その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第八話
孝介と二人で家路を歩いた。私は自転車を押しながら、何度も背中の傷のことを訊いてみたものの、孝介は「なんでもない」の一点張りだった。
家に着くと、おそるおそる玄関ドアを開けた。新一に啖呵を切って家を飛び出しただけに気まずくてしょうがなかったが、その新一はリビングのソファーで熟睡していたので肩の力が抜けた。まったく、どこまで無神経なんだ。
テーブルでは、秋穂が国語の宿題に取り組んでいた。「ねえ、ママ―。青いと白いを足した言葉は青白いだって教科書には書いてあるんだけど、私は水色だと思うんだよねー」と言って首をかしげている。
一方の孝介はさっさと塾の用意を済ませると、再び家を出た。自転車を漕ぐ孝介を玄関先から見届ける。五時を十分ほど過ぎたころ、念のため塾に電話してみると、孝介の出席が確認できた。先生いわく、普段通りの様子だという。
私はひとまず安心したものの、すぐに別の懸念に襲われた。孝介の背中の傷が頭から離れない。あれはいったいなんなのか。
新一の顔を見るのが嫌だったので、寝室にこもることにした。ベッドに横になりながら、孝介のことを考える。家事をやる気にはなれなかった。
悶々としたまま、いたずらに時間を過ごしていると、突然ドアが開いた。
「寝てんのか?」新一の声だった。全身に緊張が走る。
「そっちこそ寝てたんじゃないの?」
私は背中を向けたまま素っ気なく言った。「さっき起きたとこ」と新一。
その後、しばらくの沈黙が訪れた。呼吸の音さえ遠慮したくなるほどの静寂だった。時計の秒針の音が、どういうわけかやけに鮮明に聞こえる。
秒針が十回ほど音を刻んだところで、再び新一の声がした。
「あの、大阪の件やけど……ごめんな」
私は思わず唾を飲みこんだ。黙ったまま、体を新一のほうに向ける。
「編集終わったのが嬉しくて、つい先走っちゃったんだよ」新一は頭をかきながら続けた。「だから、大阪のことは忘れてくれ。俺も考え直すし」
「ああ」少し戸惑った。素直にあやまられると、なんだか悪い気がする。
「亜由美も孝介のことで悩んでたんよな。ほら、さっき口論になったとき、そんな感じのこと言ってたから……。あんとき、ちゃんと聞くべきやった」
「もういいよ」
「だから、かわりに秋穂から聞いた」
「秋穂から?」
「うん、まだ二年生やからわからんって思ってたけど、意外にそうでもなかったわ。秋穂のやつ、塾に行きだしてから兄ちゃんが変になったって言うねん」
「どういうこと?」
「中学生くらいの年上の連中と付き合うようになったみたいで」
一瞬、頭の中が真っ白になった。中学生? なにそれ。
「だから、こないだ孝介が塾をさぼったって言ってたやん。あれも、そういうことと関係あるんかもな。ほら、塾って上の子も通ってるやろ?」
ハッとした。確かにそうだ。孝介の通う塾は高校や大学の受験にも対応しているため、小学校では出会わないような年上がごろごろいる。
そう思うと、なんとなくストーリーがつながった。塾のさぼりが発覚した夜から始まり、タバコのこと、万引きのこと、背中の傷のことにいたるまで、とにかく最近の孝介について気になったことを、あらいざらい新一に話してみる。
新一は話を聞き終えると、いつになく厳しい顔つきで言った。
「それってイジメちゃうやろうな?」
私は言葉を失った。一瞬、息がつまりそうになる。
「だって、孝介はまだ小五やぞ。そんなガキが中学生くらいの子たちと付き合うって、おかしいじゃん。背中の傷だって、リンチの跡かもしれん」
「けど、イジメって……あの子、そういうタイプじゃないでしょ」私は不安を押し殺すように言った。「性格も明るいし、勉強もスポーツもできるし」
「勉強ができるって立派なイジメの対象だよ!」
