Interview:新倉俊一インタビュー(2/2)
新倉俊一:昭和5年(1930年)神奈川県生まれ。慶応大学法学部卒、明治学院大学大学院修了、ミネソタ大学大学院修了。明治学院大学で長く教鞭を執り文学部長を勤める。エズラ・パウンドの翻訳などで知られ、西脇順三郎に私淑し現代詩人たちとの交流も深い。詩人でもあり近年になって旺盛に詩集を刊行している。詩集に『エズラ・パウンドを想いだす日』、『遠い旅/海図』、『ヘレニカ』、『ヴィットリア・コロンナのための素描』、翻訳に『ノンセンス・ソング』(エドワード・リア)、『ディキンソン詩集』、『ピサ詩篇』(エズラ・パウンド)、評論に『西脇順三郎全詩隠喩集成』、『エミリー・ディキンスン 不在の肖像』、『詩人たちの世紀 西脇順三郎とエズラ・パウンド』などがある。
新倉俊一氏はアメリカ詩研究のパイオニアであり、その一方で詩人・西脇順三郎に私淑して西脇の仕事を公私に渡ってサポートした。深い詩の理解に基づく翻訳には定評があり、エズラ・パウンドやエドワード・リア、エミリー・ディキンスン翻訳は名訳として知られる。最近になってご自身でも詩を書き始められ、立て続けに詩集を刊行しておられる。最新詩集に『ヴィットリア・コロンナのための素描』があり『王朝その他の詩篇』が近く刊行予定。アメリカ詩と西脇詩の理解に基づく新倉氏の詩は日本の詩の中では異質であり、大きな注目を集めている。なおインタビューは新倉氏と親交のある鶴山裕司氏に行っていただいた。
文学金魚編集部
■西脇順三郎ライティングについて■
鶴山 自由詩は本当に歴史のない文学ジャンルだと思います。最初は上田敏の『海潮音』あたりです。欧米詩の翻訳だったわけですが、それが唱歌になってゆくといった奇妙なことが起こる。それから島崎藤村の『若菜集』の時代ですが、「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき」は見事な七五調です。それから白露時代、特に北原白秋が文語抒情詩を大成するわけですが、これも奇妙なことにその門下から初めての本格的口語自由詩人・萩原朔太郎が登場する。白秋が『月に吠える』のために書いた「序」は感動的です。「萩原君。何と云つても私は君を愛す」ですからね。あれじゃあお師匠さんに頭が上がらない。朔太郎詩には罪の意識が濃いですが、その中には白秋に対するものが含まれているんじゃないかと思います。当時の基準で言えば、優美な白秋文語調中心の詩の世界に、異様な語感と内容を持つ口語自由詩を持ち込んだわけですから。朔太郎が晩年に『氷島』で文語詩に回帰した理由には、白秋への罪の意識があったような気がします。で、白秋門下からは朔太郎以外にも吉田一穂という希代の象徴主義詩人が現れ、その間をすり抜けるようにして西脇さんが登場してくる。ここまで来るとつい昨日のことです。本当に歴史がない。
新倉 西脇さんは、全く詩壇といったことは頭にない人でした。会っても一度も詩壇の話しは聞いたことがありません。詩の話しだけです。自分が詩をどういうふうに考えているかということと、今書いている詩の話しだけでした。詩は個人的なものだと思います。詩壇と呼ばれるような集団や、お付き合いとはほぼ無縁のものです。
鶴山 まったく同感です。西脇さんは戦前の昭和八年(一九三三年)に処女詩集『Ambarvalia』を出して、二冊目の詩集『旅人かへらず』は昭和二十二年(一九四七年)の刊行でしょう。十四年間詩集を出さなかったわけですが、『旅人かへらず』でご自分の詩の書き方と折り合いをつけたんじゃないでしょうか。『旅人かへらず』以降の西脇さんは変わっていません。でも『Ambarvalia』の書き方じゃ詩を書き続けてゆくことができない。『Ambarvalia』はすごく魅力的な詩集ですが、あの書き方だと詩を量産できません。
新倉 それは田村さんの『四千の日と夜』も同じです。あのスタイルで詩を書いてゆくことはできないって、自分で言っていましたよ。
『エズラ・パウンドを想いだす日』
定価:本体3,000円+税
発行:2014年7月3日
A5判/24頁/中綴じ製本
トリトン社刊
〒231-0861 横浜市中区元町3-143-501
お問い合わせ info@tritonsha.com
