「角川短歌」四月号では「次代を担う20代歌人の歌」が特集されています。現代といっても二〇〇〇年紀を超えたあたりからですがどのジャンルでも十代二十代でデビューする(デビューできる)創作者が減っています。たとえば新陳代謝の激しいお笑いの世界でも三十代で若手というのはもはや珍しくないようです。芸能界と文学界は違うというご意見もあると思いますが世の中は底辺でつながっています。
地位とお金と名誉が得られるジャンルに若者が集まりやすいのはいつの時代でも同じです。芸能界は今も昔も若者に三種の神器的な夢を与え続けています。しかし文学界にそのような夢を求めるのは難しくなりつつあります。戦後ジャーナリズム華やかなりし頃は詩人でもなんとか文筆で食べられる時代もありましたが今は絶望的です。小説家ですら副業(収入面では職業でしょうね)を持たなければ生活を維持できない時代になっています。言いにくいですがそれは文学の質の低下に結びついていると思います。
かつての文学は若者の夢を実現できるフィールドでもありました。しかし現在では優秀な人材はITやマンガやゲームなどのサブカルチャーのジャンルに集うようになっています。これらのジャンルに活気があるのは優秀な人材が集っているからです。露骨な言い方をすれば文学の世界にかつてのような最優秀の人材は来ないわけでむしろなんらかの形で挫折を体験した人たちの集まりになっている面があります。文学者の知的レベルは全体として確実に下がっているわけですがでは絶望的かといえばそうでもないだろうと思います。
文学の世界は昔からある意味こんなものだとも言えます。外国文学に精通した飛びきりのインテリたちが文学を牽引したのは戦前戦後の一時期だけで知的といっても社会から無用者とされた人たちが文学の歴史を作り上げてきたのだとも言えます。歴史的に言えばむしろ社会からいかに徹底してドロップアウトしてしまうかが文学者の本領発揮の正念場だったと言える面があります。現在文学が明らかな不況産業に陥っていることは文学者が生活に逼迫し心情的に鬱屈した元の場所に戻ったと言えないこともないのです。子供じみた文豪の夢よりも地を這い回るしぶとい生活者の方が文学者本来の姿かもしれません。
文学金魚の批評陣の中では現代のように大きく社会が変わろうとしている時に変化はまず詩の世界から起こるだろうという共通理解(予想)があります。いくばくかは期待を込めた物言いですが根拠がないわけではありません。その根拠の一つに詩にたずさわってもたいした地位もお金も名誉も得られないという厳然たる事実があります。どの世界にもスターがおり詩の世界でもスター作家がいるわけですがこれも露骨に言ってしまえば詩の世界の有名人はちょっとした小説を書いて賞を受賞した作家ほどの社会的認知すら得られないのが普通です。はっきり言えば現存の一流詩人の社会的認知度はたいていの場合三流小説家以下です。新人中堅作家になると業界内有名人でもたいていの一般人は名前すら聞いたことがないでしょうね。ではそうとわかっていてなぜわざわざ詩など書くのでしょうか。
その理由は各々の詩人が考え抜くしかないでしょうが詩では自発性が求められているのは確かです。詩壇にもジャーナリズムがありますがそれは詩人たちの自発的仕事によって支えられています(詩のジャーナリズムの経済もまたそうであるという議論はここではやめておきましょう)。この自発的仕事はジャーナリズムが必要とするその場限りの時評や状況論を詩の仕事だと勘違いしてしまわない限り文学の本質に届く可能性を持っています。社会的栄誉等々をはっきり見切ったところで見えてくる文学の本質は確かにあるのです。
■ 谷川電話 ■
告げられてひとりになってバスは来ず風が上着に塗りたくる白
光ある排水溝へ落ちてゆくゆきどけのみず、ゆきだったみず
使えない電池とともに過ごす夜なるべく人生から遠ざかれ
薄汚れた路上の雪に雨は降るやさしく息の根をとめるため
ぼくたちが無限にふれたドアノブがもうすぐ撤去されてしまうよ
谷川電話さんの作品にはいつも心惹かれるものがあります。その理由は〝希薄であること〟にあるでしょうね。「上着に塗りたくる白」とあるようにすべてが白紙還元されてゆくような空しさとすがすがしさがあるのです。まるで表現すべきことは何もないということを表現し続けようとしているところがあります。ただそれが現在という時代のある率直な捉え方であるのも確かだと思われます。
通常ならという言い方はおかしいですが戦後文学的文脈では底を打ったような虚無から作家はなんらかの形でテーマを見つけ出し強い意志に基づく生の方に踏み出してゆくのが普通です。しかし谷川さんは虚無の底に留まろうとしておられるように感じられます。これはこれで一つの表現として成立していますが口語短歌のティピカルな道筋かもしれません。