「え?」
「大人は成績優秀を褒め称えるかもしれんけど、中高生の間ではダサいとか冴えないとかって言われて馬鹿にされたりするやん。ほら、学生のころを思い出してみろよ。成績トップのやつって人気者だったか? 友達多かったか?」
私は黙って首を横に振った。
「だいたい地味なガリベン扱いされて、空気みたいになってたやろ」
今度は縦に振る。そりゃあもう、新一の言う通りだ。私が中学生のとき、成績トップだった男子は開成高校に合格したけれど、彼は他の男子たちから無視されたり、陰で笑われたりしていた。中学生というのは、そういう特殊な精神状態にある時期だ。百メートルのタイムが人間の優劣を支配する時期だ。
「孝介、塾に行きたくないって言ってたんやろ?」
「うん、今日は嫌だって。めんどくさいって」
「それってサインかもな」
「あ、ああ」
公園での孝介の様子が脳裏によみがえってきた。もしあれが孝介なりのヘルプサインだったとしたら、私はそれに気づかず、頑として「塾に行きなさい」と命じてしまった。あの子の悲痛な叫びを、あっさり却下してしまった。
なんだか頭が痛くなってきた。激しい後悔が大股歩きで襲ってくる。
まったく、私はなんて鈍感なんだ。孝介のことを思い悩むだけで、一人で背負いこんで右往左往するだけで、そういう想像力は働いていなかった。もしかしたら、私は孝介を敵の巣窟に送り込んでしまったのかもしれない。
午後七時が迫ってきたころ、新一の提案で塾に行くことになった。
「塾から出てくるとこを待ち伏せして行動を見張ってみたら、孝介が誰とつるんでんのかわかるやろ。とりあえず、真相を突き止めなあかん」
新一は秋穂に留守番を頼むと、私の手を引きながら家を出た。
「早くしろっ」焦ったように言って、駐車場まで足早に向かう。私は必死で足を回転させた。不思議と嫌な気分はしない。それどころか、乱暴な扱われ方がやけに快感だった。圧倒的な力にしたがう自分が、妙に心地良かった。
愛車のキューブに乗り込み、二人で塾に向かった。私はペーパードライバーだから、運転するのはもっぱら新一だ。それを証拠に、後部座席とトランクには新一が仕事で使用しているカメラ機材やら小道具やらが大量に積まれている。
孝介の通っている塾は、駅から十分ほど歩いた国道沿いにある。片側三車線ずつの比較的広い道路のため、路肩に臨時停車している車も珍しくない。
「ここだったら、すぐには気づかれないだろ」
新一は塾の正面口から少し離れた路肩に車を停めた。エンジンを切り、ライトを消す。そして後部座席に積んであるボストンバッグから小型のムービーカメラを取り出すと、そのレンズを塾に向けてセットした。
カメラの液晶画面に塾の正面口の様子が映った。クローズアップすると、さらに鮮明に確認できる。プロ用器材だけに、さすがの性能だ。
私は画面にかじりついた。なんだか探偵になったみたいで、緊張と興奮が高まってくる。午後八時になると、手に汗がにじんできた。授業が終わる時間だ。
十分ほど経過したあたりから、画面に小学生の集団が映り始めた。ほどなくして、今度は中学生から高校生くらいの集団も押し寄せてきた。その勢いはすさまじく、小学生など簡単に飲みこんでしまう。塾の前は人民の海だ。
とはいえ、親が息子を見逃すわけがない。私は海にまぎれる孝介の姿を一瞬で判別できた。孝介は自転車にまたがると、近くにいた小学生グループに手を振って一人だけ自転車を走らせる。家とは反対方向だ。
新一はカメラを動かした。孝介を追いかける。画面に中学生くらいの少年三人組が映り込んだ。それぞれ自転車にまたがりながら、孝介に手招きしている。孝介はその少年たちと合流すると、いったん自転車を停めた。
「やっぱりな」新一がつぶやくように言った。「あいつらとつるんでんだよ」
「ねえ、どうする? 捕まえる?」私は新一の肩を揺さぶった。