鶴山 田村さんは『言葉のない世界』の「星野君のヒント」あたりから、西脇ライティングに書き方を変えていますね。飯島さんも『宮古』とか『上野をさまよって奥羽を透視する』くらいから西脇ライティングを取り入れている。西脇さんの書き方は、日本語で書く限り絶対的に有利な書き方です。ただ主語をどうするかですね。飯島さんは『生死海』で西脇ライティングとパウンドの方法をマージさせたと思いますが、あの詩集には〝私〟が頻出します。そうすると個の文明批評詩にはなり得るけど叙事詩にはなりにくい。こんなことを言うと飯島さんに殴られちゃいそうですけど、あの書き方で〝私〟を少なくすると西脇さんになっちゃうし、〝私〟で押し通すと「荒地」的になってしまう。案配が難しい。
新倉 飯島さんの最後の詩集『アメリカ』で、彼の〝私〟はずいぶん変わりましたね。
鶴山 そうそう、『アメリカ』では奇妙な〝私〟の使い方をしておられた。「武器の谷のアメリカ/悲しいアメリカ/それは私だ/私から癒えようとするアメリカ 決して私にはなれない/私を恐がっている」ですからね。わずか五行の詩の中で、アメリカと一体化しているはずの私が、アメリカを昇華して上位審級に登ってゆく。
新倉 飯島さんから頼まれて『アメリカ』の栞を書いたんですが、パウンドは『詩篇』を「ボロ入れ袋」だと言っていました。そこに何でも入れちゃうんです。飯島さんの『アメリカ』も、詩集としては「ボロ入れ袋」ですね。自分の好きなエピソードをそれぞれの詩に入れていって、それでいて全体としてはシンフォニックな感じの仕上がりになっています。
鶴山 渋谷で一度、西脇さんを偲ぶ会の流れで、新倉先生と飯島さん、藤富さん、加藤郁乎さんと僕で駒形どせうに行きましたね。あの時飯島さんは、清岡卓行さんが「現代詩手帖」に書いた吉岡さんについての文章にえらくご立腹で、「僕はちゃんと反論したよ。どうして君は反論を書かないんだ」って僕にしつこく詰め寄ってきて、えらい往生しました(笑)。でもああいうところが飯島さんのいいところです。すごく筋が通っている。
■西脇順三郎と飯島耕一の和解について■
新倉 飯島さんはずいぶん西脇詩に惚れ込んだけど、「西脇のスタイルで俺は書かないんだ」とはっきり言っていました。世の中には西脇の真似をして書く亜流が多すぎるって言ってね。
鶴山 ああ当時は特にそうでしたね。金田弘さんとかのことでしょう。でも自由詩では単に技法を真似てもしょうがない。自由詩は結局のところ、表現内容と技法が表裏一体の関係にないとうまくいきません。飯島さんは西脇さんといきなり仲直りしたわけですが、あれはいったい何がきっかけだったんですか。
新倉 私もはっきりとはわからないけど、飯島さんは大岡信さんや東野芳明さんと瀧口修造を中心にしたシュルレアリスム研究会をやっていたでしょう。シュルレアリスムの正統性から考えると、西脇はシュルレアリストではないという考え方だったようです。だけどそのうち周囲の人があまりにもシュルレアリスムを崇拝して正統性にこだわり始めるから、今度はそれに反発して『シュルレアリスムよさらば』とかを書いた(笑)。そういう考え方をするようになると、瀧口さんより西脇さんの方が自由で広い創造力を持っていることがわかったんだと思います。当時の飯島さんには、シュルレアリスムに限らず広い創造力を求める指向があったんでしょうね。だから西脇さんと会ったらいきなり意気投合してしまった(笑)。
鶴山 『シュルレアリスムよさらば』はなにが「さらば」なのかちっともわかりませんでしたが、今の先生のご説明で腑に落ちました(笑)。でもシュルレアリスムは現実(レアリスム)の上位(シュル)、つまり〝現実より素晴らしい現実〟という意味ですよね。だから初期のシュルレアリストたちは現実世界の上位審級にあるシュルレアリスムをもって、第一次世界大戦後の悲惨な現実を変えようとした。ブルトンはトロッキーに接触し、アラゴンは第三インターナショナルに加入し、エリュアールの詩「リベルテ」は第二次世界大戦中のレジスタンスの愛唱歌になりました。フランス初期のシュルレアリスムは社会改革運動だったわけで、そういう意味では西脇さんも瀧口さんも浮世離れしたインテリでした。明確な社会批判意識を持っていたという意味では、飯島さんが最も正統なシュルレアリストじゃなかったでしょうか。ご自身ではあまりそういった主張はなさいませんでしたが、『私有制にかんするエスキス』などは、日本のシュルレアリスム詩の傑作だと思います。
新倉 飯島さんは、中原中也の会にしばらく属していたんだけど、あんまりみんなが中也を神格化するんで愛想が尽きちゃったらしい(笑)。それで「これからは西脇さんのことをやりますから何でも言いつけてください」と私に言ってこられた。
