偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ まだ渇ききっている喉を振り絞って、君はよりによってなんてまくしたてたんだい。
相手が黙って聞いてるのをいいことに、というか自分のパニックぶりに便乗するかのように、シラフじゃ恥ずかしくて言えないような御託を自動発信したんだよな。
「すみません。……二、三ヶ月前にですね。そのころに、本町図書館のほうで女子トイレの前を通りかかりましたら、フロアとの間の扉が開いてまして、たまたま中から大きなオナラが連発で聞こえてきまして。そしたらすごく和みまして」声の速度だけは冷静に「ほんと和みまして。それから、同じように音が聞けないものかと女子トイレの前を行ったり来たりするようになりまして。和んでしまったもので。えーと、あくまで……」
あくまで音を、音だけを、と譫言のように君は繰り返したんだってな。
「えーと、あくまで音を聞くのが目的だったんで、市内の図書館を歩き回りまして、女子トイレ付近に人通りの少ないこちらのですね、ここの図書館に定着しまして」いかにも理屈っぽそうな口調で君は続けるだろう。もちろん冷静だからじゃない、機械的に喋り続けないとパニックですぐさま崩壊しちゃうからだ。「だけどオナラってなかなか聴けないもんですから。外からだと。それで外では満足できなくなったというか、つい忍び込んだりするようになりまして。いや、音が目的なんで、今日も覗いてません。音だけでして、すみません、ええ、音で。すみません」
耳を澄ましていただけです、耳を澄ましていただけです、オナラです、オナラです、オナラだけなんです、オナラだけがほしかったんです。
オナラ、オナラというかすれ吐息の連呼は君がまるで機械になりきって落ち着いてくるに従って逆に速度を増してゆく、その有様が目に浮かぶようだよ。しかしまぁなんてざまだい。
「オナラなんです、オナラ、オナラでまた和めないものかと。オナラを聞きたくて、オナラを、オナラを」
オナラで和まれちゃあ相手も強くは出られないよな。和んでいる以上勃起してはいないだろう、ましてや床にへばりついて下の隙間から覗いたりといった窮屈な姿勢は決してとっちゃいまい、系統のメカニズムで相手のイメージを暗に操作してしまったわけだからな。
しかし君ってやつはなぁ。
和む、が捏造だったんだって?
和む、とはとっさに出てこなかったんだって?
ほんとはこういうセリフだったんだって?
「すみません。……二、三ヶ月前にですね。そのころに、本町図書館のほうで女子トイレの前を通りかかりましたら、フロアとの間の扉が開いてまして、たまたま中から大きなオナラが連発で聞こえてきまして。興奮しまして。ほんと興奮しまして。それから、同じように音が聞けないものかと女子トイレの前を行ったり来たりするようになりまして。興奮したもんで。えーと、あくまで……」
まったくぅ。ここではお役所向けの懺悔をしてるんじゃないから。ここはお役所とは最も遠い場所なんだと最初に誓い合ったじゃないかよ。気取っても見栄張っても意味ないから。ちゃんと記憶どおりに申告してくれないと困るんだよね。記憶自体が正確かどうかは別としてね、自分が記憶していると信じているとおりに述べてもらわないと。
で、君は、「興奮した」と言ってしまったんだな? 普通に興奮したと。そりゃあまぁ相手も硬化するわなあ。
しおらしく罪の供述してるはずの男があえて「興奮した」などと露骨に白状してる様子ときたら挑戦とも開き直りとも自暴自棄とも受け取れたろうからな。
まあ実際君は和んだというより勃起して興奮してたんだから仕方ない。ことの始まりが漏れ聞こえた女子放屁だったというのが事実であったことが唯一の救いだよ、全く。
で、なんだ、口髭男性職員は憮然と身分証明書の提示を求めたわけだな。
それは予期したとおりの展開と言っていいよな。
「興奮した」で相手は硬化したものの、「オナラ、オナラ」を反復する脱力話法に相手は同時に軟化の兆しも見せ始めたんだっけか? 軟化? そりゃ錯覚だろうよ、単に呆れたんだろうよ。
(しまった……)
てなもんだよ。とくに主尋問役を担わされた口髭男性職員としては。
(しまった……。トホホ野郎だったか……)