口語短歌は当たり前ですが文語体表現を使わないわけですがそれは従来の短歌的主題から必然的に離れるという作用をもたらしています。つまり口語は作家一人一人違うものとして捉え得るわけで現代詩がそうであるように作家ごとに孤立した表現になりがちです。虚無でスタートすれば虚無で突っ走らなければならないという面があります。口語短歌では一作家一主題という面がとても強いです。
もちろん作家の表現主題は一つあれば充分です。問題はそれが作家の肉体を含めた全存在を貫くものかどうかということです。そういった主題を作家個人の所有物である口語で表現し続けるのなら主題はどこまでも深まってゆくはずだと思います。
■ 野口あや子 ■
独活吐けり冬瓜吐けりわたくしのむすめになりたきものみな白し
むすめはむすめは(過呼吸、呼吸)ときおり父に会いたがり気つけぐすりの赤をこのんで
ゆきふるかふらぬか われはくずおれたむすめを内腿に垂らしておりぬ
■ 服部真理子 ■
水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水
手のように白い梨むき逃れゆくものがみな夜逃れる不思議
春、君のことをひと声呼んだきり帰らない紙飛行機がある
野口あや子さんは文語体を使い服部真理子さんは口語短歌ですがこのお二人の女性作家の場合は文体の違いはあまり問題にならないでしょうね。野口さんも服部さんも視線は自己の内側に向いておりその心象が外界(現実世界)の物と結びついて表現されています。心象という表現主題をお持ちである以上文体は時と場合によって文語体と口語体を行き来できると思います。谷川電話さんの社会の中での孤独表現と比較すれば女性作家の心象(内面)は豊穣で暖かです。こういったところに男性作家と女性作家の違いが否応なく出ます。
ただ基本的に平明な実感表現を良しとする短歌の世界では伊藤比呂美さん的な「われはくずおれたむすめを内腿に垂らしておりぬ」や「白い梨むき逃れゆくものがみな夜逃れる」といったわかったようなわからない表現への点が辛くなるのは当然でしょうね。しかしこのお二人の歌人はそういうことを重々承知の上でいきなりクライマックス的な心象を表現しているとも読めます。それだけ内面と社会をつなぐ現実的なとっかかりがないということではないでしょうか。
短歌に限りませんが文学者が社会的事件を作品化するのはそう簡単ではありません。もちろんそのような作品は数多く書かれていますが秀作はほとんどないと言ってもいいと思います。むしろ谷川電話さんのような社会からの孤絶を表現した方が文学として訴えかけるものが多いです。ただ野口さんや服部さんのように内面を書くとこれはこれで内面心象に沈静してしまう。心象自体は豊穣なのですがそれと社会とのつながりが今ひとつ見えてこない。この二つの短歌現象は恐らく同じような現代的状況の反映だと思われます。
■ 黒瀬珂瀾 『サーカスにはひる』より ■
おまへはよくやつた、森へ帰らう、と鹿告げき社食のわれに
をさな児ら仏間に騒ぐこそよけれ香を焼ぶれば過去が見ゆるも
おふせです、と十円玉の三枚はティッシュに包まれつプリキュアの
かよはとほくのサーカスにはひる ゆゑにまた子を作りそを慈しめといふ
北陸道にみぞれ散りつつ児を運ぶ母に抱かれて目覚めさせむと
20代歌人特集に含まれているわけではありませんが黒瀬珂瀾さんは一九七七年生まれで三十九歳の若手歌人です。はっきり言えば二十代作家に比べて技術的にも内容的にも一日の長があると言わざるを得ないでしょうね。黒瀬さんの歌の内容は口語短歌的と言っていいですがそれを文語体にくるむことによってあるパースペクティブを得ています。「おまへはよくやつた、森へ帰らう」の歌は充分世捨て的なのですがその世捨て人が子どもから自分はサーカスに入っていなくなるから「また子を作りそを慈しめ」と捨てられるわけです。現実には荒唐無稽ですが親子や人間関係の本質を暗示しています。もちろん社食で食事中の主人公に「森へ帰ろうと」呼びかける(神)鹿が反語的存在であることは言うまでもありません。こちらは社会と切れることのできない人間存在を描いています。
多くの歌人が口語短歌の行く末に強い関心を持っていると思います。男の作家は観念的ですから口語短歌でスタートしたらどこまでも口語短歌に律儀に抽象表現を追い求めようとする傾向があります。女性作家は口語短歌のおいしいところをつまみ食いしながら表現の基盤をしっかりとした生活に置いていつでも文語体表現に抜け駆けできるような体勢を整えているようなところがあります。どちらの表現も面白いですが口語短歌という名称に表れているようにそれは技法の一つでしかありません。技法はそれを使いこなしその上位審級に作家が到達して初めて意義あるものになります。黒瀬さん的な道行きが案外今後の短歌の進む道を示唆しているのかもしれません。
高嶋秋穂