『ヒア アフター』2010年(アメリカ)
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ピーター・モーガン
出演:マット・デイモン/セシル・ドゥ・フランス
音楽:クリント・イーストウッド
上映時間:129分
スペクタクル/アンチ・スペクタクル
先日公開されたクリント・イーストウッドの新作『ジャージー・ボーイズ』(2014)では、「契約」は書面ではなく、握手によってなされるというジャージー流の手の「接触」が何度もカメラにおさめられていた。イーストウッドにおける「触れること」という主題を考えるとき、『ヒア アフター』が描いたラストシークエンスの握手は、物語の中でどのような意味をもち、どのように達成されるのか。別々の場所に暮らす主人公たちが出会って握手を交わすだけで物語を終えるこの映画がなぜこんなにも感動をもたらすのか、それを言語化することは非常に困難な作業のように思われる。だが、ここでは精密に構成された物語の構造とカメラが映し出す表象世界の完璧なまでの共鳴を分析することと同時に、現代の観客性の問題にも触れることでこの作品がいかに素晴らしいのかを描き出してみたい。
2010年に公開された映画『ヒア アフター』は、津波が登場人物たちの人生を大きく動かすことになる冒頭の圧倒的なスペクタクル性をもったシーンが描かれているため、2011年2月19日から日本でも公開されたが、同年3月11日の東北地方太平洋沖地震を受け、3月14日に上映が中止された。この10年間は、世界的に見て、テロや自然災害が多くの命を奪った時代であり、最も象徴的なのが9.11と3.11であった。僕たちはワールドトレードセンターという技術の象徴が一瞬にして崩れ落ちた衝撃と、自然の脅威がもたらした大災害になすすべもない人間の無力さを痛感した。二つのカタストロフがもたらしたイメージの衝撃は、現代を生きる人々に大きなトラウマを残し、作り手も観客も、そういったフィルターを通さずには物語を作ったり、観たり、できないほどの衝撃となった。鑑賞者、表現者、制作者にとって、この突然「奪われる生」、「現前する死」のモティーフは、無意識的にも作品に強く入り込んでいるように思われる。
図1 冒頭の津波のスペクタクル・イメージ
この10年間、多くの自然災害を経験し、それを多岐にわたるメディア・テクノロジーにより疑似体験することで、僕たちの視覚はメディアの暴力に晒されてきた。2000年から2009年の自然災害における死者の6割にあたる78万人が地震により命を失っており2010年の自然災害による死者数は約29万7000人と過去20年で最悪であった。このようなコンテクストを持つ僕たち観客の「観る」行為の中には、「生の剥奪」、あるいは「死の現前化」というモティーフは大きく入り込んでいると言えるだろう。本作の冒頭の津波の場面は圧倒的なスペクタクルで描かれ、まるで高額な予算とスター俳優を使ったポストモダン特有のパニック映画のようだ。しかし、イーストウッドという監督の作家性を知らず、ハリウッド的パニック映画に馴致された鑑賞者は本作を観終わった後、冒頭のスペクタクル・イメージに対して全編を貫く物語の優位に戸惑いを覚えるのではないだろうか。スペクタクルを「有効」に使う映画の系譜は、そのスペクタクル性を繰り返し使いながら増幅させ、視覚や諸感覚に訴えるのが常套手段だからである。
この映画に関して言えば、冒頭のみにスペクタクルは布置され、津波のシークエンス以降、そういったカタストロフのスペクタクルは描かれることはない。CGを使い鑑賞者を圧倒する「フィクション」と、エンディングのリアリズム的「フィクション」への時間的運動と落差こそ、この映画の特異な表象であり、イーストウッドのアンチ・スペクタクルと言える。そして、この全く違う映画のように見える二つの世界を、一つの「身振り」が結んでいることに僕たちは気付くだろう。一見関連性のない、完全に分離したかのように見える冒頭とラストシーンにおいて、「手を握る」という主題は、繰り返し描写されていた。一方は、津波にのまれたマリーが少女に手を差し延べ、もう一方はマリーとジョージのしっかりと握られた手。前者はフィクショナルな圧倒的スペクタクルの波の中で「失敗」に終わり、もう一方は街のどこかのカフェにおいて、やわらかな陽だまりに包まれ、相互的な眼差しの交換の中で「成功」に終わっていた。冒頭で掴めなかった手、そして最後に握られる二つの手。この映画は手をつかむ映画なのだ。
