その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第七話
男性店員と別れたあと、一人で孝介を探し回った。万引きからの逃走を手助けしておきながら、それでも孝介を叱ろうと思ってしまう。虫のいい話だ。
孝介はまたも見つからなかった。いつのまにか、塾が始まる午後五時を回っている。今日は塾をどうするつもりなのだろう。我が子の頭の中が読めない。
ただし、ひとつだけはっきりしたことがある。それは孝介が道を踏み外しているということだ。きっかけはわからないが、とにかく非行の入り口をとっく通過している。万引き現場を見たのだから、これはもう疑惑のレベルではない。
きっと私が悪いのだろう。成績が良いことに安心して、それ以外に目を向けてこなかった。偏差値が七十以上あるというだけで、誇りに思っていた。
六時ごろ、おそるおそる塾に電話した。孝介の出欠を確認してみる。
先生いわく、孝介は時間通り塾に来ているという。しかも、算数の授業の最初に行った小テストではクラスで一人だけ満点だったとか。私は少し安心したものの、すぐに気を引き締めた。孝介にはこういう抜け目のないところがある。昨日の件があるだけに、しばらく真面目ぶるつもりかもしれない。
その夜も孝介は疑う母を牽制してか、塾から素直に帰ってきた。
私は万引きの件を問い詰めようと思ったものの、その切りだし方に頭を悩ませた。現場を見たと言ったら、孝介はしらばくれるだろうし、しつこく食い下がったら、悲しい顔をして「僕を疑っているの?」とか言い出しそうだ。孝介は本当に口がうまい。私みたいな受身の人間があれに対抗しようと思ったら、相当の覚悟が必要だろう。我が子に脅威を感じてしまうとは、つくづく情けない。
こういうときこそ新一を頼りたいのだが、『今夜も編集所に泊まり』というメールが送られてきた。まったく、電磁波を浴びまくって死ねばいいのに。
結局、孝介を咎められないまま、一日を終えてしまった。秋穂が常にそばにいるのも厄介だった。まだ二年生の秋穂の前で、こんな話はしたくない。
深夜、またも子供部屋に忍び込んで孝介の鞄をあさった。しかし、不審な物は出てこない。万引きしたはずの漫画も出てこない。それはそれで不審だ。
孝介の寝顔に目をやった。なぜか目頭が熱くなる。
出産の痛みは記憶からずいぶん薄れてしまったけれど、初めてママと言ったときや初めて立ったときの光景は今も鮮明に覚えている。三歳の誕生日にトイ・ストーリーのリュックを買ってあげたときも、五歳の誕生日にケーキを焼いてあげたときも、孝介はいつも全身を使って喜びを表現してくれた。きっと孝介はなにも覚えていないのだろう。親と子は思い出の量が違いすぎる。
不覚にも涙腺が決壊しそうになったので、子供部屋から退散した。新一のいない寝室に入ると、途端に体に力が入らなくなって、床にへたり込んだまま鼻水をすする。左目からあふれた水滴が、頬をつたって手のひらに落ちた。
孝介の変化よりも自分の不甲斐なさが悲しかった。十一歳になった息子は、親の手の届かない自分だけの世界をどんどん構築している。一方の私はそれについていくこともできず、掌握することもできず、ただただ取り残されるだけだ。
今までは、栗山家の中で私の味方は二人の子供だと思っていた。私たち三人がチームを組み、新一に対抗しながら家族のバランスを保っているような感覚だった。けれど、それもいずれ崩壊するのだろう。孝介だけでなく、秋穂も離れていくのだろう。そんな当たり前のことが、今の私にはとてつもなく怖かった。
翌日、孝介と秋穂を学校に送りだすと、ますます憂鬱になった。家に一人でいることが、こんなに重苦しいとは初めての感覚だ。今日はパートもないから余計に暇を持て余してしまう。今までの私はどうやって過ごしていたのだろう。
一人で悩むことに限界を感じたので、立川の実家に顔を出すことにした。事前の電話では、母に孝介に関する相談だとは言わず、遊びに行くとだけ伝えた。
実家といっても賃貸マンションだから、正確には親が住んでいる家ということだ。栗山家の感覚で言うならば、私には実家と呼ぶべき場所がない。
昼ごろ、その家の敷居を久々にまたぐと、リビングから姉の声が聞こえた。
またか――。思わず顔をしかめた。これで何回連続だろう。私が母に会いに来るたびに、いつも姉が先にいる。毎日通っているのではないか。
リビングのテーブルでは、姉と母がランチを食べていた。