「ちょっと待て。ただの友達かもしれないだろ」
「あ、走りだした!」
液晶画面から孝介の姿を消えた。肉眼で見ると、四台の自転車が国道沿いを走っている。新一が車のエンジンをかけた。孝介たちを追走する。
しばらく走ったところで赤信号に捕まった。その間、孝介たちはどんどん離れていく。「車じゃ無理だな」と新一。「路地にでも入られたらアウトだ」
新一は路肩に車を停めると、「亜由美、自転車で追いかけてくれ」と言って車を降りた。「どういうこと?」私も降りる。新一はトランクから折り畳み自転車を取り出した。映像ディレクターは、こんな物まで備えているのか。
「ここからは二手に分かれようってこと」新一が策を明かした。「どっちかがあいつらの目的地を突き止めれば、あとは電話で連絡を取り合ったらええやん。それか逆にするか? 俺が自転車で、亜由美が車でもいいよ」
「無理よ。私、ペーパーだもん」
「だったら、こうするしかないだろ」
不承不承うなずいた。他の方法が思い浮かばない。
私は自転車にまたがった。考えるより先に体が動いてしまう。ペダルを強く踏み込み、最初から立ち漕ぎした。道が平坦だったのが幸いだった。
孝介たちの自転車は国道沿いを走り続けたのち、小さな角を曲がった。私も遅れて曲がると、そこには道幅の狭い住宅街が広がっていた。
確かに車で追走するのは困難な道だ。うしろを振り返ると、すでに新一の車は見えなくなっていた。ここからは私一人で追うしかない。
孝介たちは住宅街を通り抜けると、大きな川沿いの道に出た。このへんでは一級河川として知られる浅川の土手だ。街灯が少ないため、夜は真っ暗だ。
しばらく土手を走っていると、前方に河川敷に下りる道が見えてきた。孝介たちはためらいなく、その道に入っていく。私は後方を走りながら、河川敷の様子に視線を送った。静かな暗闇の奥に、やけに明るい光の群れが見える。
光の正体がわかった瞬間、私は愕然とした。
ペダルを漕ぐ足に力が入らなくなり、ブレーキをかけて片足をつく。
河川敷沿いの道の向こうに、十人は下らない人影が見えた。おそらく中高生くらいだろう。周辺にはライトをつけたバイクや自転車が何台も停まっており、その光で照らされた彼らの中にはタバコを吸っている者もちらほらいた。
孝介たちも、その少年グループの仲間となった。それぞれ自転車を停め、なにやら会話を交わし合っている。見た感じ、小学生は孝介一人だ。
ショックだった。孝介はこんな不良みたいな子たちと付き合っていたのか。それを知っただけでも胸が苦しくなる。我が子の成長が悲しかった。
とりあえず新一にメールをした。まずは居場所を伝えなければ。
その後、あらためて孝介の様子を観察する。孝介は少年グループの誰とも親しげに会話していないように見えた。なんのためにいるのだろう。
ほどなくして、少年グループから大きな笑い声が聞こえた。続いて、なにやら乾いた爆発音が立て続けに響く。花火なのか爆竹なのか、それとも――。
ああ、エアガンか。私は口の中でつぶやいた。
何人かの少年が銃のようなものを持っていた。あの手の遊びは私の学生時代にもあった。確か中学のとき、クラスの男子どもが教室でエアガンを乱射して怪我人が出たっけ。弾丸はプラスティックだったけど、破壊力は十分だった。
「危ない!」
思わず声が出た。心音が一気に高鳴る。エアガンの発砲音が激しくなった。悲鳴と笑い声がまじりあう中、いくつかの銃口が一斉に同じ方向を狙う。
狙われているのは……孝介だ。
ちょ、ちょっと、どうしよう。頭が混乱した。
少年たちは逃げ惑う孝介に向かって容赦なく発砲し続けた。さらに少年の一人が孝介を取り捕まえ、そのまま乱暴に投げ倒した。地面にうずくまる孝介を他の少年たちが笑いながら囲み、なおも弾丸を乱射する。
こういうことか――。すべてがはっきりした。背中の傷は弾丸の跡だ。