図2 少女の手をつかみ損ねるマリー
アンチ・ヴィジュアライゼーション―視覚化されない死者の世界
『ヒア アフター』は、サンフランシスコで暮らすジョージ(マット・デイモン)、フランスの有名なニュースキャスターであるマリー(セシル・ドゥ・フランス)、ロンドンで一卵性双生児の兄を事故で亡くすマーカス(ジョージ&フランキー・マクラレン)の3人が、死後の世界と向き合う物語である。他者に触れることで死者と会話できるジョージは、かつて有名な霊能者として活躍していたが、今はその能力を隠し工場で働いている。マリーは津波の被害にあい、その時見た死後の世界と臨死体験により順風満帆な人生が大きく変質し、真実を追究しようとする。マーカスは、交通事故で亡くした一卵性双生児の兄ジェイソンと再び話したいがために、霊能者を探し回り、ウェブサイトを通じて最終的にジョージに行きつく。ジョージは料理教室でメラニー(ブライス・ダラス・ハワード)と出会うが、「呪い」である霊能力により、メラニーの過去を知ったため二人の未来は破綻し、メラニーも仕事も失った彼は、ディケンズの生地イギリスのロンドンへ向かうことになる。臨死体験の「後遺症」のため、キャスターを降板させられたマリーも、真実を伝えようと出版した本の朗読のため、ロンドンのブックフェアーに赴く。そしてマーカスも偶然そのブックフェアーに居合わせることになり、3人がロンドンで交錯するという話である。そこで出会ったジョージとマリーは、ジョージが彼女に渡した手紙によって、後日、待ち合わせをし、二人の握手で物語は終わる。
3人は死の体験、すなわち臨死体験で繋がっていると言えるだろう。ジョージは幼い頃、生死の境を彷徨いその臨死体験から、死者と交信するという「呪い」を手に入れ、人生が一変した。マリーも上述の通り、津波の臨死体験により、人生が大きく狂うことになる。マーカスにとってのジェイソンは自分の分身であり、同じ顔の双子の兄を失うことは、もう一人の自分を失うことでもあるため、疑似的な臨死状態におかれていると捉えられ、臨死体験という共通項を抽出できるのだ。さらに死者の世界、オカルティズムを扱うこのような類の映画の中で、この映画に特徴的なことは、限りなく死者の世界の描写を抑えていることである。この映画の色調に関しても言及するならば、登場人物たちは、フィルム・ノワール的コントラストの色調が漂う暗い室内空間と、リアルで瑞々しいヌーヴェルヴァーグ的描写が画面を占有する屋外との間を往還する。室内における「影」は人物の視覚を覆い、聴覚へと鑑賞者を注力させるように促しているようだ。二つの対照的な世界が、生と死の、換言すれば表=光と裏=影の世界を暗示する表象により均衡を保ちながら、3人を往復させるのだ。
総合芸術であるとはいえ、基本的に視覚能力を最大限に活用する映画の鑑賞行為を、影で画面を包み込むことによって、聴覚世界へと誘うイーストウッドは、オカルティズムを扱う映画で「有効」な手段である視覚イメージの描写というクリシェを排し、意識的に視覚イメージを制限している。むろん死後の世界をめぐって物語は進行するのだが、イーストウッドにとっての興味の対象は「向こう側」の死後の世界のリアルな表象にはない。そうではなく、それを介して見えてくる現実世界の生のリアリティであり、その中で生きていく主人公たちの愛おしい姿とその未来を想像することにあるようだ。あるいは鑑賞者に「物語後」の物語を想像させることも、形態的な連関として意図されているのかもしれない。この意味で、死者との媒介としてしか存在しなかったジョージが最終的に未来を想像するというエンディングと、その主人公たちの未来を想像する観客は同期されるのである。イーストウッドは、冒頭の視覚イメージから聴覚・触覚イメージへの断絶を物語に埋め込み、「触れること」や「音声」に焦点を置くことで、従来の視覚優位の映画とは一線を画し、独自の世界観を作り上げている。
「食べること」―ジョージとメラニーの料理教室と自宅のキッチン
