明日もきっと、おいしいご飯~銀のスプーン~
フジテレビ
金曜 13:25~
一回観て、よくも悪くも目を疑った。今どきのドラマとは、とても思えない。翌日も見た。しばらくしてから、3度目も。やはり変わらない。驚きはますます深まると同時に、これはいわゆる昼帯のドラマだということに、あらためて考えさせられた。感受性を変えて観る必要もあるかもしれない、と。
深夜枠であれば、このタイトルなら、テレビ東京でなくても「ご飯」を中心としたドラマだと思うだろう。いや、深夜枠でなくても「美味しんぼ」という情報ドラマもあった。それとも昼帯というのは、深夜とゴールデンに共通する流れも価値観も、まるで省みない別のコードがあるものなのか。
聞くところによると、これもまた「美味しんぼ」同様、漫画の原作があるという。漫画は今、テレビドラマ以上に露骨な形で情報コンテンツ化が進んでいると思う。それは本のかたちをしたもの、という形態が自ずと知識をあたえるもの、という存在理由に繋がりやすいからだろう。テレビに羞恥心があるなどと考えたこともないが、少なくともドラマについては多少はあるのかもしれない。
それはテレビドラマが消費されるものとしてあったという歴史と、一種の自負だったのではないか。だから食べるものを扱う場面はさっと、教育テレビやスカパーの料理番組じゃないんだから、という流す側のロジックがあるように観える。しかしそれでも「おいしいご飯」と惹句を用いざるを得ないところが、これも昼帯特有のロジックなのだろうか。
主人公は秀才でイケメンの学園のスターだが、母親の病気がきっかけで弟や妹に食事を作ることが日課となり、料理に目覚める、というのが原作で、テレビドラマの方も額面はその通りである。しかし漫画での狙いと思しきところが作り出す現代性を見事にはずし、単に気弱で感心な少年が描かれているだけである。その良い子ぶりはほとんど古色蒼然としている。
プロットというのは楽譜と同様で、どこに重点を置くかでまったく違ってくると思う。 このタイトルなら、まず料理、それを拵える男の子の現代っ子ぶりで料理に生き生きした背景を、あるいは出来上がった料理の完成度の高さでギャップとインパクトを与える、というのがスジだろう。イキの悪い優等生の作る料理は、きれいだけれど、あまり美味しそうではない。
学園のスター、「神」と呼ばれる男の子というのは、単に大人しい良い子ではないだろう。プライドも高い、自負心もある、ゆえに脆くもあるはずの男の子がエプロン付けて、というところにドラマを感じれば、それでいいのではないか。弟妹も含め、子役に近い俳優たちは、やはり古めかしいセリフを棒読みだ。
富田靖子演じる母親(かつての少女ぶりを知る者にとっては…!)の実の息子でないことがわかり、苦悩するというようなことは、だから料理に圧されて二の次になってしまいました、という演出でよかったと思う。人生のトラブルを相対化するものが、ここでは料理でなくして何だろうか。単なる小道具扱いではタイトルが泣く。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■