鶴山 飯島さんは詩人らしい詩人でした。癇癪持ちなんだけど筋がいい。吉岡実が「詩人では飯島を絶対的に信頼している」と言っていましたもの。新倉先生は田村さんとはどういうお付き合いだったんですか。
新倉 「荒地」の中で、一番馬が合ったのが田村さんだったんです。全然タイプが違うように思われるかもしれませんが、開放的なところは似ていました。田村さんは酔っぱらうとよく飯島さんの家に行っていました。田村さんが飯島さんを逗子に連れてきたんだけど、その頃は飯島さんも突っ張っていて、すぐには馴染まなかった。そのうちに角川書店から『パウンド詩集』を出して贈ったら、すぐに打ち解けて親しくなった。そういうところがあの人は率直です。だから私はパウンドのおかげで飯島さんと仲良くなったんです。
鶴山 飯島さんは気難しいところがありましたが、なぜか郁乎さんと仲が良かったですね。一応左翼とバリバリの右翼の関係なんですが(笑)。
新倉 あれは面白い関係でしたね。飯島さんは郁乎さんと共著で『江戸俳句にしひがし』を出したでしょう。あれは対談なんですが、飯島さんは「郁乎は校正の時にたくさん自分の知識を書き込むからイヤだ。俺がバカに見えるじゃないか」って怒っていました(笑)。飯島さんは対談なんかではさらっと言いっぱなしですからね。
■エズラ・パウンド・ライティングについて■
鶴山 晩年の郁乎さんはペダンティズムの鬼でした。第三句集『牧歌メロン』あたりから古典回帰の気配があって、『江戸櫻』で完全に古典に回帰します。ただ郁乎さんの晩年のペダンティズムを見ていると、あれは逆前衛だと思います。全力で後ろ向きに走ってゆく(笑)。なにをやらせても郁乎は郁乎で飯島さんと同様に筋が通っている。だから仲良くできたんでしょうね。話しは変わりますが、パウンドの写真集がありますね。〝Ezra Pound in Italy〟ですが、あれはなんの映画のスチールなんでしょうか。パゾリーニでしたっけ。
新倉 パゾリーニの映画は邦訳『ソドムの市』(原題『サロの百二十日』)です。写真集は別です。パゾリーニもパウンドにインタビューしています。パゾリーニはインタビューする前は、パウンドはファシストじゃないかという周囲の意見に同調していたんだけれど、実際にパウンドに会って話してみると、アメリカの農本主義の、農民の宗教なんだということがわかった。それからパウンドをファシストとして扱うことをやめたんです。
『Ezra Pound in Italy from the Pisan Cantos』表紙
1978年刊
鶴山 でも「ファーサ万歳!」って書いてるからなぁ(笑)。ファシストで反ユダヤ主義者だと誤解される要素は多分にありましたね。パウンドにはちょっと極端なところがありました。詩人らしいと言えば詩人らしいんですが、利子が嫌い、大嫌いというところから始まって、ロスチャイルド嫌い、ユダヤ金融主義嫌いにどんどんなってゆく。
新倉 アメリカだけじゃないけれど、自分の国の資本主義を痛烈に批判する精神を持っていたというのはすごいと思います。
鶴山 だからフィッツジェラルドの正反対です。何にもいらないんですもの。
新倉 パウンドは多面的な人ですから、パゾリーニもインタビューして、何が本当のパウンドなのか確かめたい気持ちがあったんでしょうね。誰にとってもパウンドは、そう簡単に正体がわからないところがあります。若い頃、イギリスで出した詩集〝A Lume Spento〟などは十九世紀末の詩のスタイルです。『ヒュー・セルウィン・モーバーリー』までは未だ古いスタイルですね。でも『詩篇』になって、アメリカ的な気質を全面的に押し出すようになる。人が受け入れようと受け入れまいと、これが自分の信念だという姿勢に変わりましたね。だから『詩篇』は、それまでの象徴詩などの基準で理解しようとしてもわからない。
鶴山 読むに耐える作品は『モーバーリー』あたりからですが、それとは別の系統で面白い詩にイマジズム詩があります。日本の俳句に影響を受けた短詩ですが、当時パウンドは「長い詩を書くなんて気が知れない、俳句のような鮮烈な短いイメージで充分だ」という意味のことを言っていた。それが後年になるとメチャクチャな長篇詩を書くようになる。あれもアメリカ的と言えば実にアメリカ的な光景です(笑)。
新倉 パウンドは俳句とか能から多くを吸収しています。俳句の場合は連歌につながるでしょう。能は長い意識の流れのような面がある。そういうものを基にパウンドは『詩篇』を考えていったわけです。パウンドは「能みたいな詩を書きたい」と言っていますが、それは日本人にはわかりませんよね。あんなメチャクチャに長い詩がどうして能なのかと思ってしまう。でもあれは能の意識の流れの援用でもあるんです。