「あら、亜由美、ちょうど良かった」姉は私の顔を見るなり言った。「ねえ、新一さんの仕事の関係でさ、福山の年越しライブのチケットって取れない?」
「はあ? そんなのわかんないよ」
「ダメもとで頼んでみてよ」
「頼むだけならいいけど、なんで?」
「今ね、お母さんと一緒に行きたいねって話してたんだ。子供は旦那が面倒見てくれるって言うからさ。お母さん、六十超えて福山にはまったんだってー」
姉が手を叩いて笑うと、母の顔が赤くなった。「そういう言い方やめてよ。あんたの影響でしょー」乙女みたいに頬をふくらませている。
ふん、私の気も知らないで。年末年始の浮かれ話は、聞いているだけで苛々してしまう。どうせ私は大阪ですよ、のけもんですよ。そうやって、お姉ちゃんはお母さんを独占すればいいんだ。この核家族の嫁めー、次男の嫁めー。
「ところで、なにしに来たの? あんたが寄りつくなんて珍しいじゃん」
姉の言葉にますます腹が立った。悪気はないのだろうが、無神経はそれだけでも罪だ。だいたい月に一度は実家に寄っているのだから、とっくに結婚しているアラフォー娘としては少なくないだろう。姉が親離れできていないだけだ。
「別に用があったわけじゃないから」私はなぜか素直になれず、冷めた調子でソファーに腰をおろした。「近くに来たから、ちょっと顔出しただけだし」
「また、そんなこと言って。ほんとはなんか話があるんでしょ?」と母。
「もういい」
「なんで怒ってんの?」
「怒ってないし」
「いいから、話してごらん」
母は妙に優しい声色で言った。子供の捻じ曲がったヘソを根気強く正そうとしているかのように思えて、なんだか情けない気持ちになってしまう。
「どうでもいいけど、話すんなら早くしてよね」姉の横やりが入った。「お昼食べ終わったら、お母さんと買い物に出る予定だから、そんなに時間ないのよ」
はあ? なんだそれは――。いつから母の予定の舵取りまで、姉が担うようになったのだ。いつから母と二人一組になったのだ。これだから長女は。
姉は私と違って押しが強く、学級委員を進んで務めるようなタイプだった。いつも自分優先だから、受身な人の気持ちがわからない。受身な人の多くは自分がないのではなく、周りを立てるために自分を抑制しているだけだということに気づいていない。姉の舵取りは、私の遠慮のうえに成り立っているのだ。
「帰る!」
私は手短に言うと、わざと荒っぽく立ち上がった。
「ちょっと亜由美」母が困惑した顔を見せる。「どうしたのっ」姉も続いた。
私はかまわずリビングを出た。廊下をずんずん歩く。母が追ってきたが、「お姉ちゃんがいないときにまた来るから」と小声で告げて振り切った。
玄関でブーツを履いていると、下駄箱の上に飾り立てられている写真が目に入った。三秒ほど見つめているうちに胸が痛くなってくる。父の遺影だ。
外に出た途端、大きな孤独感に襲われた。それは十五年前に父が病気で死んで以降、私の中にずっと潜伏している感覚だ。父がいなくなり、母と姉と私の三人になったことで、家族の中に二対一の構図が生まれるようになった。姉の血液型が母と同じO型で、私が父と同じA型であることも、孤独感に拍車をかけた。
だから母と姉が仲良くしていると、無性に寂しさを感じてしまう。子供のころは姉のことを無邪気に慕っていただけだったが、新一と結婚して別の家庭を築いたことで、いつのまにか姉への対抗心みたいなものが芽生えたのだろう。
立川の駅に着くと、クリスマス前の賑わいが他人事のように感じた。子供を連れた母親とすれ違うたびに、どこか不愉快な気持ちになってしまう。私はうつむきながら、駅構内を早足で歩いた。周囲の景色を視界に入れたくなかった。
その後も腹の虫がおさまらなかった。こうなったらヤケ食いでもしてやろうかと思って、地元のスーパーに立ち寄る。大量のお惣菜や菓子パンを仕入れ、普段は飲まないお酒も買った。たまに酔っぱらっても、罰は当たらないだろう。
自宅に着くなり、まずは菓子パンにかじりついた。今日の胃袋は宇宙みたいに際限がないような気がしていたけど、実際は半分ほど食べたところで早くも食欲がなくなった。菓子パンがまずいのではない、腹が満たされたわけでもない。どういうわけか食べるという行為がむなしくなった。食べることに疲れてきた。
缶ビールも少し飲んだだけで、あとはキッチンの流しに捨てた。次いで空き缶を足で踏みつぶすと、妙に快感だった。私は新たに取り出した缶の中身を丸ごと流しに捨て、空き缶をまたも踏みつぶした。その後も同じ要領で、買ってきた五本の缶を全滅させる。迷いもなければ、罪悪感もない。ただただ快感だった。
