その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第六話
孝介の異変にまったく気づいていなかった。これでは母親失格だ。
気を取り直して先生の話を聞いたところ、孝介は先月の下旬くらいからちょくちょく塾を休むようになったという。これが無断欠席なら怪しいのだが、いつも事前に孝介本人が電話をしてきて、学校の行事がどうこうとか、もっともらしい欠席理由を並べるので、先生も信用してしまったという。
もちろん、嘘に決まっている。孝介は私の前では週三回の塾にきっちり通っているふりをする。学校の行事の話なんか一切聞いたことがない。
電話を切るなり、急いで新一の携帯に連絡した。しかし、コール音だけが延々と鳴り続ける。きっと居酒屋の喧騒で着信音がかき消されているのだろう。
『すぐに電話して! 孝介が大変なの』
メールを打って、折り返しを待つことにした。その間、なかなか気持ちが落ち着かず、何度も孝介の携帯を鳴らしてみたものの、一向に出ない。留守番電話にメッセージを吹き込んでも、メールを打っても、まったく反応がない。
激しい胸騒ぎがした。秋穂がすでに寝たことを確認すると、居ても立ってもいられなくなり、とりあえず家を飛び出した。スウェットの上にロングダウンを羽織って、自転車を立ち漕ぎする。師走の夜風は痛いほど冷たかった。
まずは最寄りの駅に向かった。暗く静まり返った住宅街を抜けると、街の電飾が徐々に華やかになり、夜の底が明るくなる。もうすぐクリスマスだ。
駅前に自転車を停めた。孝介の通う塾はこの近くにある。夜でも人通りが多いから、一人で自転車通学をさせても大丈夫だろうと思っていたのだが、それは甘かったようだ。軒を連ねる店先は派手に飾り付けられ、街路樹には赤や緑のテープが巻かれ、どこかのスピーカーからはクリスマスソングが流れてくる。アラフォーの私でも心が躍ってしまうのだから、子供が勉強気分になるわけがない。塾をさぼって遊びに走るだけの環境がそろいすぎている。
そもそも孝介は要領が良く、お調子者のところがある。大人を欺くためのちょっとした嘘なんて日常茶飯事だったから、時には注意が必要だと思っていた。昔のドラマみたいに「うちの子に限って」などと言うつもりは毛頭ない。
しかし、それでも甘くなってしまったのは成績が良かったからだ。
もともと小学校レベルのテストでは満点が当たり前だった孝介は、九月に入塾して以降も順調に成績を伸ばし、先月の模試ではついに偏差値七十を超えた。このペースでいけば、最難関クラスの中高一貫校に合格できるかもしれない。
この成績という物差しは少し厄介だ。成績が良いと、たとえ素行に問題があろうとも、先生は「それも頭脳明晰ならではの個性だ」とかなんとか言って、プラスに考えてしまうところがある。私もそうだ。孝介の小賢しさは昔から気になっていたが、それを頭の良さの表れだと思うことで安心感を得てきた。
だったら、今回もたいしたことではないのかもしれない。駅周辺のコンビニやゲームセンターなど、子供が吸い寄せられそうなところをしらみつぶしに捜しながら、なんとなくそんな気分になってきた。要領の良い孝介のことだから、なにか自分なりの考えがあって塾を休んでいる可能性だってある。先生に嘘をついたのだって、親に余計な迷惑をかけたくないからではないか。
いや、待てよ。成績が良いからといって、そういう親馬鹿みたいな考えはいかがなものか。事情はどうあれ、孝介は親からの着信をずっと無視し続けているのだ。このへんで厳しく叱りつけておかないと、ますますエスカレートする恐れがある。非行とはこういうところから始まるのだ。たぶん。
その後も考えが二転三転した。少しでも油断したら、すぐに都合の良い解釈が生まれてしまう。親にとって、我が子を疑うのはつらいことだ。