『Ezra Pound in Italy from the Pisan Cantos』より
鶴山 ああなるほど。それに能には死者が出てきますね。『詩篇』には、意外と〝私〟という主語がないことも日本の俳句や能から学んだ点かもしれない。ある主人公を設定して、その人に語らせるというペルソナ手法を多用した詩人ですが、それは能の方法と同じです。また詩の途中でペルソナを変えるから長い詩でも飽きない。さらにその中に時々パウンドそのものの〝私〟が出てくると実に効果的です。詩を私の意識だけで書くとだんだん飽きてくるでしょう。
新倉 抒情詩の狭さを感じるような詩になってしまいますね。文学金魚掲載の馬場さんのインタービューの発言、「世阿弥がワキ僧を発見したことは、能という芸術を大成させるための最大のポイントだったと思います」は至言ですね。宗教という形而上的な視点が欠けると、ただのプリミティブな自己表白に退化してしまうのではないでしょうか。
鶴山 スーザン・ソンタグがオルガ・ラッジについて書いた文章はお読みになりましたか。ソンタグに会うとラッジは「パウンドはファシストで反ユダヤ主義者じゃない」と、くどくど言うので辟易したという。
新倉 あれは面白い文章ですね。ラッジはパウンドはファシストじゃないと言いつのったわけだけど、ソンタグは「いや客観的に見ればファシストでしょう」と押し返す。ラッジはどうも頑固なところのある人だったようですね。あのソンタグと言い争うんだから(笑)。
鶴山 パウンドの奥さんのドロシーさんはどういう方だったんですか。
新倉 彼女はイギリスでお嬢さん教育を受けた女性です。ヴィクトリアン・レディーですね。漢字を書いたり絵を描いたり、当時の上品な趣味を持っていた女性です。それが自分の人生パターンとはぜんぜん違う人と結婚しちゃった。それでもよく別れないで最後まで連れ添いましたね。アメリカでセント・エリザベス病院にパウンドが軟禁されていた時も通いましたし、アメリカを出てマリ・ド・ラケウィルツ公爵夫人になっていた娘が暮らすイタリアに行く時もついていった。その娘の城でオルガ・ラッジもいっしょに住んだわけです。
鶴山 ラッジも同居していたんですか。それは知らなかった。妻妾同居じゃないですか(笑)。
新倉 娘の方が神経が参っちゃってね。それでラッジはベニスに住むことになった。パウンドはラッジのいるベニスと妻と娘がいるラパルロの間を行ったり来たりしたんです。ドロシーは控え目な人だったんでしょうね。いろんなことを我慢してパウンドに尽くした。
鶴山 僕はいろんな詩人の先輩方にお世話になって、一番尊敬しているのは吉岡実ですが、詩人の理想はやはりパウンドです。簡単過ぎてわからないということがあるんだろうかと思います。『詩篇』が簡単過ぎてわからないと言うと怒られると思いますが、パウンド自身はものすごく簡単に書いたと思います。
新倉 そうです。あの人は直行型ですから。
■長篇詩について■
鶴山 『詩篇』に喩的な表現はほとんどありません。詩的言語はマラルメ的に言うと、地上の言語ではない神の言語、天使の言語を目指すことになってしまう。それをやり始めると絶対に袋小路に入って詩が書けなくなる。パウンドの方法はその逆で、日常言語を使って天上に昇ってゆく。あの方法は魅力的です。僕はフランス文学出身なので、なおさらあの方法の素晴らしさがよくわかります。先生はこれから長篇詩をお書きになるんですか。
新倉 それほど大それた考えはないんですけどね。ただ今度の『ヴィットリア・コロンナ』のように自分の思っていることを小さい形でまとめるか、敷居を外して思いつくままにいろんな人物や要素が入ってくるパウンド的な書き方をするか、二つしかないとは思います。ただ全体を入れようと思うと、今度のような短詩型は制約があります。だからもう一度自由に書いたらいいんじゃないかという方向に傾いています。
鶴山 『ヴィットリア・コロンナ』と『王朝その他の詩篇』は二冊で表裏になっていて、ある全体を指向していますから、多分、長篇詩の方向に行かれるんでしょうね。普通は表なら表で完結してしまうはずです。全体を書きたいわけですからやっぱり長篇詩ですよ。
