『月刊俳句界』二〇一四年七月号には、「虚子曾孫座談会~伝統俳句の新時代 男の時代がやってきた!」が掲載されている。俳句結社誌「花鳥」主宰・坊城俊樹氏、「玉藻」主宰・星野高士氏、「ホトトギス」主宰・稲畑廣太郎氏による鼎談である。いずれも高浜虚子の曾孫に当たる方々である。前々回、「現在の俳壇そのものと言える金子兜太氏」などと書いてしまったが、これは訂正しなければならない。大・大局的に見れば金子氏は前衛俳人だということをすっかり忘れていた。「ホトトギス」系の結社誌と俳人の皆様が、伝統俳句の〝伝統〟をしっかり守っておられる。
余計なことを書けば、個人的には坊城、星野、稲畑三氏を優れた俳人だと思ったことはない。しかしそれは聞き飽きた言葉だろう。星野氏は「古い結社を背負っていかなくちゃいけないから作品と選句が勝負ですよね」、稲畑氏は「人を満足させたいというのを、自分が求めることが一番大事ですよね。それと、自分に自信を持たないと出来ないよね」と語っておられる。結社を継承することを宿命付けられ、現実に受け継いでゆくのは並大抵のことではない。伝統継承とは一代限りのものではなく、数代先に素晴らしい主宰や門弟が現れることを期待する制度でもある。なぜ俳句は結社・主宰を必要とするのかといった原理的問題とは別に、結社継承にははっきりとした現世的役割がある。
現代まで続く俳壇の基礎は高浜虚子主宰の「ホトトギス」によって形作られた。昭和初期までは「ホトトギス」イコール俳壇だったのである。言うまでもなく文学史では虚子は正岡子規の弟子だと記載されることが多い。しかし俳壇では子規と同格、あるいはそれ以上だと考える俳人も多いようだ。理由の一つは子規派が子弟制を取っていなかったことにある。子規は自分の周囲に集った俳人たちを同格の作家として扱った。また子規は三十六歳(満三十五歳)で死去している。遺憾なく文学的才能を発揮する時間はなかったわけで、それは高弟の虚子によって実現されたという考え方がある。長寿だった虚子(昭和三十四年[一九五九年]に八十六歳[満八十五歳]で死去)の絶対的存在感が微かに残っていることも、子規を上回るような虚子評価に影響しているだろう。なにせ虚子は子規門の俊英で、「ホトゝギス」に『吾輩は猫である』を書かせて夏目漱石を世に送り出した神話的文学者なのである。
ただ俳句を〝文学〟として捉えれば、やはり虚子は子規の弟子である。子規には十全に理論化(評論化)する時間はなかったが、写生俳句の骨格は子規によって確立されている。確かに虚子の膨大な俳句作品を通観すれば、いわゆる伝統俳句はもちろん、後の新興俳句や前衛俳句を予感させる作品も含まれている。「大虚子」と呼ばれる由縁である。しかし問題はそこに作家の〝文学的確信〟があるかどうかである。極限まで言葉を削ぎ落とした俳句はイロニックな文学形式である。たまさか前衛的作品が生まれるのは珍しいことではない。時にはほとんど僥倖のような傑作を生んだりもする。例えば俳壇〝外〟では、虚子の「流れゆく大根の葉の早さかな」よりも、河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」の方が人口に膾炙している。虚子、そしてもちろん碧梧桐の文学的確信も子規文学の延長線上にある。
また子規文学の根幹を「写生俳句」と捉えるのか、「有季定型+写生俳句」と捉えるのかは微妙な問題である。子規が〝写生〟をその文学の中核に据えていたのは確かである。俳句から始めて晩年には写生文を提唱し、散文(小説)でも同様の試みを行った。初期の漱石は自他共に認める写生文作家だった。また確かに子規は俳句は結局「有季定型」に収斂すると考える原理主義的作家だったが、彼の写生は〝伝統〟と〝前衛〟の両極を含むものだった。写生を〝あらゆる生の諸相を写す技法〟だと捉えれば、それは風物だけでなく人間の心象をも含む。子規の写生が有していた伝統的側面を虚子が「有季定型写生俳句」として継承し、前衛的側面を河東碧梧桐が「新傾向俳句」(自由律俳句)として継承したのだと言って良い。