ジョージとマリーにおとずれる「食べること」の主題が、この映画の物語を転換する大きな場面となっていることは、中盤に挟まれた食事にしては長すぎるシークエンスと、その出来事に起因する二人の行動を考えれば理解できるだろう。二人はそれまでの場所と自分を切断し、異なる場所へと移動する。ここでは、「食べること」の二つの重要なシークエンスであるジョージとメラニーの料理教室と、マリーとディディエのレストランから「食べること」のトポスがいかに重要な存在であるか、またその場所の会話により物語がいかに転回するかを見てみたい。
まずジョージにとっての二つの「食べる」場面である料理教室、そしてメラニーとの自宅での料理、これらの場面は「触れること」という重要な主題を暗示している。ジョージはなぜ料理教室へ来たのかをメラニーに語るが、その動機は釈然としない。ジョージが怖れている人との「接触」、そして最後にマリーと握手することによって獲得される「接触」、その主題をイーストウッドはメタフォリックに様々な角度から描いている。例えばステレオタイプ化したイタリアンシェフの発話にも「接触」の欠落が読み取れる。“Cooking is all senses”と言うシェフは、料理に必要なものとして「the nose(香り)、the eyes(見た目), the palate(味), the ears(音)」を語るが、「触覚」には触れない。自身の鏡でも見ているかのようなこの場面は、まるでジョージが潜在下のトポスでシェフに語らせているかのようである。そうだとすれば、人に触れることを拒み続けている今のジョージに「触覚」=「触れること」は語られるはずがなく、ジョージが最も必要とし、欲望しているものであるがゆえに、「触れること」は欠落しているのである。この「触覚」=「触れること」を獲得するため、自分に必要なものを見つめる鏡としてシェフやメラニーは物語に布置されているように思われる。
図3 料理教室でジョージとメラニーが食べさせあうシーン
続くメラニーとの食べさせ合いのエロティックなシークエンスは、それぞれの欲動としての性的なエネルギーを抑制するために、異なる仕方でそのエネルギーを放出しているシーンとして理解できる。この後、メラニーは父親から性的虐待を受けていることが明らかになる。すなわち、ジョージもメラニーも「触れること」に対して普通の人以上に敏感であり、トラウマを抱えているのである。ジョージが使うスプーンも、それを出し入れするメラニーの口も、第2の性器として機能しており、二人のこのやり取りは「不能者」同士の性行為のメタファーなのである。第2の性器を使った両者の自慰行為は、日常性を伴い疑似的に遂行される。性行為が抑圧されているがゆえに、このシークエンスは過剰にエロティックに描写されているのだ。
続いて「食べること」のトポスは料理教室からジョージの部屋へと移っていくが、この間にジョージは2度メラニーに不意に触れ、二つのイメージを見ている。最初のイメージでは少女が見え、後に幼い頃のメラニーとその手を引く父だということが分かる。次のイメージもやはり幼い頃のメラニーと父である。ここで、鑑賞者は違和感を覚えるはずである。なぜなら、ジョージの霊能力の定義上、死者の世界が見えて、死者と話ができるという条件を観客の僕たちは共有しているからである。おそらくメラニーは幼い時父親から強姦された時に、半分死んでしまっている。だから、死者のイメージの中に幼い頃のメラニーがいたのである。ジョージとメラニーは生と死の境界線の上に立ち、積極的な生を描けないという意味で、極めて同質な人物として描かれている。メラニーが去った直後、ジョージは俯きながらディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』の朗読を静かに聞いている。彼は本を「読む」のではなく、視界を覆うように、「声」を聞いている。それは作者が活字というメディアにより一方的に拡散する情報と違って、彼にとっては話し手と同一な時間を共有する「対話」に近いのかもしれない。「接触の禁止」という「呪い」は、「食べること」やディケンズの物語を通してどのように克服され、いかに積極的な未来を描くのだろうか。ジョージが初めて積極的に「接触」を獲得できるとき、ジョージは初めて自分の人生を肯定できるだろう。自宅のキッチンでの「食べる」シーンは、ジョージをディケンズの生まれ育った街ロンドンへ、マリーとの出会いの場へと転回させるのである。
