奇書である。しかし最大限の賛辞をもっての。ならば奇書とは何か、という定義から始まらなくてはならない。それは単に字面から浮かぶ「変わった書物」という意味ではない。だったら少なくとも「普通の書物」とは何かを定義できなくてはならなくなるし、それはほとんど意味がない。「普通」だとわかっている代物をわざわざ読もうという者はいないからだ。
「普通の書物」などという凡庸なものは議論に値しないけれど、書物を編もうとするときの人の心性の通常のあり様というものはある。それはテーマと呼ばれるものの存在で、著者の価値観の中心的なあり方に関わる。奇書とは、テーマそのものが奇であると言うより、テーマと著者との関わり方、その距離感に独特のずれがあるものと言える。何からずれているのかはたいした問題ではない。それこそ通常の感覚から、と言うしかないし、それよりも何故にずれているのか、ということの方が興味深い。それがわかれば、何からずれているかも自ずからわかる。
しかしそこには、大きなリスクがあるように思う。その問いを解くことで、貴重なずれそのものが消失してしまう、という危惧を抱く者は多いのではないか。何故にこんなずれ方を、という謎は、奇書をそのあるがままの姿であらしめるには必要なものだろう。
ただ、それは一般論であり、三浦俊彦についてはそういったリスクはかなり低いように思われる。なんと言っても彼のずれ方は筋金入りであり、その点においては極めて優秀で、やわな腰折れにはまず陥りそうにはない。そして恐るべきことに、三浦俊彦はそのデビューから今日に至るまで、日々強靭に進化し続けている。
『下半身の論理学』については、たまたま出版前、その構想について著者から聞く機会を得た。その、ある意味で当然すぎる論旨(と、彼は言っていた。「男は結婚するなら処女を選ぶ」)に対し、想像以上に反発が強い、やたらと強いことを言っておられ、その際には私の反応をもさまざまにテスト(あまり一般的な女性のデータとはいえないと、ぶつぶつこぼしながら)しておられたようだ。すなわち、どの程度の嫌悪感を示すか、といったことなどについてである。
もちろん、私は三浦俊彦氏の二十年来の知人であるから、氏の言うことに今さらオドロいたりアキれたりはしないので、ただそのロジックの緻密さとそれに比例する歪み、そして何よりもそれにかける氏の情熱に敬服していたという一言に尽きる。まあ、イヤな顔などすれば彼の思うツボだということも承知しているのである。
そして「歪み」などという言葉を使えば、今度は三浦さんの方が口を極めて反論し、「歪み」とは言えないこと、あるいはあらゆる存在は多かれ少なかれ「歪んで」いる(それはその通りだ)と証明するのだろうけれど、その反発の源が論理的なものなのか、感覚的なものなのか、それもまた興味深いのだ。私が注目しているのは、「反発するほどの歪み」に過ぎない。
ちなみに私の知見では、男には(三浦氏が言うところの「高スペックの男」に限っても)三通りある。少女性(処女性に繋がる)に惹かれるのと、母性(人妻など)に惹かれるのと、どっちつかずのその中間が好き、というのと。で、一番リクワイヤメント(女に要求するハードル)が高いのは、意外とこの、どっちつかずの男ではないかと見ているのだが。もっとも浅学非才の身であるから、この異論については反論反発というほどのものではない。そもそも女にとっては、男一般がどうであるかなんてことは、どうだっていいのだ。たまたま興味を持てるような男か、その他大勢の二律背反しかない。
「男は結局、処女を選ぶ」という三浦氏の命題はつまり、そのタイプの男にとっては自明の公理であろう。そして、その価値観の内で公理を証明するのは不可能で、堂々めぐりをすることになる。論理学的にはトートロジーとして排除されるかもしれないけれど、しかし文学としての見どころは、まさにこの情熱的な堂々めぐりそのものである。
その価値観の内部から外部をうかがえば、この命題を突き付けたときに返される「不快な表情」とは、「処女性を失ったことで価値が下がったと指摘された女」や「自分の妻や恋人が処女でなかった、つまりは中古品を得たのだと指摘されたと感じた男」の示す反感の表れである、ということになる。これはもちろん、その価値観の内部からの結論付けなので、その外側にある価値観からの批判の可能性は、完全には捉えきれていないように思う。なんてことを言うと「いや、それも検証済みなのであって」と、三浦さんは言われるだろう(うん、目に浮かぶようだ)。
実際、確かに本書にはあらゆるフェーズからの検討が為されている。ここでの処女性とは必ずしも処女膜の物理的残存を指すわけでもないが、ならばなおのこと、その存在に依拠するレッテル付けにどういう意味があるのかは奥深い問題である。それは「自ら他者に身をゆだねたことがあるかどうか」という女性自身の自己への価値評価が関わるのかもしれない(すなわちレイプは除外される)。つまり、その女性が「男にとって、無条件に尊敬するという幻想に耐えられるかどうか」と言い換えてもよい。もちろんそれも、女性にとってのセックスが常に「身をゆだねる」という表現におさまるということが前提だが。そしてその「無条件の尊敬」という幻想からは、「処女性による価値上昇を図るという女性の計算高さ」と引き替えられる、こればかりはどうしようもない「軽蔑」を差し引く、という補正も必要になるだろう。揺れる男心もまた、繊細な処理を求めるのだ。
本書では、自分自身や自分の妻・恋人という私的な事情を離れた、「女をモノとして価値判断することそのものへの公正な嫌悪感」についても、ロリータ趣味との対比などを踏まえ、きちんと俎上にのせられている。自身の内面と性癖すら徹底して客観視し、評価すること。それなしに学者は務まらないのだ。むしろそれが徹底しすぎることのオカシさこそが、三浦文学の本質なのである。
賢いよい子の皆さんはお気づきのように、ここでの最重要キーワードとは、「男は結局、処女を選ぶ」の証明に潜んでいる、さりげない条件付けの一言「高スペックの男」だ。相対する女をその属性によって価値付けしようとするとき、その判断の主体であるはずの男もまた、スペックによって価値付けされ、そのことを甘んじて受け入れている、ということが大前提なのである。
だとすれば、それこそ何の反感を持つこともなく、誰もが自然に受け入れられるだろう。人は結局、自分に似たものしか理解できず、自分に似たものを肯定しがちだ、ということだ。「処女性にこだわる」という「高スペック」な男は、自身の誠実性や家庭的な面も含めて、きっと処女並みにピュアな存在として自己をイメージしているに違いない。では、その「スペック」は果たして誰が規定したのか。
この問いの答えは自明だが、解いたところで存在の謎そのものが消えてなくなるわけではない。それこそが筋金入りの文学だ。私たちを魅了してやまない三浦文学は永遠に不滅なのである。歪みと呼ぶべきでないならその偏り、偏態性とともに。
いずれここでの議論に賛同しようと首を傾げようと、あるいは幻惑されようと新たな問いを見いだそうと、否応なく私たちを納得させるのは、三浦先生の女の子たちに対する「善意」である。個人的にはこの二十年、三浦さんの変人ぶりにはいっそう磨きがかかっていると思うが、なぜかそれに比例して、この人は本当にいい人だ、と感じる度合いも増している。今まだ幸いにも処女であるというお嬢さんがたは、この老婆心にも近い三浦先生の善意の忠告に、一度は耳を傾けるべきであろう。私の反応が三浦さんにとって一般的なデータにならないのと同様に、天下の変人である三浦先生の「男というものは…」という説教が、およそ男一般に当てはまるようには思えない、としても。
小原眞紀子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■