いつのまにか午後十一時を回っていた。依然として孝介は捕まらない。さすがにだんだん不安になってきた。いくらなんでも、小五でこれはまずいだろう。
そのとき、スマホの着信音が鳴った。新一からだ。
「もしもし!」私が電話に出ると、受話器からやけに明るい声が聞こえた。
「めんごめんご! 携帯の充電が切れてさー。遅くなっちったよーん!」
カチンときた。完全に酔っぱらっている。目の前にいたら殴ってやりたい。
なにから話し始めようかと迷っていると、先に新一が切りだした。
「なによなによー、いったいぜんたい孝ちゃんがどうしたって?」
「ちょっと、そのふざけた言い方やめてよ!」
「およよ。もしかしてトサカにきちゃったりなんかしちゃったりしてる?」
「うるさいって!」
「こりゃまた失礼しました。お口にチャックしますねー」
新一よ、おまえはいったい何歳だ――。心の中でつぶやいた。この寒空の下で耳にする昭和のギャグは地獄でしかない。気持ちまで冷え切ってしまう。
「あのね、孝介がまだ帰ってこないのよ」私はなるべく低い声で言った。
「はあ?」
「携帯かけてもつながらないし、メール打っても反応がないの」
「ちょっと、たんま。なに言っちゃったりなんかしちゃったりしてんの?」
「なにって、だから孝介が」
「孝介なら、家にいるお」
「え?」
「俺、さっき帰ってきたとこなんだけど、孝介は普通にテレビ見てるぞ」
なにそれ――。肩の力が一気に抜けた。白い息を吐きながら、すっぴんで街をうろついていた自分が情けなくなってくる。馬鹿みたいじゃん。
電話をそこそこで切り上げ、急いで帰宅すると、本当に孝介がいた。
「ごめん、塾で居残り勉強してたから着信に気づかなくてー」
孝介は最近にしては珍しい明朗な口調で、あきらかな嘘をついた。白々しい演技だ。子供が意図的に作った無邪気な笑顔とは、こうも歪んで見えるのか。
その後、孝介はバツが悪いからか、私から逃げるように風呂に入った。新一は早くもソファーでイビキをかいている。一瞬、叩き起こそうかと思ったが、あまりに顔が赤いので嫌気がさした。まったく、うちの男どもは。
玄関に孝介のコートが脱ぎ捨てられていた。脱いだら脱ぎっぱなしなところは新一に似たのだろう。私はそれを拾い上げ、子供部屋に持ち運んだ。秋穂を起こさないよう、静かにハンガーにかける。その瞬間、タバコのにおいがした。
その夜はなかなか寝つけなかった。孝介のことばかり考えてしまう。
布団を頭からかぶりながら、気をまぎらわそうとスマホを操作した。いくつかのネットニュースを読み流したあと、なんとなくフェイスブックを開くと、八重樫さんの投稿が目に入った。なんでも、先週末にジャニーズのアイドルユニットのコンサートに行ったという。よほど感動したのか、お気に入りのメンバーに対して「生まれてきてくれてありがとう」と謝辞を綴っている。
なぜかイラっとしたので、杉浦さんの投稿に目を移した。どこで撮影したのかわからない謎の風景写真に、ポエムみたいな曖昧な言葉がふわふわ書き添えられている。「やわらかで美しい時間の流れをゆったり感じながら、心地良い風に包まれて、たおやかに生きていきたい」って、いったいどういうことだろう。
余計に眠れなくなった。いったんトイレに立つ。
トイレを終えると、子供部屋のドアをゆっくり開けた。暗闇の中、二段ベッドから孝介と秋穂の寝息が聞こえてくる。最近、孝介は二段ベッドを嫌がるようになった。秋穂と別々の部屋で寝たいという。今年の夏ごろまではそんな様子を一切見せなかったことを思うと、子供の変化は数ヶ月単位なのだろう。
ふと思いたち、リビングから懐中電灯を持ってきた。子供部屋を照らすと、机に置かれた孝介の鞄が目に入る。私は物音を立てないよう、ロボットダンスみたいな動きで鞄に忍び寄った。悪いと思いながらも、誘惑に負けてしまう。