『月刊俳句界』七月号の連載「魅惑の俳人」第69回は荻原井泉水である。言わずと知れた新傾向俳句機関誌「層雲」の主宰で、種田山頭火、尾崎放哉といった優れた自由律俳人を輩出した。「層雲」は元々は明治四十四年(一九一一年)に井泉水と碧梧桐が共同で始めた雑誌だが、意見の対立から大正四年(一五年)に碧梧桐が離脱した。有季・定型を含まないラディカルな自由律俳句を目指した井泉水と、定型はともかく、必ずしも季語を否定しなかった碧梧桐との間に対立が生じたためとも言われる。しかしこのあたりの事情はわかりにくい。ちょうど虚子と、反「ホトトギス」を掲げて虚子門を離脱した水原秋櫻子の関係に似ているだろう。対立当初は大問題に見えても次第にその差異が見えにくくなるのである。いずれの場合も文学的対立だけでなく、一国一城主義の俳壇政治学が働いたことは間違いない。
棹さして月のただ中
月、天上天下寒に入る
空をあゆむ朗朗と月ひとり
井泉水の俳句の特徴は引用の代表句によく表れている。簡単に言えば東洋的調和世界を表現することである。詠まれているのは何の変哲もない風物だが、そこでは完結した調和世界が表現されている。その意味で句の意味表現内容は蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」と余り変わらない。ただ井泉水は五七五の俳句形式や季語を明快に否定した。それらは俳句にとって不要のものだと考えた。そこに井泉水独自と言っても良い〝俳句有本質論〟的姿勢がある。俳句には表現すべき本質的イデアがアプリオリに存在するという考え方である。
石と石月夜寄り添う
いわおにじを吐く
これらの極端に短い句は、東洋的調和世界、つまり井泉水の俳句有本質論にまで届かないうちに投げ出されたような気配である。東洋思想は密教系の思想であれ禅系の思想であれ、調和を至高としながらその背後に〝無=虚無〟を抱えているのが常である。これらの句にはそのような無が表出されていると言っていい。井泉水は有本質論者だが、ときおり洩らした無本質論もまた自由律俳句に影響を与えたのである。
うしろすがたのしぐれてゆくか 種田山頭火
咳をしても一人 尾崎放哉
山頭火や放哉の自由律俳句は明らかに無本質、虚無である。彼らの苦しい生活が本質的イデアなどといった〝夢〟を見させなかったのである。また虚無に留まらざるを得なかった彼らとは異なり、帝大卒のエリートである井泉水は有本質と無本質の間を行き来できた。それが井泉水が「層雲」の領主として君臨し続けた理由だろう。簡単に言えば自由律俳句は、俳句には形式を超えた本質があるという思想と、何もない無であるという思想に支えられている。またこの思想を東洋思想として捉えればそれは表裏一体である。
ただ井泉水の自由律俳句は、有本質であれ無本質であれ、俳句形式が作品を生み次いで思想を生むという俳句の伝統的王道思想とは明らかに対立する。子規から前衛性を受け継いだ碧梧桐が井泉水と相容れなかった最も本質的な理由はそこにあるのではないか。また戦前の新興俳句から始まり戦後の富澤赤黄男・高柳重信によって確立される前衛俳句が、表層的表現だけを見れば井泉水の自由律俳句に近似した面を持っているにも関わらず、なんら自由律俳句を重視していない理由もそこにあるだろう。高柳重信は山頭火を俳句形式から逃げ回った俳人だと論じている。重信は俳句は形式が書かせるのだと諾っていたのである。彼の俳論はすべて俳句形式を巡るものである。
今日では井泉水は山頭火と放哉を生んだ「層雲」の宗匠で、その文学は忘れられがちである。しかし井泉水の俳句イデアを至高とする俳論は一考の価値がある。彼の試みから俳句の本質を探ることもできるだろう。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■