たいへん有名な絵本である。最近では、ミュージカルになるという。絵本の大ヒット作の常として、大人にもアピールするということがある。なぜアピールするかといえば、謎があるからだが、本作はさほど多様な解釈や、頭が痛くなるような深遠さとは無縁だ。
100万回生きたねこは100万回死に、そのたびに生き返った。100万人いた飼い主はそれぞれ、ねこが死ぬと泣いたが、ねこはその飼い主の誰もが嫌いで、一度も泣いたことがなかった。100万回も死んで生き返ったねこは並ぶ者なきものとなり、多くのメスねこがかしずいたけれど、その誰にも関心を示さなかった。ねこは自分だけが大好きだった。
100万回生きたねこは結局、白いねこに恋して、たくさん子供を作り、白いねこが死ぬといっぱい泣いて死んでしまう。二度と生き返りませんでした、というストーリーだ。つまりフツーになったのである。フツーであることの大きさや味わいが、フツーでなかったねこの100万回の人(猫?)生との落差から沁みるように伝わってくるので、フツーに成り果てた大人を泣かせる。
そういうわけだから、この本が子供の本棚に並んでいるのは、考えてみれば奇妙である。もっとも絵本の魅力、華やぎは、そのテーマを象徴するページにあるとはかぎらない。サーカスにいたり、泥棒を手伝ったりしていたねこの100万回の前世が、絵本の華として一番の見どころになるだろう。子供は、自分たちにも似たねこの生命力あふれるエゴだけを楽しみ、記憶に残してもいいのである。
ところで、大人である我々の記憶にくっきりと残るのは、白いねこの姿である。100万回生きたねこが自らを誇示し、威張って気を惹こうとしても、そう、としか応えない。かといって、冷たく取り合わないわけでもない。100万回生きたねこはついに、そばにいてもいいか、と訊ねる。この箇所もまた印象に残る。ねこが他者にお伺いをたてるのは、初めてだと思われるからだ。
白いねこはたくさん子供を産み、少しおばあさんになる。そしてある日、動かなくなる。ここに至るまで、白いねこには何の性格も、またエゴも見受けられない。ただ存在し、自身を熱心に欲した者を受け入れ、あるがままに老いて死ぬ。それは誰もが憧れるフツーさだが、現実のところはあり得ない。しかしある瞬間、そのようなたたずまいに映る女性はいる。
一度も死んだり、生き返った経験のない我々が、100万回生きたねこに既視感を抱くのは、我々の生がどこかでこの100万回の生と相似だからである。あらゆる場面は分断され、関係は絶縁で終わり、その場かぎりの感情はないも同然、それらの集積はすべて虚しい。
だとすれば、この虚しい100万回の生こそがフツーのリアルだ。そんな日々をおくる我々は、すでに死を内包したかのような、しずかな存在である白いねこを夢見て、それと触れ合う瞬間だけを、生きていると実感することになる。そうして初めて異界へ旅立つことができるのだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■