのっぺらぼうなのだ。ただ我々が自身をそこに重ね合わせる瞬間、そしてかつてそこに暮らした人々の表情が蘇る瞬間だけは捕らえられ、収められている。
金井純
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