鞄のジッパーを慎重に開けた。高校時代の持ち物検査を思い出す。私の知らない孝介の姿が、この中に潜んでいるような気がしてならない。
小五でタバコってどうなのだろう。そんな思いが頭の中を駆け巡った。最近は時代の影響からか、街でタバコを吸って悪ぶっている中高生さえあまり見かけなくなったのに、孝介はいったいどうしたというのだ。
いくら鞄をあさっても、タバコはおろか怪しいものすら見つからなかった。鞄自体からタバコのにおいがしたのは気になったが、よく考えてみたら、それくらいは受動喫煙でも起こりうる。喫煙者のいるゲームセンターにでも行ったら、衣服や鞄なんか一発でくさくなるだろう。孝介が吸っているとは限らない。
懐中電灯のスイッチをつけたまま、机の上に置いた。そのわずかな光を頼りに二段ベッドの梯子を少しだけ昇り、孝介の寝顔をのぞきこんだ。
いつもと変わらない孝介だった。もうサンタクロースは信じていないみたいだけど、まだまだ無垢な寝顔だ。親の贔屓目かもしれないけど、なかなかの美少年だと思う。そっと鼻を近づけると、石鹸のにおいがした。大丈夫、孝介はきっと大丈夫。口の中で呪文のように唱え続ける。頬に軽くキスをした。
翌朝、孝介と秋穂は普段通り学校に出かけていった。私はその背中を見送りながら、心の中で再び呪文を唱える。大丈夫、孝介は絶対に大丈夫。
「塾をさぼったんなら、ちゃんと叱らなあかんやろ」
そう言ってきたのは新一だった。今日は午後から出社らしく、子供が登校したあとに起きてきた。時間が不規則なテレビ業界ではよくあることだ。
「タバコの件は証拠がないんやから、あんまり疑うのもどうかと思うけど、塾のことは事実なんやから厳しくしないと。先生から聞いたって言えば?」
その意見はもっともなのだが、昨日のことを思うと腹が立ってしまう。私の気も知らないで泥酔していたくせに、今さら正論を振りかざすのは卑怯だ。
「だったら、新ちゃんが注意してよ」
「別にいいけど、今ちょっと忙しいねん」
「今日も遅いってこと?」
「年末特番の本編が今日から」
そこで絶句した。本編、つまり編集所に入るということだ。新一の仕事に詳しいわけではないが、これがなにを意味しているかはわかる。年末特番みたいな大きな番組の場合、編集所から二、三日は帰ってこないことも珍しくない。
「仕事が落ち着いたら俺が説教してやるよ」
新一は呑気な笑みを浮かべながら、いそいそと身支度を始めた。私が話を引き延ばそうとしても、ろくに相手をしてくれず、家を飛び出していく。
まったく、使えない夫だ。男親は子供の問題を直視する機会が少ないから、真剣味が薄くなる。家の中のことなんか、なんにも知らないのだろう。
新一をあてにできないので、自分で動くことにした。今日はパートが休みなうえ、孝介も塾がないため、学校が終わればゆっくり話ができるはずだ。
夕方ごろ、学校から帰ってきて子供部屋に入ろうとする孝介を呼び止めた。秋穂は一足早く帰ってきて、水泳教室に行っている。今がチャンスだ。
あんまり神妙な雰囲気を出すと警戒されそうなので、キッチンで夕飯の支度をしながら立ち話をすることにした。孝介もなにかを察したのか、椅子に座ろうしない。早く退散したがっているのがありありとわかった。
「昨日は何時まで居残り勉強してたの? 塾は八時まででしょ」
まずは軽く反応をうかがった。いきなり核心に触れる勇気がないだけだが。
「うーん、十時くらいかなあ」
「へえ、そんな時間まで先生も残ってくれたの?」
「まあ」
「さすが進学塾は熱心ね。先生にお礼の電話でもしとこうかしら」
「いいよ、そんなのっ」
たちまち孝介の血相が変わった。これだから子供の嘘は簡単にばれる。
「ダメよ、そういうのはちゃんとしなきゃ」私は平静を装うべく、包丁で野菜を切りながら続けた。「居残りぶんの授業料は払ってないんだから、先生がサービスしてくれてるってことでしょ? お礼するのは当たり前よ」
