偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ さあきたぞ。
(やっぱり、み、みつかった……)悟った瞬間ササーッと唇~喉の奥まで――
カラッカラに干からびるのを君は感じたんだっけな。
カラッカラに。
なるほど人体ってこういうときこうなるものなんだ……後からそう思ったのだったか現場で不思議と納得に一瞬浸ったのだったか、とにかくパニックではあったよな。
君は覚悟を決めて出ていったと。
言葉は交わしたことがないまま顔なじみと言ってよい図書館カウンター担当中年女性職員が廊下に立っていたと。被視体の方は当然のことながら顔を合わせぬよう避難していたわけだよな。一対一だ。
「そちら、女子ですよ」
あ~あ、顔なじみ的おばさん職員との初会話がこれだとは。
トホホもいいところだぜ。君はカラッカラの喉からかすれ声を絞り出さざるをえなかったと。「……ぇぇとぁのぅトイレットペーパーが男子の方にぁのぅそのぅ……」
ファーストコンタクトとしてはどうだったんだろうね。印象のほどは。
まあそのへんの記憶が曖昧なのは仕方ないよな、大した事件にも遭わずにきた君にとって人生最大最初のピンチだったと言ってよいのだから。
女性職員は困惑したような、責任感を形作りしなきゃならないような、中途半端な笑顔で君を問いつめかけていたわけだが……
君は気がつくと向かい側の男子トイレの洗面台でグダグダ手を洗っていたと。
女性職員は「気をつけてくださいよ……」とかなんとか、君をいったん解放したのだったっけ?
君としてはもちろん、すぐ立ち去ればよかったのだよ。引き留める外力がなかったわけだから。
そこがそれはそれ、女性職員と対面した現場から五歩しか離れていない洗面台で君は呆然と手を洗い続けていたと。
まあわかるような気がするな。
結構長い時間無意味に手を洗い続けてたって?
わかるよ。
逮捕してください、と。連行してください、と。どうぞ尋問を、と。
観念とか諦め、ではないよな。
自罰感情、でもないよな。
聖域に踏み入っておいて、目撃されておいて、何事もなかったかのようにというのは、いやもちろん、この市民センター分館付近を今後避けて生活すれば後腐れもないだろうが、やはり君としては、
(美意識が許さない……)
とでもいった感じかな。
美意識。合ってる?
とりあえず連行されたかったよね、もちろん。
君は事務室に連行されることをむしろ望んでいるように自ら感じたことだろう。手足が恍惚とシビれたみたいで立ち去れなかったってのが真相になるかな。簡単に言や、発覚願望が満たされた余韻に浸ってしまったわけよ。
発覚願望?
君は覗きをやめたがっていた?
いやいや。そんな殊勝な平板な動機はなかっただろう。今になって、何年も経った今になって取り繕う必要はないさ。
現場的には、あのとき君は、う~んそうだな、これでオシマイじゃ物足りないみたいなね、発覚確認欲が追って込み上げてきたっぽい感覚もあったんだろう。
そう、発覚確認欲だよ。
万事休す実感欲だよ。
発覚の憂き目にほんとに遭ったんだよな的覚醒欲だよ。
いったん見つかった以上、ここは逃げおおせたとしてももう怖くて次はできないわな。覗きは。どうせそうなるなら、手足をもがれるなら、洗いざらい自分に対して覗きのモチーフやら経緯やらについて確認し直したい欲求が盛り上がったってこともある。他人の前でね。
真面目な図書館員、市職員てのは、世の良識を代表する証人としちゃ、うってつけだからな。ふむふむ。
一通りのコースを済ませてしまいたかったわけだ……。
まあとにかく、逃げるチャンスを放棄してひたすら佇んでいた結果、望みどおりというべきか洗面台の背後からあの女性職員の声が天声のようにかかったんだっけね。
「ぁのうやっぱり……、お話を伺いたいということで……」
奥床しい天声だったな。
逃げずに待った甲斐があったな。
むしろ君はこの時こそ勃起していたのではないかな?
どんな素晴らしい黄金スペクタクルに出遭ったときよりもこの場違いな中年女の天声に対して。破滅の宣告に対して。
とはいうものの自らとどまっておきながら、いざこの声がかかると君はまた全身の血が足もとに下がってゆくような気がしたって? 勝手なやつだよほんと。でも「血の気が引く」を普通に実感できてよかったな。
さてむこうはむこうでほら、
君を放置して時間を与えて面倒を回避できるかと期待したことを後悔しているかのように、この第二段階の女性職員は毅然とした表情で君を連行してゆくわけだ。
君より頭一つ低い女性職員がね。
もちろんその気になれば君の方が足は速い。
先導されながら、今さらながら逃げたくなったろうねえ。え? あぁやっぱり。逃げようかと。あれだけとどまっておいて。バカかおまえは。つくづく勝手なやつだぞ。
階段を下りて事務室に入る。
きた。
事務室だ。
定番の事務室ですよ。
そりゃあもちろん、口髭の一つもたくわえた男性職員がデスクのむこうに待っているさ。
それが形ってもの。とりわけ一瞬でも美意識に囚われた君の状況だからね。
職員二人はデスクを挟んで君を見つめ始めたんだね。
「ではお話を聞かせていただきましょうか」と男性職員がにわか作りの詰問調で始める。そうだったな。にわか作りっぽいとはいえ落ち着いた声で、決して小手先で誤魔化せるような相手ではない。そうだったっけね。
そうだったんだろ。
尋問陣に男が加わるというまあ当たり前の事実に直面して、初めて気づいたかのように君は後悔し始めたっけ。
広く見ても狭く見ても目下の状況の原因が性犯罪だからか、なにかこう、「裏切られた」気がするのかな、男に訳知り顔で尋問されるというのが。
髭なんか生やしやがって勃起頻度いかにも高そうな男から尋問されるというのが。
まあつくづく勝手なやつってことなんだよ、君は。
男だろうが女だろうが尋問するでしょうよまったく。
形からしてもせざるをえないでしょうよ、逃げもしない隠れもしない往生際の悪い性犯罪者に対しては。
「話を聞かせてください」
髭男が重ねて言ったことで、君は自分がしばらく沈黙していたこと、うなだれていたこと、現行犯の分際を律儀に演じていることに気づいたっけね。
「すみません……」
セリフをあらかじめ考えてなどいなかったにしてはとっさに驚くべきパフォーマンスだったな、君のそれは。
えーとなんだっけ、
「決して覗いていたわけではないんです……」
覗いていたわけではない?
もう君が常習犯であることは被視体から尋問者へ伝わっているはずだったろうが。それを今さらぬけぬけと「覗いてない」だ?
覗く以外の目的で何しに女子トイレに侵入していたというのだい。女子が入った直後に真後ろの個室にさ。
「覗いてませんでした……」
たしかに今日は覗く暇はなかっただろうさ。しかしその一点をもって、これまで一度も視覚に訴えたことがなかったと、そんなことが信じてもらえると思っていたのかい。
しかし驚きだ。君はこう言ったんだろ。
「聞いてただけなんです。聞いてました、音を。音なんです」
……。
「音が目的でした。覗いたことはなかったんです」
音だ?
音だけだ?
つくづくあきれかえるよ。君には。そんな言い訳が通用すると信じていたことに。
それにとりあえずウソだしな。覗いたことないってのは。
(第72回 了)
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