ほどなくして、玄関の鍵を回す音がした。その後ドアが開き、新一の赤い顔が見える。「帰ったぞー」昭和の亭主みたいな、ぞんざいな声で言った。
私は思わず溜息をついた。一瞬、眉間に深いしわが寄る。新一の帰宅は本来ならうれしいことのはずなのだが、今日は無性にイラついた。帰ってくるならメールでもしろよ、バーカ。どいつもこいつも無神経なんだから。
「やっと編集終わったわー。ごっついで、ほんまー」新一がいつもより激しい関西弁で愚痴をこぼした。「いやいや、あいつら無茶苦茶やわー。これ、エモやんやったら『局Pがアホやから番組でけへん』とか言って投げ出してんでー」
よほど大変だったのだろう。くわしくはわからないが、テレビ局に文句を垂れていることは伝わってくる。発注元にかき回されるのは孫請けの宿命だ。
「新ちゃん、また飲んできたんでしょ?」
私が言うと、新一は「ちょっとだけよ~」と古いギャグを口にしながらリビングのソファーに腰をおろした。ストリッパーみたいな仕草で鞄を投げ捨てる。
「まだ昼間だよ? どこで飲んできたの?」
「編集所で缶ビール祭り。丸二日以上もかかってんから打ち上げせんと」
「疲れてんのによくやるね」
「アホか、疲れてるときの酒が一番うまいんやないかーい!」
新一はまたも誰かのギャグめかした口調で言い放つと、おどけたような笑みを浮かべた。妙にテンションが高い。謎の鼻歌まで口ずさんでいる。
私はうんざりして肩を落とした。こっちが憂鬱なときに、陽気な人を見るのは不快でしかない。欽ちゃんの仮装大賞みたいに苛々のランプが上昇してくる。
けど、我慢した。今はそれどころではない。せっかく孝介と秋穂の学校が終わる前に、新一が帰ってきたのだ。孝介のことを話したい。
「あのさ、疲れてるとこ悪いんだけど、ちょっと相談があるの」
私があえて神妙に切りだすと、新一が急に膝を叩いた。
「あ、相談で思い出した!」
「はあ?」
「いや、実は俺も相談したいことがあったんだ!」
「え、なになに? 私も相談があるんだけど」
「まあ、とりあえず座れよ」
新一はテーブルへの着席を促した。私は釈然としなかったものの、新一の勢いに押され、例のごとくしたがってしまう。最近こういう自分が嫌だ。
テーブルに対面で座るや否や、新一が「実はな――」と話し始めたので、私は慌てて遮った。「待って。先に相談があるって言ったのは私なんだけど」
「ああ、そうやったっけ。けど、それって大事なこと?」
「大事に決まってんでしょ」
「じゃあ、わかった。今日はどうなさいましたか?」
「なに、そのカウンセラー目線」
「ったく、いちいち難しいな、おまえは」
「もういい」
「ふてくされんなよ」
「別にふてくされてないし。話す気分じゃなくなっただけ」
「じゃあ、俺が先に話していい?」
「お好きにどうぞ」
「よし、好きにする」
あ、ちょっと――。思わず手が伸びそうになった。もう、私ってやつは。
新一は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。ますますカチンとくる。こうなったら、厭味たらしく聞き流してやろう。それがせめてもの抵抗だ。
「前にもちょっと話した件なんやけどな……」新一が口火を切った。「あれから色々考えて……やっぱ大阪に引っ越す方向で決定しようかと思うねん」
「え?」聞き流せなかった。思わず目をむいてしまう。
「時期としては来年の春かなって。お父さんにはこの年末に帰ったときに報告して、社長には年明けの一月中にタイミングを見て言うつもり」
私は相槌を忘れて聞き入った。胸がざわざわする。
「子供のことを考えると、新学年が始まる前がええやん。秋穂は小さいから大丈夫やろうけど、孝介は最近ちょっと反抗期気味やから説得が必要かもな」
孝介……。口の中でつぶやく。胸のざわつきが激しくなってきた。
「だから、亜由美もそのつもりでいてほしいねん」そこで新一がテーブルに肘をついた。「ほら、前に考えさせてって言ってたやん。あれから考えた?」
「はあ?」
その瞬間、私の中でなにかがはじけ散った。気持ちがみるみる引いていく。
「いいかげんにしてよ……」無意識に口走っていた。
「え?」新一が目を丸くする。
「なにが、そのつもりでいてほしいよ……。ふざけてんの?」
「亜由美?」
「……馬鹿にしないでよ!」思わず立ち上がって、声を荒らげた。