「じゃあ、僕からお礼しとくから。お母さんは電話しないで」
「なんで電話しちゃダメなの? 言われたくないことでもあるの?」
「別にそういうのはないけど……なんか嫌じゃん」
「さぼってるのがばれるから?」
そこで包丁の手を止めた。孝介に視線を送る。
孝介は言葉を失ったのか、目を丸くしながら黙って立ち尽くしていた。
「お母さん、全部知ってるのよ」私は声のトーンを下げて言った。「昨日、塾の先生に聞いちゃった。最近、ちょくちょく塾を休んでるんだってね」
「あ、ああ」孝介は目を泳がせながら言う。
「なんで嘘ついたの? 塾をさぼってなにしてるの?」
そこまで言うと、いったん孝介の言葉を待つことにした。本当はもっと訊きたいことがたくさんあったが、あんまり一気に責め立てるのは逆効果だろう。
子供はすねたら収拾がつかなくなる。嘘をついたことを反省するより、カマをかけた親のことを恨んだり、困らせようとしたりすることがある。私が一番怖いのは、孝介の心がこじれることだ。親子の信頼関係が崩れることだ。
孝介はしばらく黙りこんだあと、急にスイッチが入ったように破顔した。
「あははー。なんだ、ばれてたかー!」
え、どういうこと? まさかの反応だ。
「いや、別にたいしたことじゃないんだ」孝介は満面の笑みを浮かべながら、一気呵成にまくしたてた。「時々、友達の家で勉強してるだけだって。ほら、塾の授業ってさ、その日の内容が得意分野だったりしたら、それを聴いてもあんまり意味ないでしょ。だったら、そこは自習にあてたほうがいいと思って」
呆れた。なんだ、その苦しい言い訳は――。
「塾ってさ、学校と違って中学受験を目指してる超頭のいい奴がいっぱいいるんだよ。そういう奴はたいてい自分なりの勉強計画があって、それに合わない授業は平気で切り捨てたりするんだ。だから、僕も見習ってるんだけど、そういう理由で塾を休むって言ったら、お母さんは反対すると思って黙ってたんだ」
絶対、嘘だ。親の直感でそう思う。孝介は昔から口が達者で、屁理屈を並べてでも、なんとか筋を通そうとするところがある。これが小賢しいのだ。
「友達って誰なの?」私はそれに負けまいと食い下がった。
「塾でできた友達だから、お母さんは知らないよ」
「友達の家で勉強してるなら、そっちにお礼の電話しなきゃ」
「電話番号とか知らないもん」
「連絡網があるでしょ」
「なにそれ?」
孝介が首をかしげた。思わずハッとする。そうだ、最近は個人情報の保護がどうこうとかで、昔みたいに連絡網の名簿が配られることがなくなったのだ。
「とにかく、信じらんないのよっ」私は語気を強めた。「友達の電話番号だって普通は知ってるはずじゃん。そんな嘘が通用するとでも思ってんの!?」
すると、孝介は一転して眉尻を下げた。今にも泣きそうな表情で言う。
「お母さん、僕のことを信じてないの?」
「え?」
途端に困惑した。子供のことを信じていないなんて、親として口にできるわけがない。実際、疑っているのは事実だとしても、孝介のことは信じている。
「そ、そりゃあ、信じてるに決まってるじゃない」
「ほんと?」
「う、うん、ほんとよ」
「じゃあ、もう疑わない?」
「うん、疑わない」
私が言うと、孝介は無邪気な、いや無邪気を装ったような笑みを浮かべた。
やられた――。思わず唇を噛んだ。孝介が仕掛けた言葉の罠に簡単に引っかかってしまった。我が子にまで操られてしまった。これじゃあ、馬鹿犬だ。
完全に手詰まりになった。どうしたら良いのか、まったくわからない。
「じゃあ、もういいでしょ。そろそろ勉強するから」
孝介はそう言って、踵を返した。子供部屋に向かって歩いていく。
