出版不況は久しいが、書物への根源的な期待、欲望は失われてはいないと思う。こういった本がベストセラーになったと聞くと、なおそう思える。私たちはすべてが書き尽くされた一冊の書物を求めているのだ、ということだ。本が売れなくなればなるほど、「最後の一冊」に対する期待は増すのかもしれない。
『137億年の物語』は、ビッグバンによって宇宙が創生された137億年前を起点として現在に至る地球史の物語であり、「理系と文系が出会った初めての歴史書」という触れ込みである。宇宙の創生からすべてが書き尽くされているという幻想は、聖書を戴く西欧人はもとより、あらゆるインテリジェンスとインテリジェンスの卵にアピールすることに間違いない。いわば企画段階から「約束されたベストセラー」である。
一方でその本を実際に手に取ると、違和感を否定できない。もちろん、どんな現実の本も結局のところ、夢の「最後の一冊」にはなり得ないのだから、当然といえば当然なのだが。まず誰もが手にとるだろう魅力的な惹句、「理系と文系が出会った」というところに期待はずれを感じる。そもそも137億年の彼方を視野に入れ、あらゆる史実や思想を相対化しようとする意気込みに対して、大学受験雑誌めいた「理系と文系」という発想自体、セコくないか。
セコい、というのがあまりに感覚的な放言なら、要するに「文系」とは人間の言葉が発生してからの歴史で、それ以前にはあり得ない、ということだ。対して「理系」とはそれこそ137億年前のビッグバンをも視野に入れ、その歴史は今日まで続いている。しかしこの本では、「文系」が登場した瞬間から、「理系」の姿は影を潜めてしまう。つまり「理系と文系」はまったく「出会わない」のである。
「編集マジック」という言葉がある。たいした内容でなくとも、編集力でそれなりに見せてしまう、ということだ。ヴィジュアル化時代には、そのセンスも含めて編集力を発揮できる、あるいはすべき場面が拡大している。本書もまた、編集マジックによるものだ、と言えばそれには違いないが、やはり首を傾げてしまう。感心させるマジックなど、どこにもない。
つまりは前半「理系」、後半「文系」の普通の歴史書をただ、くっつけたように読める。科学というものも人間の営為として、その思想を哲学的に捉えるといった通常の科学史ほどの志でもあればまだしも、「理系と文系」という言葉はポピュラーなものとしての編集戦略だろうと受けとめられる。しかしそれすらなく、「すべて」や「根源」に迫る気概も気迫も感じられない。
この出版不況下でのせっかくのベストセラーに対して、「単なるインチキ」などという言葉を投げかけたくはない。あまりにあっけらかんとしたインチキだからこそ、多くの人を騙せるのだと割り切るのも、人類の知能の発達に絶望を禁じ得なくなる。ならば「魅力がない」として口をつぐむしかないのか。
あるいは魅力というのも人間の、「文系」の嗜好による偏りに過ぎないということで、それを排したのか。いわゆる歴史上の大事件も、またカンブリア紀の生命の爆発というわくわくする出来事もしごく平板に、面白味の欠けたイラストとともに並んでいる。かといって、ポピュラーなものだから資料的価値もないとなれば、つまりは大部な反故である。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■