私は再び自転車を走らせた。新一の到着を待つ余裕はない。大人数に怖気づくわけにもいかない。一刻も早く我が子を助けないと。
「ちょっと、なにやってんの!?」叫びながら、現場に突入した。私に気づいた少年たちは、一瞬たじろいだような様子で動きを止める。「おい、なんか変なのが来たぞ」「なんだ、おばさんかよ」などと、口々に言い合う声が聞こえた。
孝介は地面にうずくまりながら、顔だけを上げていた。目を丸くしている。口が少し動いたものの、声は聞きとれなかった。
「あんたたち、小さい子をいじめちゃダメじゃない」
私は自転車を降りるなり、厳しい口調で注意した。近くで見ると、みんなあどけない顔をしている。目つきを鋭くして悪ぶっていても、怖さは感じない。
「おい、イジメだってよ」少年の一人が言った。「はあ? なにそれ」他の少年たちも続く。「普通に遊んでるだけだよな」みんな不敵な笑みを浮かべていた。
「じゃあ、もう遅いから帰りなさい。そこの子なんてまだ小学生でしょ」
孝介を指差した。私が母であることは隠すことにした。それを知られたら、孝介がますますいじめられるかもしれない。孝介も黙ったままだ。
「ったく、めんどくせえな」少年の一人が、ふてくされたような顔で言った。「場所変えようぜ」口を尖らせながら、他の少年たちに向かって顎をしゃくる。
次の瞬間、私の背中に激痛が走った。思わず顔がゆがんでしまう。
「うるせえよ、ババア!」背後から声が聞こえたので振り返ると、ひときわ大柄な金髪の少年がエアガンを向けていた。その顔はどこか冷たさを帯びていて、不覚にも足がすくんでしまう。「関係ねえだろ、おまえこそ帰れよ」
少年の言葉に恐怖を感じた。この子は他と違う。直感でそう思った。
「ちょっと、やめな――」
無意識に言いかけたところで、発砲音が立て続けに響いた。
一瞬、目の前が真っ暗になった。体のあちこちが痛い、というより熱い。
自分が今どうなっているのか、まったく判断できなかった。
全身に力が入らない。頭をおさえることしかできない。
発砲音は一向に鳴りやまなかった。私は抵抗することができず、ただ痛みと熱さに襲われるだけだった。三十八年間の人生で初めての経験だ。
そのとき、闇の中で聞き慣れた声が響いた。
「おい、やめろよ!」
孝介のそれだとすぐにわかった。
私が顔を上げると、金髪の少年につかみかかっていく孝介が見えた。自分よりはるかに巨大な相手にもひるまず、エアガンを奪い取ろうとしている。
すると、孝介の体が宙に浮いた。
金髪の少年に激しく蹴り上げられた孝介は、まるでスローモーションのような動きで私の視界をゆっくり横切り、やがて頭から地面に落下した。
私は思考も言葉も失った。脳がしびれたような感覚だった。
そこからは勝手に体が動いた。
倒れる孝介に駆け寄り、金髪の少年をにらみつける。
銃口はなおも私に向いていたが、それによって足がすくむことはなかった。さっきまでの痛みも熱さもまったく感じない。不思議なほど落ち着いていた。
金髪の少年が歩み寄ってきた。頭上に弓張月が見える。妙に不気味だった。
「おい、なにしてる!」そこで男性の声が聞こえた。
視線を送ると、河川敷の向こうから走り寄ってくる新一の姿が見えた。背後の土手には、数人の野次馬も群がっていた。
金髪の少年はたちまち顔色を変えた。さすがにまずいと思ったのか、急いでバイクにまたがる。他の少年たちもそれに続き、一斉に走り出した。
私は思わず息を吐いた。「ああ」声も漏れる。肩の力が一気に抜けた。
なんだか夢から醒めたような気がした。生温かい水滴が頬をつたい、手の甲に連続して落ちる。あれ? いつのまに泣いちゃったんだろう。
帰りの車中、私の心はすっかり晴れやかになっていた。