私は引き止めることができなかった。納得したわけではない、敗北を感じたわけでもない。ただただ孝介の狡猾な手口がショックだった。淡々と言い訳を並べられる、こしゃくな頭の使い道が悲しかった。これなら逆上されたりヘソを曲げられたり、とにかく稚拙さがゆえの暴挙のほうがまだ安心する。
子供部屋のドアが閉まる音がした。その瞬間、どっと疲れを感じる。
ますます孝介が心配になった。ここまで土俵を割ろうとしないのは、きっとよっぽどのことがあるからだろう。最近の孝介の変化も、もはやただの反抗期ではない気がする。もっと根の深いなにかが、私の知らないところで動き出しているのではないか。タバコだって、本当は吸っているのかもしれない。
その夜、やっぱり新一は帰ってこなかった。メールによると、しばらく編集所に缶詰めになるらしい。しばらくって、いったい何日なのか。疑問に思ったものの、どうせ明確な答えは返ってこないだろうから訊かないことにした。
翌日は午前十時からファミレスのパートがあった。店内を忙しく動き回っていると、いくぶんか気がまぎれる。この日も八重樫さんと杉浦さんは暇な時間ができるたびに、いつものように厨房の隅でおしゃべりしていたが、私はあえて参加しないようにした。話の内容が年末年始の旅行についてだったからだ。
「ねえねえ、栗山さーん。お正月はなんか予定あったりする?」
それでも八重樫さんが話しかけてきた。ハートの強い人だ。
「たまには三組で旅行とかどうかなって、杉浦さんと話してたの」
「ああ、ごめん。うちは無理なんだ……」私は小声で言った。思わず唇を噛んでしまう。「年末年始は夫の実家で過ごすことになってて……」
「え、そんな決まりになってんの?」
「別に決まりってわけじゃないけど、結婚してからずっとそうだから」
「栗山家ってそんな厳しいんだっ。マジかわいそー!」
出た、またこのパターンだ。私は途端に嫌な気分になった。人からそう言われると、自分がみじめに思えてくる。これまで私自身があまり深く考えないようにしていたことでも、ひとつの問題として頭の中に持ち上がってくる。
正直、昔は旅行先で年を越したいと思ったことがあった。けれど、新一と結婚して栗山家の慣習を知ったことで、それに蓋をするようになった。
大阪の義父は家で年を越すという選択肢しか頭にない人だ。もちろん、新一までそれに倣う必要はないと思うのだが、これがどうして同じ道を歩んでいるように見える。今まで仕事の関係で大阪に帰省できないことは何度かあったが、それ以外は必ず実家で年を越している。義父が命じているわけではないため、新一の判断で勝手にそうしているのだろう。刷り込みに近いものだと思う。
旅行の話はそれで終わったものの、悶々とした気持ちはいつまでも残った。なんだか最近ずっとこんな調子だ。些細な言葉が引っかかって、いちいち不快感を覚えてしまう。八重樫さんと杉浦さんは仲の良い友達のつもりなのだが、その一方で二人とは根本的に合わないと感じている自分もいる。もしや私は二人と友達になったのではなく、友達という設定にしただけなのかもしれない。
午後三時にパートが終わり、バスに乗って駅に向かった。気まぐれに雑誌でも物色しようと、駅前の書店に立ち寄ってみる。目指すは女性誌コーナーだ。
その途中の漫画コーナーを横切ろうとしたとき、思わず足が止まった。漫画を吟味している一人の少年を二度見してしまう。全身の血液が大騒ぎした。
孝介――! 心の中で叫んだ。咄嗟に売り場の棚に身を潜める。あそこにいるのは自分の知らない孝介のような気がして、妙な恐怖を感じた。
時刻は午後四時半。今日の孝介は五時から塾の予定だ。その塾がこの近くにあることを考えると、事前にちょっと寄り道しただけかもしれない。
孝介は数冊の漫画を手に取ると、レジに向かって歩き出した。私は少し距離をとって尾行する。レジは混雑していた。三箇所すべてに列ができている。
あの子、お金なんか持っていたかな?