「おい、どうしてんっ」
「人の気も知らないで、勝手に大阪大阪って! どうせ私は素直についてくると思ってんでしょ! 自分の好き勝手にできるとかって思ってんでしょ!」
頭の中は真っ白だった。それなのに、次から次へと言葉が湧き出てくる。
「言っとくけど、私は反対だからね! 大阪なんかに引っ越さないからね! なんで栗山家の都合で、こっちまで巻き添えにされなきゃなんないのよ!」
「ちょっと待て、なんやその言い方は!」新一も立ち上がった。テーブルを強く叩く。「別に勝手に決めたわけちゃうやろ。ちゃんと相談したやんけ!」
「こっちは孝介のことでいっぱいいっぱいなのよ!」
「孝介は関係ないやろ!」
「関係ない?」思わず顎を突き出した。新一をにらみつける。「あのね……私がどれだけ孝介のことで悩んでいたか……どれだけしんどかったか……」
「だから、意味わからんって」
「もういい!」
「おい、亜由美!」
「うるさい! とにかく反対なのよ! 反対反対反対!」
私は振り切るように怒鳴りあげると、逃げだしたい衝動に駆られた。新一の顔を見るのも嫌になり、咄嗟に背を向けてしまう。「おい、落ち着けって!」背後から声が聞こえたが、それに答えるわけにはいかなかった。
自分の中に明確な論拠があって反抗したわけではない。それをなんとなくわかっていたからこそ、新一と冷静に話し合いたくなかった。話せばきっと、いつものように押し切られ、結局は新一にしたがってしまうだろう。そういう自分の性に反抗したかった。そういう人生をそろそろ終わらせたかった。
数分後、私は自転車を漕いでいた。街路樹が真横を流れていく。どうやって家を出たのか、どうやって自転車に乗ったのか、そのへんの記憶がなかった。
果たして、新一は追ってきているのだろうか。一瞬そんなことを思ったが、振り返るのが怖かった。吐く息は白く、ハンドルを握る手は異様に冷たい。ダウンジャケットも手袋も忘れてしまったことに、今ごろ気づいた。
あてもなく自転車で走り続けた。威勢良く家を飛び出したところで、近所をぐるぐる回ることしかできないから情けない。ますます憂鬱になってしまう。
しばらく適当に巡回していると、いつのまにか孝介と秋穂が通う小学校に近づいていた。視線の先には薄汚れたコンクリート造りの校舎が佇んでいる。
私はなんとなく吸い込まれそうになって、ペダルを漕ぐ足に力を入れた。時刻は午後四時過ぎ。授業はとっくに終わっている時間だ。
小学校の正門前に到着した。下校する子供たちが次々に顔を出してくる。
校庭を見渡すと、サッカーに興じている男の子たちがいた。今の子供は野球派よりもサッカー派が断然多いという。なんでも野球は止まっている時間が長いから、子供にとっては退屈なのだとか。なるほど、だから草野球はオジサンのスポーツなのだろう。缶ビールを飲みながらでは、草サッカーはできない。
サッカー派の中に孝介の姿を発見した。友人たちと声を掛け合いながら、懸命にボールを追いかけている。この寒い中、上着を脱いでTシャツ一枚だ。
なんとなく嫌な予感がした。孝介の奴、今日はいよいよ塾をさぼるつもりなんじゃないか。いったん家に帰って、塾の用意をしてから自転車に乗り直すと考えると、こんな時間まで学校に居残ろうとしないはずだ。
そう思うと、咄嗟に口が動いた。
「孝介―!」
大声で呼びながら、校庭に向かって歩を進める。孝介にしてみれば、友達と遊んでいるときに母親に乱入されるのは恥ずかしいところだろうが、今はそこに配慮する余裕がなかった。ためらうことなく、我が子に詰め寄れる自分がいた。
孝介は私に気づいた当初こそ目を丸くしていたが、ほどなくして不快そうに顔をしかめた。「なになに、あれって孝介のお母さん?」「おい孝介ー、ママが迎えに来たぞー」友達が口々に囃し立てる。「うるせえよ」孝介は悪態をついた。
「孝介、ちょっと来なさい」
私が手招きすると、孝介は口を尖らせながら歩み寄ってきた。「なに?」両手をポケットにつっこんでいる。私は孝介の腕を引き、校庭の隅に連れて行った。寒々しい枯れ木の陰で、我が子の顔をきつくにらみつける。
「あんた、五時から塾があるんでしょ。早く帰らなきゃダメじゃない」
孝介は押し黙ったまま、地面を見つめていた。
「それともなに? 今日も塾をさぼるつもり?」
「今日……〝も〟?」そこで孝介が反応した。「ねえ、今日〝も〟ってどういうこと? 前に言ったじゃん、俺は別に塾をさぼっているわけじゃないって」