孝介と二人で後部座席に乗りながら、ホットの缶コーヒーをちびちび飲む。運転席の新一は「ほんま、孝介はたいしたもんや」と何度も口にした。そのたびに孝介は「もういいって」と言いながら、照れくさそうな笑みを浮かべる。
地面に打ちつけた頭も大丈夫そうだ。新一いわく「たんこぶは男の勲章」だとか。まったく、よく言うよ。またもや肝心なときにいなかったくせに。
けれど、そんな些細なことはどうでも良かった。今はこの爽快な幸福感を少しでも長く、味がなくなるまで深く、ずっとずっと噛みしめていたかった。
私の脳裏には、あのあとの光景が何度も繰り返されていた。
あのあと。少年たちが逃げ去ったあと。あのあとの孝介――。
地面に倒れ込んでいた孝介は、新一に抱き上げられた途端、まるで幼稚園のころに戻ったように泣きじゃくった。鼻をすすり、嗚咽を漏らし、父の胸に顔をうずめながら、言葉にならない声を出し続けた。
しばらくして、孝介はようやく落ち着きを取り戻した。新一に抱かれているのが急に恥ずかしくなったのか、身をよじるようにして地面に足を着けると、新一の質問に素直に答えながら、すべての事情を打ち明けてくれた。
塾に通い始めて一ヶ月くらいしてから、同じ塾の中学生たちに目をつけられるようになったこと。彼らをきっかけに他の年上グループともつながったこと。最初は一緒に遊んでいただけだったが、途中からだんだんからかわれたり、万引きやパシリを強要されたりするようになったこと。抵抗すると殴られるので、どんな要求にもしたがうしかなかったこと。つまり、いじめられていたこと。
孝介は親に相談できなかったと言った。問題が表面化したら、またいじめられると思って、だから私に問い詰められてもシラを切り通したという。
私は少しでも孝介を疑ったことを後悔した。自分の鈍感さを恥じた。
けれど、孝介はそんな母を恨むどころか、「お母さん、大丈夫?」と言って私の身を案じてくれた。「ほら……けっこう撃たれてたから」
「うん、私は平気」本当は体のあちこちが痛かったが、そこは母親の意地で我慢した。「それより孝介は? 体とか頭とか痛くない?」
「俺はこれくらい慣れてるよ。まあ、最後の蹴りは痛かったけどね」
「あんな大きい子相手に無茶するから」
「けど、無茶するしかないだろ。ああしないと、お母さんを守れないし」
風の音が邪魔をしたけど、私はその言葉を聞き逃さなかった。
「最初に助けてくれたのはお母さんだし、いっぱい迷惑かけたし……」
孝介はそう続けると、急にあらたまったように私を見つめながら言った。
「ありがとう」
一瞬、真冬の夜に南風が吹いたような気がした。
孝介はすぐに目を逸らしたけど、この精いっぱいの言葉が、説明足らずの拙い言葉が、私はうれしくてうれしくて……孝介をお腹の中に戻したくなった。
カーラジオから竹内まりやのクリスマスソングが流れてきた。
華やかなクリスマスの訪れが悲しい出来事をすべて消し去ってくれる、そんな喜びをポップに唄った『すてきなホリディ』という曲だ。
私はいつのまにか現実に戻って、その曲を小声で口ずさんでいた。
特に好きな曲というわけではないけれど、パート先のファミレスでよく流れているから自然に覚えてしまった。耳馴染みがいいとはこのことだ。
ふと車窓の景色に目をやった。夜の闇に無数の光が輝いていた。
家が近づいてくると、運転席の新一が言った。
「孝介、もう塾は辞めてええからな。中学受験もやらんでええ。学校だって嫌なら休んだらいい。こういうときは、あいつらに会わんのが一番や」
「けど……」孝介は釈然としない様子だった。「そんなことしても無駄だよ。このへんにあいつらが住んでいる以上、絶対に会っちゃうもん」
今度は新一が黙り込んだ。返答に窮したのか、あれこれと思案するような重苦しい表情がルームミラーの端に映っていた。
私の頭の中は孝介のことでいっぱいだった。ともすれば、冷静ではなかったのかもしれない。孝介を救うための策、それしか考えられなかった。