新倉 そうですね。長篇詩はほかの人があまりやらないから、それに手をつけること自体、意味があるんじゃないかと思います。パウンドにならって言えば、「ささやかなローソクの灯も/ついに明るい輝きとなるように。」(『詩篇』一一六篇)ですね。
『詩人たちの世紀 西脇順三郎とエズラ・パウンド』
新倉俊一著
定価:2,952円(税込)
発行:2003年5月
みすず書房刊
鶴山 自由詩は絶対的に新しい試みをする前衛でなければならないと思います。僕は何回か田村さんに長篇詩をお書きになったらどうですかと言ったんですが、「うるせぇ、余計なお世話だ」と却下されました(笑)。でも書けないかったんじゃないかな。
新倉 田村隆一が亡くなられたときに、私は「読売新聞」に「荒地の終りとパウンドのはじまり」という短い追悼文を寄せました。その趣旨は、もう「荒地」のようなモダニズムの「閉ざされた詩」は終焉して、今後はもっと開かれた詩風の時代に変わっていく機が熟したのではないか、ということをふれたのです。
鶴山 田村さんは『新年の手紙』のオーデン好きですからねぇ。
新倉 オーデンで出発したら、起承転結がはっきりしていないと詩は書けないでしょうね。
鶴山 田村さんは見栄を切りたがるというか、江戸っ子のシティボーイというか、「どうして人は/人を殺すのだ?/どうして人は/人を愛すのか?」とか、さらっと書けたりするでしょう(笑)。あの方は大塚の料理屋のボンボンですよね。一種のどら息子かな。田村さんからは非常に育ちがいいという印象を受けました。ムチャクチャな人なんですが憎めない。あれは育ちがいいんだな(笑)。
新倉 それにけじめのしっかりした人でしたね。田村さんは西脇さんと金子光晴さんのお二人だけを先生と呼んでいました。私は田村さんから西脇さんに表札を書いて欲しいと頼まれて、西脇さんに書いてもらって彼の所に持っていったんです。ついでに「私にも田村さんに表札を書いてもらいたいな」とちらっと言ったら、でも絶対に書かない。田村さんは、長い付き合いがあって、ちゃんと師弟関係があってそういう依頼が成立するんだということを無言で教えたんです。周りの人が「もうそろそろ書いてあげたっていいんじゃないの」と言っても、「今練習中なんだ」とかとぼけるんです(笑)。そういうところは教わるべき点がありましたね。いい加減な気持ちで人に表札を書いてもらうといった精神は、やはりシャットアウトすべきなんです。そういう生き方があの人のすべてにありました。普通のジャーナリスティックな詩人とは全然違っていて、普段は馬鹿笑いとかするけど、意外に古いタイプの人でした。
鶴山 田村さんは笑うと「にゃはっ、にゃはっ」という感じで、実に楽しそうに笑う人でしたね。僕は元々詩の世界に友達が少ないんですが、今は本当に新倉先生くらいです。友達と言っても年が離れていますから〝詩友〟ということになるんでしょうけど。俳人の安井浩司さんと仲良くさせていただいているくらいで、詩人とはまったく交流がなくなってしまった。
新倉 広く交流する必要性を感じなくなっちゃったね。本当に言葉をお互い理解し合える相手でなきゃ、会ったってしょうがないんです。
鶴山 僕は詩のジャーナリズムもよくわからなくなってます。「現代詩手帖」とかはもう二十年くらい読んでないなぁ。
新倉 西脇さんも人の詩集とか詩の雑誌は全然読まなかったですね。でも詩人は自分が考えていることを、一人でずっと追い詰めているだけで十分だと思います。そのテーマに入ってくる人とは喜んで歓談しますけど。
『評伝 西脇順三郎』
新倉俊一著
定価:3,240円(税込)
発行:2004年10月
慶應義塾大学出版会刊
鶴山 八十歳を超えて、レベルを下げずに現役で詩を書き続けられたのは西脇さんが最初じゃないでしょうか。自由詩はそういう意味でも本当に歴史が浅いです。「現代詩の詩人たち」というカテゴライズをしちゃうとまた皆さんから怒られてしまいそうですが、現代詩の詩人たちは晩年になるにつれ書けなくなる。書けないというのは、僕はそれまでの書き方の何かが決定的に間違っていたんだと思います。年を取って書けないくらい辛いことはない。書き続けられるかどうかは意外に大きな要素です。現代詩は子供が死んでも親や伴侶が死んでも悲しいって書けないでしょう。それは不自由です。僕は最近詩は自由詩と呼ぶべきだと主張していますが、それは現代詩が不自由な書き方でもあるからです。一つの書き方ですべて押し通そうとするから書けないことが出てくる。
新倉 書くことは無限にあるはずなんですけどね。西脇さんの頭はプルーストみたいなもので、ご自分の生活の、あらゆる内面的な思考が詩でした。西脇さんは詩の題材には困ったことがないと思います。
