SMAP 生謝罪
SMAP×SMAP(1月18日)
毎週月曜日 22:15~
バラエティ番組『SMAP×SMAP』の一部として流れた SMAP の謝罪シーンで、Twitter が落ちた。宮崎アニメが再放送されるたび、特定の場面を合図に皆で意図的に鯖落ち(サーバーダウン)させる遊びがあるが、それにも耐えた Twitter のサーバーが SMAP で落ちた。一斉にツイートし始めたのは言いたいことがあると同時に、その印象を皆と確かめ合いたい、という集団的「答え合わせ」権の発動だったろう。
災害時などに Twitter が果たす役割を考えると、そう簡単に落ちてもらっては困るので、こういうのはよいテストだったと思う。独り暮らしが増え、井戸端会議が減り、しかし何かというと Twitter に集って意見や情報を交換する。微笑ましいようで、日本古来の「世間さま」が巨大化する瞬間もある気がする。皆が言ってる、となると疑わなくなるという心情だ。
頭数となると、かつての井戸端会議の比ではない。世間さまに逆らった発言で加えられる制裁も、名前のある人にとっては、非難というかたちでは大きいかもしれない。が、顔の見えない関係であれば、村八分といった実害は少ない。それをもって言論の自由の発展ととるか、無責任な発言ととるか。
SMAP 生謝罪の直後の「答え合わせ」の正解は、「芸能界の裏側の横暴な圧力を見た」、「憔悴した彼らを見ていられなかった。夢が壊れた」といったものだ。あるいは「いったい誰に謝っているのか」、「まだ火種はくすぶっている」と。悪者はもっばら彼らの「独立」を妨げた事務所側だ。
顔を見せない方が悪者になるのは世の常であり、そんなことは事務所も承知だろう。あるいは事務所の商品として留まった彼らのイメージを最低限守るため、少なくともテレビの映像としては事務所が悪者になってもいい、ということではないか。しかし社会的なスジ論としては別の主張をするだろう。
SMAP の「独立」と言うが、そもそも彼らの独立ではない。独立するのは彼らのマネージャーであり、それにくっついて「移籍」する、と言ったのだ。その証拠に当のマネージャーの意欲が頓挫したら、彼らも意を翻さざるを得なかった。すなわち彼らにイニシアチブはなかった。
まだ出来てもいない会社への移籍とは、すなわち引き抜きだ。普通なら訴訟沙汰だが、もとの事務所は力があるのでそれには及ばない。ウチの他のタレントと共演させない、と言うだけで仕事はない。が、そう言うのは悪いことか? SMAP はもはや国民の財産だから、引き抜かれてもニコニコしてその存続に力を貸すべきなのか? 国民の財産という幻想こそ、事務所が作り上げた商品性なのに。
いや、作り上げたのは自分だ、とマネージャーが思ったところから騒動が始まった。しかし給与をもらいつつ、リスクを負わずして為した仕事の成果は、一般的にはその人のものではない。騒ぎが芸能ジャーナルの範疇を越え、露わにせざるを得なくなったのは四十男らの世間知らずぶりだ。その意味で「夢が壊れ」ても仕方がなく、それを「謝った」と思えば納得がいく。まあ憔悴ぐらいしてて当然だ。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■