私がそう思った矢先、孝介はレジの前を堂々と素通りした。そのまま店の出入り口をまたぎ、小走りで外に出る。いつのまにか手から漫画が消えていた。
愕然とした。頭が真っ白になる。心臓が破れそうなほど早鐘を打った。
孝介が店から完全に立ち去った瞬間、レジの奥にいた男性店員の顔つきが一気に変わった。まるで号砲が鳴ったかのように猛スピードで走りだした。
男性店員が店を飛び出すと、周囲の客が一斉にざわついた。「万引き?」あちこちから声が聞こえてくる。「小学生だったよ」「うそ、マジでっ!」
私も咄嗟に駆け出した。急いで店を出ると、通りの向こうに孝介と男性店員の背中が見えた。逃げる孝介と追う男性店員。一目瞭然の捕り物だ。
もっとも、小五の孝介が大人の足に勝てるわけがない。男性店員との差はみるみる縮まっていく。我が子が万引き犯として捕まるのは時間の問題だ。
孝介が途中の角を左に曲がり、路地に逃げ込んだ。ほどなくして男性店員も曲がると、二人の姿が見えなくなった。オバサンの鈍足が恨めしい。
私も遅れて角を曲がった。すると、路地の途中で立ち往生している男性店員の姿しか見えなくなっていた。男性店員の左右には、両側とも別の道がある。孝介がそのどちらに逃げ込んだのか、わからなくなったのだろう。
チャンスだ。その瞬間、私はあろうことか一筋の光を感じた。
決して深く考えたわけではなく、罪の意識もなく、ただ咄嗟に芽生えた危機感みたいなものにしたがって、背後から男性店員に声をかける。
「あのー、すみません! 財布落としてますよー」
そこで男性店員が振り返った。私はそれに追いつくと、自分の財布を頭上にかざしながら大袈裟にアピールする。「これ、あなたのじゃないですか?」
男性店員はまじまじと財布を見つめ、ほどなくして首を横に振った。
「いえ、違いますけど」
「さっき落としたように見えたんですけど」
「いや、だって女性物じゃないですか」
「ああ、そういえば」
「ちょっと急いでるんで、すみません」
「じゃあ、このへんで交番知りませんか? 落し物を届けなくちゃ」
「だから急いでるんですって。交番なら駅前にありますから」
「駅前ってどっちですか?」
「あっち!」
「あっちってどっち?」
「この指の方向!」
「それは京王八王子? JR八王子?」
「どっちも似たようなもんだから!」
「ああ、そうですか。ありがとうございます」
「もういいですか? 急いでるんで」
「ちょっと待ってください。これ、お礼にアメ」
「いらねえって!」
「まあまあ、そんなこと言わずに」
その後も私は物わかりの悪いオバサンになりきって、男性店員を引き止め続けた。咄嗟の思いつきだけに、かなり無理のある芝居だったかもしれないが、この際クオリティーなんかどうでもいい。人としての正義がどうこうとか、子供の教育に良くないとか、そんな真っ当な意見もどうだっていい。
とにかく、孝介に捕まってほしくなかった。万引き犯として、警察や学校に連絡されたくなかった。だから時間を稼いで、孝介を逃がしたかった。
それが親として最低な行動であることくらいわかっている。わかっているつもりなのだが、体が勝手に反応してしまった。ああ、私はやっぱり母親失格だ。孝介が無事逃げ切れたかと思うと、心の底から安堵してしまったのだ。
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* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。
■ 山田隆道さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■