鶴山 西脇さんの永遠という思想は本物で、ほとんど肉体的なものです。
新倉 西脇さんは晩年に慶応でされた『詩学講座』で、「あなたがたは詩には始めと終りがあるものだと思っているでしょう。だが私の詩には始めも終わりもない・・・」と話されています。
『失われた時』ばかりでなく、これは西脇さんの詩の本質です。「永遠」というものを分節していくわけですから、たとえ発表時に短い詩に分かれていても、本質的に無定形なんですね。いつまでも続いていって、果てがないんです。『第三の神話』という長い作品もそのいい例ですが、意識の流れがえんえんと続いていって、キリがないから、「そういう秋のイメチが/夜明けの空に混交するまで/秋分の女神のために/おとぎをしたのである」と仮に終りをつけているにすぎない。終わりがないという点では、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やパウンドの『キャントーズ』と同じです。
■詩と思想の関係について■
鶴山 でもパウンドと違う意味で、西脇論は書きにくいです。思想を言うと「存在の淋しさ」で終わってしまう(笑)。でもその表現のバリエーションは驚くほど豊富です。詩のテキストとして一番学ぶべきものが多いのは西脇詩でしょうね。
新倉 西脇さんは頭の中の世界が広いものだから、雑談をする余裕がなかったです。詩壇のこととか、そういう日常的な雑談は一切しない。会った瞬間から詩の話しを始める。それは最後までそうでした。だから何年西脇さんの所に通っても新鮮だった。「日日新」なんです。ああいう人に巡り会ったのは本当に幸運でした。
鶴山 西脇さんの思想のベースは東洋的な無にありますが、イスラーム哲学者の井筒俊彦さんがお弟子ということになっていますね。彼も無を中心にした汎東洋思想を探求した人でした。先生は井筒さんと交流がありましたか。
新倉 一度だけお会いしたことがあります。西脇さんに、井筒さんからもう何十年も前に借りた本を返し来てほしいと頼まれて、北鎌倉のご自宅にうかがったんです。イタリアの古い立派な本で、それを新聞紙に包んで渡されて、「これを持って行ってくれ」と頼まれました(笑)。西脇さんは私を井筒さんに会わせて、いろいろ伝記的な知識を学ばせようとしたようです。井筒さんは西脇さんのことを話し始めるとすごく熱がこもりました。
鶴山 井筒さんは「僕は西脇さんの弟子だ」と書いておられますが、あれはてっきり社交辞令だと思っていました(笑)。
新倉 井筒さんは西脇さんについては全く触れていなかったのに、晩年になって「西脇先生だけは私が心から先生と呼びたくなる、呼ばずにはいられない、本当の先生だった」と書いたでしょう。あれは本気でそうお考えになっていたようです。お話しすると、学生時代にジョン・コリアの話しを西脇さんからよく聞いたとか、「詩と詩論」などで西脇さんが「純粋詩」などを説かれた評論を興奮して読んだから慶応に入学したんだとか、いろんな思い出がつぎつぎ出てくる。西脇さんについて熱弁をふるわれたのが印象的でした。西脇さんと井筒さんはずっと親しかったけれども、全然違う世界で活動された。でもどこかで深く理解し合っていたようです。あれは貴重な体験でした。あなたはどこで井筒さんに興味を持ったんですか。
鶴山 『意識と本質|精神的東洋を索めて』を読んでからです。あれはひっくり返るほど驚いた。ちょうど「現代詩手帖」で吉本隆明さんの特集を組んでいて、無理だとわかっていたんですが、僕も若かったから井筒さんに熱っぽい原稿依頼の手紙を書いたんです。そしたら実に丁寧なお断りのハガキをいただきました。「あなたの熱意はよくわかるけど、今、吉本隆明さんのような特異な思想家について考える時間がない」といった内容でした(笑)。井筒さんの、特に禅の理解は非常に優れていると思います。その後「三田文学」に井筒俊彦論を書きましたが、僕の東洋思想理解のベースは完全に井筒哲学です(笑)。
新倉 今の「三田文学」編集長の若松英輔さんは『井筒俊彦全集』の編集発行人です。この一月にAmbarvalia祭で「西脇と井筒─ことばの世界」というイベントをやる予定です。