だから、咄嗟に口を挟んだ。
「大丈夫よ、そんなの。わたしたち、引っ越すんだもん」
「え?」孝介の視線を感じた。
ルームミラーに映る新一が、大袈裟なまばたきを繰り返しながら私を見つめていた。よほど驚いたのか、直線なのにウィンカーを出していた。
「実はね、前からお母さんとお父さんが話し合っていたことなんだけど、いい機会だから孝介にもちゃんと報告するね。……わたしたち家族は、近々おじいちゃんとおばあちゃんのいる大阪に引っ越すことになりました」
「お、大阪……」
「そう、大阪。USJもあるし、甲子園も近いし、孝介の好きなお笑い番組もいっぱいやってるでしょ。大阪で新しい友達をたくさん作ればいいのよ」
「なんで急に?」
「おじいちゃんの家をお父さんが継ぐことになったからよ。だから、あの家にみんなで住むの。大きな家だから、孝介だけの部屋もできるんじゃないかな」
そこから孝介の言葉がなくなった。子供なりに頭の中を整理しようとしているのか、沈黙を貫いたまま視線だけを宙にさまよわせている。
こういうときの孝介は下手にたたみかけず、しばらく自分で考えさせたほうがいい。理解力と想像力に秀でた子だから、時間が経てば納得するだろう。どのみち、子供は自力だけで生活できないのだ。だから、親としては子供の幸せに強い確信と責任をもって、大人になるまでの人生を導くしかない。
私は沈黙を破るように、新一に声をかけた。
「新ちゃん、そういうことだから」
「あ、ああ」新一は戸惑いを感じさせる曖昧な相槌を打った。
「だって、大阪に引っ越したいんでしょ?」
「うん、そうだけど。……ありがとう」
「お礼はおかしくない?」
「いや、だって……俺のわがままについてきてくれるわけだから……」
「言っとくけど、新ちゃんについていくわけじゃないよ」
「え?」
「新ちゃんについていくことを私が決めたの」
微妙すぎてわかりにくいかもしれないが、私にとっては大きな違いだった。事態に流されたわけでもなく、新一にしたがったわけでもなく、自分できちんと考えて選択した結果が、たまたま新一の思いと合致しただけだ。
私は主体的に大阪行きを決めたのだ。どこかの誰かは私たちのことを都落ちと笑うかもしれない。だけど、人生に上りも下りもない。あるのは前進のみだ。
家に帰ると、秋穂がお腹を空かせて待っていた。すっかり遅くなったので、夕飯はスピード重視でインスタントラーメンにした。新一と孝介はもちろん、秋穂もなんとなく空気を読んだのか、一切文句を言わなかった。
そのかわり、数日後のクリスマス・イブは精いっぱい豪華な料理を作った。
骨付きチキンにローストビーフにクリームシチューにポテトサラダ、どれも孝介と秋穂が大好物のものだから、二人とも飛び上がって喜んでくれた。新一も珍しく帰りが早かったので、家族四人で食卓を囲むことができた。
食事中、秋穂がトイレに立つと、孝介が小声で言った。
「言っとくけど、秋穂はまだサンタクロースを信じてるからね。プレゼントは明日の朝までに枕元に置いてあげたほうがいいよ。俺もそっちのほうがいいし」
孝介は妙に真剣な顔をしていた。私は新一と顔を見合わせる。
ほどなくして新一が吹き出すように笑ったので、私も我慢できなくなった。二人で声を出して笑い合ってしまう。「なにがおかしいんだよー」と孝介。
こんなことが本当に幸せだと思った。
頭の中では竹内まりやの『すてきなホリディ』がリフレインしていた。悲しかった出来事がすべて、本当に消え去った気がした。
きっと今夜は東京で過ごす最後の聖夜になるだろう。今はもう大阪に希望しか感じない。西の空には光しか見えない。二〇一三年も、あと一週間だ。
(第08回 了)
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■