俺という一人称が気になった。私の前でそう言ったのは初めてだ。
「どっちでも一緒よ。理由はどうあれ、塾を休むのはダメだから」
私がひるまず続けると、孝介はまたも黙り込んだ。ほどなくして、強い寒気が流れ込んでくる。轟音に包まれながら、いかにも脆弱そうな枯れ木が激しく波打った。黄土色をした一枚の葉が、孝介の乱れた髪にひらひら舞い落ちる。
孝介はそれを手で払いのけると、憮然とした顔で言った。
「今日は塾に行きたくない」
「はあ?」
「なんかめんどくさい。休んでいい?」
「なに言ってんの、ダメに決まってんでしょ」咄嗟に反対した。「風邪とかならしょうがないけど、遊んでるくせに塾を休むっておかしいじゃない」
「別にいいじゃん。たまに休んだって」
「そういうのは癖になるからダメ。ちゃんと行きなさい」
「嫌だ、めんどくさい!」孝介は駄々をこねるように足踏みした。「とにかく行きたくないんだよ! 別にいいじゃん! 成績だっていいんだから!」
「成績は関係ない!」
私が怒声をあげると、孝介の足が止まった。
「あんたねえ、最近ちょっと変だよ。塾のこともそうだけど、こないだはコートからタバコのにおいがしたし、なんか隠していることあるでしょ?」
言ったあとで、胸がざわついた。けど、後悔はない。どのみち、いつかどこかのタイミングで切りだそうと思っていたことだ。
「お母さん、俺のことを疑ってるんだ」
案の定、孝介はいかにも切なそうな表情を見せた。私は口を強く結んで、自分を鼓舞する。今度はそうはいくか――。腹をくくって言った。
「うん、疑ってるよ」
そこで孝介の顔色があきらかに変わった。
「だって、本屋で万引きしてるとこを見たんだもん。あんたね、お母さんがなにも知らないとでも思ってんの? 本当は全部お見通しなのよ」
この際、気になっていたことはすべて吐き出そうと思った。こうなったら、さすがの孝介も言い訳できないだろう。ネタはあがっているのだ。
「なんで万引きなんかしたの?」
私があらためて詰問すると、孝介はふてくされたように言った。
「もういいよ」
「答えになってない」
「もういいって」
「意味わかんないから」
「もうなんでもいいってこと」
孝介は小さく息を吐くと、気だるそうに踵を返した。その場から立ち去ろうとしたので、私は慌ててTシャツの裾をつかむ。「待ちなさい!」
「はなせよ!」孝介は激しく身をよじった。「はなすわけないでしょ!」私が対抗すると、親子の引っ張り合いに発展する。「はなせっつってんだろ、このクソババア!」「今なんつった!?」「ゲリクソババアだよ!」「孝介!」
驚くほど強い力だった。こんなことで息子の成長を感じてしまうとは、なんとも複雑な気分だ。私はありったけの力でTシャツを引き寄せた。こうなったら生地が破れてもいい。いくら女親とはいえ、小五に負けるわけにはいかない。
次の瞬間、伸びきったTシャツの隙間から孝介の背中が見えた。
「えっ!?」思わず目をむいた。驚きのあまり、つい手をはなしてしまう。
孝介は口の端に妙なしわを寄せながら、素早くTシャツを整えた。
「ど、どうしたの、その背中……」
「別に……。なんでもない」
「ごまかさないで。なんでもないことないでしょ」
「大丈夫だって。たいしたことないから」
「そういう問題じゃなくて!」
私が語気を強めると、孝介の態度が一変した。これまでの悪童ぶりが嘘のように、不自然なくらい優等生じみた顔を作って頭を下げる。
「わかった。ごめんなさい」
「はあ? どうしたの、急に」
「今日はちゃんと塾に行くから、もういいでしょ」
「あ、ああ」
「僕が悪かったよ。反省します。さっさと帰るから」
孝介は心ない口調で言うと、戸惑う私の隙をついて走りだした。
その先には、孝介の鞄と上着が引っかけられた鉄棒が立っていた。私は呆然としたまま、その場に立ち尽くした。なぜか身動きがとれなかった。
あのTシャツに覆われた、孝介の小さな小さな背中。シミのひとつもなかったはずの綺麗な綺麗な背中。そこに無数の傷と痣があるなんて――。
(第07回 了)
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* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。
■ 山田隆道さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■