鶴山 無であれなんであれ、みんなが共有できる思考のベース(パラダイム)は必要ですね。僕は自己認識では正統な意味での戦後詩人です。その上に現代詩の基盤が乗っている。でも戦後詩も現代詩の時代も終わってしまった。それは八〇年代から予感していたことで、当時からポスト戦後詩・現代詩をも模索せざるを得ない時代が来るだろうと思っていました。僕が「現代詩手帖」の編集をやっていた頃には、まだ鳴り物入りで登場する新鋭詩人たちがいました。彼らがこの面倒な仕事を片づけてくれるんだろうと思っていたんです。戦後詩・現代詩を総括して、新たな詩のヴィジョンを切り開いてくれるだろうって。でも誰もやりゃしない(笑)。そうこうしているうちに、詩人たちを結びつけるようなパラダイムが何一つなくなってしまった。
■詩を書き続けるということ■
新倉 私はパウンドと西脇さんという、エンドレスに書ける詩人と巡り合ったから今でも詩に対する興味を失わないでいられます。そうじゃない詩人を研究したり付き合っていたら、もう詩には興味を持っていなかったでしょうね。どこかで詩を見切って卒業しちゃっていたと思います。
鶴山 『二十世紀詩史論』を本気で書こうとした時期があったんですよ。その時は上田敏くらいから調べればいいだろうと思っていた。それがリサーチを始めてみると、正岡子規、漱石くらいからやらないとダメだとわかった。『海潮音』は明治三十八年(一九〇五年)出版でずいぶん遅いんです。でもその前から自由詩の試みは始まっている。維新以降に俳句、短歌が刷新され、漱石が好きだった漢詩が滅びる渦巻きのような状態の中から自由詩が生まれてきた。で、これはそのうち発表しますが、先に子規、漱石、鷗外論を書き始めました。漱石と鷗外を読み込むと、先生がパウンドや西脇さんを読み込んで詩とは何かを理解されたように、小説とは何かがわかってきた。今はある意味明治初期と同じような過渡期の状態ですから、これはジャンルにとらわれずに総合的に文学をやろうと思うようになったんです。新倉先生にはこのまま詩で突っ走っていただきたいですが、僕はもうちょっと詩と小説と評論に寄り道したいと思います(笑)。でも詩だけに専念したかったなという思いはあります。七〇年代に二十代、三十代だったら、なんの迷いもなく詩と詩論だけ書いて一生を終えたでしょうね(笑)。
新倉 私は『エズラ・パウンドを想いだす日』や『ヴィットリア・コロンナ』を出してくれた、トリトン社の編集者の吉田愛さんがいたから詩人になれたという面があります。以前は誰も読者がいないから、一篇書いたらそのまま終わりになっていたんですが、今は吉田さんにメールするとすぐ反応があるので、『ヴィットリア・コロンナ』も短期間に書けたんです。
『西脇順三郎全隠喩集成』
新倉俊一著
発行:1982年9月
筑摩書房刊
鶴山 『エズラ・パウンドを想いだす日』はいい詩集です。日本では西脇さんを除いて、ほぼ誰も優れた長篇詩を書いていません。また西脇さんの書き方は純日本的なところがあって、文明批評などを含む長篇叙事詩とはちょっと違います。長篇叙事詩を書くには従来のフランス象徴詩をベースにした書き方ではダメで、アメリカ詩の書き方を取り入れなくてはなりません。新倉先生は実にいいポジションにいらっしゃる。でも長篇詩を書くなら最低でも五百行ですね。欲を言えば千行は欲しい(笑)。西脇さんは『壌歌』で三千行お書きになりましたね。
新倉 『壌歌』は大変だったとさすがに先生もぼやいておられました(笑)。私らは西脇さんに強制的に長篇詩を書いていただいたら、また『失われた時』のような傑作ができあがるんじゃないかと期待したんですが、やはり難しかった。
鶴山 『失われた時』は傑作中の傑作です。
新倉 『失われた時』は最初は一章だけだったんです。それがエリオットの『四つの四重奏』に対抗して四章構成になった。だから西脇さんにとっては一章でも四章でも同じなんです。いくらでも自由に増やしていけた。
鶴山 『失われた時』の最終部には本当に驚きました。「しきかなくわ/すすきのほにほれる/のはらのとけてすねをひつかいたつけ/クルヘのモテルになつたつけ/すきなやつくしをつんたわ/しほひかりにも・・・・・・/あす あす ちやふちやふ/あす/あ/セササラレンセサランセサラン//永遠はただよう」でしょう。あれは到底まともな神経では書けない。書き方として謎です。どうやったら書けるんだろう。
『西脇順三郎 絵画的旅』
新倉俊一著
定価:3,024円(税込)
発行:2007年11月 1日
慶應義塾大学出版会刊
新倉 最後にジョイスの言葉を連想しているわけですが、あの部分全体が連想で構成されています。でも深みのない人が連想しても浅いものしかできあがらないですから、そこは西脇さんならではの面白さです。