(オナラオナラってこいつ……レイプするとかせめて秘部を撮るとか見るとかならともかく女の屁を聞くためにだけ立ち入り禁止区域に命削って忍び込み続けたというのか? ほんとにオナラのために? こうも情けなく譫言めいたオナラオナラを訴え続ける顛末のために? ダメだなこいつは。本物のトホホだ。まともに対処するだけバカらしい……)
「こりゃダメだ感」は君が無意識に期待したとおりの反応だったのかもしれないが。まあ追いつめられて偶然にもいい手を編み出したってとこかな。
あ、話は逸れるが笹川臨風って美術史家を思い出したよ。春峯庵事件っていうんだけどな、戦前に肉筆浮世絵の大規模な偽造事件があったんだよ、新発見の写楽や歌麿がぜんぶ贋作だったという。で、推薦文を書いた笹川臨風が詐欺の共犯容疑をかけられて。で、警察で鑑定テストを受けたわけだ。浮世絵の真作と即席の模写とを並べて、どっちが真作か当てるってテストな。別々に見てじゃなくて並べてだぜ、ちょっと美術通だったら間違えっこないでしょ。それを臨風先生、みごと間違えた。逆の判定。これで「贋作と知っての詐欺ではなく無能だっただけ」ッてことになってね。無罪放免になったわけだが。
ま、一説、ごく一説だが一説によると笹川臨風ほどの江戸文化研究の権威が間違えるはずがない、わざとかまして罪を逃れたのだと。しかし学者としての信用を失ったその回復不能の損失と天秤にかけたときどうなんだろうねえと。罪を逃れたいがために世の嘲笑に甘んじるかねえと。同じ学者生命失うにしても悪とされるより愚と思われた方がほんとにマシなんですかねえと。
ま、それをちょっと思い出したよ。君は悪辣な覗き魔としての嫌疑を完全払拭するために、脱力系オナラフェチの愚かしさへ身を窶したわけだが。しかしほんとは覗いてたんだもんな。覗きまくってたんだもんな。網膜に大物黄金ゲットの日には嬉々としてノートに記録してたんだもんな。普通の通俗の劣悪な覗き魔だったんだもんな。目当ては前じゃなく後ろ専門だったにせよ覗きは覗きだよな。オリモノの粘つく垂れ筋なんかも記録してたっていうんだから。世間的にわかりやすい性犯罪者、覗き魔野郎。
それをわかりづらいオナラ盗聴野郎に変身してみせたと。
まあなんだな、人肉食いの業を人糞食いの行で誤魔化すようなものだな。
そりゃあ人食い巨人が人体丸ごと飲み込めば直腸も中身もいっしょに飲み込むのだろうが。そこだけ拡大されても。枝葉を複雑にするのもあれだからこの筋の思考実験は追及せんが。
呆れるよな。
まああの場じゃ標準悪より手の施しようのないアホになりきった君の勝ちって考えも成り立ちはするんだけどな。
でも単なるアホじゃ無罪放免とはならないぞ。
オナラ、オナラと必死で繰り返す君のかすれ声を遮って、口髭男性職員は「身分証明証見せてもらえますか?」と言ってきてるわけだから。
呆れ顔ではあるが決して情状酌量じゃないんだから。
まあオナラの威力なんてそんなもんだよ。
「身分証明証見せてもらえますか?」四十男の分別をもてあまし気味に職員は繰り返しただろうよ。
女性職員の方もますます神妙にね。決して笑いをこらえてなぞいないぞ。オナラごときで。笑わせたきゃほぐしたけりゃ自分で実際一発かましてみりゃよかったっつの。言葉とケツがシンクロしてそこそこだったろうよ、現場的に。拘留身柄的に。
……アホが。いま屁ぇしてどうすんだっつの。調書って言ってるけどこれは性格違うから。はぐらかしてもご褒美でないから。しかしいい放屁ッぷりだったなあ。それ、あの現場でやるべきだったなあ。
まったく。
でももうあそこじゃステップが進んじゃったしな。
君ってやつはここでいちおう観念したはずなんだがな。身分証明証ステージだから。
住所氏名控えられてブラックリストに載るんだから。
相手はメモをとる用意もしてるんだから。
君は素直に身分証明証つまり学生証を提示したわけだな。
で、そのへん妙にもったいぶった口調だと思ったらそういうわけだったかい。
学生証……。
「いちおうこれです」って言いながら出したんだな? そ、「いちおう」。
なにがいちおう、だよこのバカが。
大バカが。
君に職員ふたりをこの後の展開で批判する資格あるのかっつの。
「いちおう」なんて口滑らしちまった君に。
言っとくが学生証にいちおうもにあいもさんまんもしのごのもないんだぞ、そんな段階なんか。
なにがいちおうだ。
あ~あ。……
(第73回 了)
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