鶴山 西脇さんは、意識の流れを本当に自分のものにしていたんだなと思います。ほとんど肉体と一致していました。それはパウンドも同じです。僕はああいう形では意識の流れを肉体感覚として持てないな。『失われた時』の最終部は意識が消えてゆくところを書いてるわけですが、それは本来不可能なはずなんです。でも西脇さんにとってはそんなに不思議なことではなかったんでしょうね。僕にとっては摩訶不思議ですが(笑)。
新倉 意味性の回復を唱えた「荒地」の鮎川さんは、西脇さんの詩の唯一の主題は散歩である、という名言を吐いた人ですが、田村さんは「野原」だと言っています。これのほうが茫漠とした意識の流れに近い。晩年に西脇さんの『全詩集』を読んで、北村太郎さんは初めて「西脇詩のキー・タームは永遠だ」と気がついた。現代の詩人で西脇さんほど真剣に永遠というテーマを扱った人はいない、と言っています。
けれども、永遠を扱うためには、従来の「閉ざされた詩」ではだめで、どうしても「開かれた詩」でなければいけない。ハムレットのせりふではないが、「そこが問題だ」です。
鶴山 「永遠」が主題とはいえ、西脇さんも苦労されていますから(笑)。
新倉 さすがに西脇さんも、その後『失われた時』と同じレベルの詩は書けなかったですけどね。『壌歌』の時は、シェイクスピアの五部構成の戯曲を使ってプロットを立てないと三千行にならなかった。
鶴山 『壌歌』は苦しそうですものね。
新倉 西脇さんの方に必然性がないのに三千行書いてくれって依頼するのは、間違っていましたね。あれはちょっと西脇さんに悪いことをした(笑)。
鶴山 でも三千行書けって言われて書けちゃうわけですから凄い。
新倉 ただ『壌歌』はいろいろ問題のある長篇詩だけど、大げさに言うと、その折々の西脇さんの実存的な考え方や意識があちこちに表現されています。単にプロットに沿って書いた形式的な詩で終わっていません。
鶴山 西脇さんへの罪滅ぼしの意味でも、先生の長篇詩は最低千行ですね(笑)。でも『失われた時』のような四部構成は意外と書きにくいですよ。四部構成だと起承転結は作りやすいですが、詩の場合は最後が「結」になってしまうと良くない。起承転で終わらせる三部構成の方が圧倒的に書きやすい。
新倉 初めから形を決めて書くと、つまらないものしかできあがらないしね。
鶴山 三部作で終わる連作作品は多いです。四部まで書くとお里が知れるというか、尻尾が出ちゃうところがあります(笑)。
新倉 日本の小説家では、中村真一郎さんが、あの人は意識の流れと言ってもプルーストですが、パウンドにも非常に興味を持っておられた。中村さんは晩年に私の『ピサ詩篇』訳をお読みになって、新倉は西脇さんのお弟子だから口語訳になったけど、自分なら文語でパウンドを訳したいと書かれています。中村さんは全体小説を目指された方で、小説ではいろんな要素を取り入れましたが、それを詩でもやりたかったんだと思います。
鶴山 中村さんたちのマチネ・ポエティックは定型派で、押韻のソネット形式などを提唱したりして、僕は秘かに口語自由詩に対する〝待ちねぇポエティック〟運動だったんじゃないかと思っています(笑)。ただ中村さんは晩年に『頼山陽』などの史伝を書かれたでしょう。山陽の漢文は読みやすいですが、当時の漢詩は難物です。白文でよくあれだけ読めるなぁと思います。ただあのくらい漢籍の素養があると、やっぱり詩は韻文の定型詩指向になるでしょうね。形式に対する美意識が抜けないと思います。漢詩の形式は美しいですもの。そういう意味では中村さんは中村さんで筋が通っていた。マチネ・ポエティックは決して無駄な文学運動ではなかったと思います。詩はほんとうに難しくて、思いつきの言語実験や言語遊びはすぐに古びてしまう。結局オーソドックスに立脚した方がいいわけですが、定型詩はその中に入ります。現代詩人で定型詩を試みたのは飯島さんと那珂太郎さんくらいですが。
新倉 西脇さんは、ぜんぜんそういうよそ見をしなかった人ですね。『旅人かへらず』などは、戦時中に発表するあてもないままノートに書き付けていたわけですから一種のモノローグです。でもそれで気にされなかった。
鶴山 新倉先生と似ているじゃないですか(笑)。それを発表する時期が来たということだと思います。新詩集と長篇詩楽しみにしております。今日は長時間ありがとうございました。
(2015/11/11 了)
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