図4 ディケンズの朗読を聞くジョージ
「食べること」―マリーとディディエのレストラン
もう一つの「食べること」のトポスは、マリーと不倫関係にあるディディエのレストランのシークエンスである。レストランの対話の前の、螺旋階段を下降するシーンは、物語の結末を示唆する象徴的シーンであり、奇妙なカメラの動きが主人公たちの結末、あるいは物語の流れと形態的に同質な運動を表象しているように思える。カメラはまず鏡の中のマリーとディディエを映しだし、虚構の世界である鏡の世界から、現実世界へワンカットで移動していくカメラの運動が、死後の世界から鏡に映しだされた現実に帰っていく、あるいは現実に向き合う主人公たちの結末を示唆しており、鏡の内部の虚像と外部の現実を移動するカメラと主人公たちの変容の形態は同一の動きをするのである。この不自然なカメラの運動が終わり螺旋階段を下降する時に、二人は非常に重要な会話をしている。
図5 鏡の中の二人を捉えるカメラ
図6 現実世界の階段を降りる二人
マリー:「死んだらどうなる?」
ディディエ:「電気が消えておしまい」
マリー:「それだけ?ただの暗闇?」
ディディエ:「真っ暗だ 電気は点かない」
マリー:「何かないのかしら?」
ディディエ:「何か?」
マリー:「わからないけど…“来世”とか」
ディディエ:「ないね」
このディディエの完全な否定により、マリーはロンドンへと突き動かされる。なぜなら、「Hereafter(ヒア アフター)」の二重化された二つの意味が、二重に否定されるからである。「Hereafter(ヒア アフター)」には、主に以下のような二つの意味がある。
「Hereafter」
1. after death (死後)
2. in future/from this time (未来/これから)
すなわち「Hereafter?」と聞いたマリーに対して、追究しようとしている「死後の世界」と、不倫相手であるディディエとの二人の「これから」という二重の意味が、二重に否定されるのである。書かれた視覚言語的想像力の制限性に対する、聴覚的認識の多様性、あるいは開放性が、言語の認識における想像の可能性を豊かにし、観客に訴えかける物語の強度を高める。「食べること」のトポスの重要性は、マリーの最終的な決別のシーンにおける言葉「数か月前まで有名で、リッチで、成功者で、幸せだった、仕事に囲まれ、あなたもいた」というディディエとの別れのシーンからも捉えることができ、ジョージ同様「食べること」のトポスが物語に大きく作用するのだ。「食べること」の二つのトポスは、真実の会話を促し、マリーとジョージをロンドンへと突き動かすのである。
「触れること」―メディウムとしての身体の放棄(ジョージ)
霊能者ジョージはなぜ工場で働くのだろうか。ブルーカラー職種である工場は、人とコネクトする機会がホワイトカラーのビジネスマンに比べて限りなく少ない職業である。ジョージの精神は、死後の世界と現実を媒介するジョージの身体を嫌い、徹底的に人と触れることを忌避する。メラニーが料理教室に入ってきた時も、握手しようと差し出された彼女の手を、腕まくりしてうまくかわしている。手を繋ぐことを恐れ拒んでいたジョージが、最後のシーンで初めて自ら手袋を取って握手する身振りは、ジョージの身体が初めてメディウムをやめることができたことを表しているのであり、「メディウムとしての身体の放棄」によって初めて未来を想像することができるのだ。ここで、再びマリーのレストランで「ヒア アフター」に二重にかけられた意味が想起される。すなわち、ラストを飾るジョージのマリーとの握手シーンは、「ヒア アフター」(死後の世界)から「ヒア アフター」(これから=未来)へという二つの意味から一つの意味を選び取るという行為であり、ジョージは霊能者として間接的=媒介的な身体の接触では「ヒア アフター」の意味選択において、「死後の世界」しか得ることはできないのだが、最後に媒介としての身体を放棄し、直接的に身体が接触することで、ジョージは「これから=未来」という第2の意味を二者択一できるのである。
図7 ジェイソンの声をマーカスに届けるジョージ
最後に「これから=未来」を生きる主体になるジョージは、それまで霊媒師として二つの世界の「間」の役割しか与えられていない。交信の儀式の間のジョージの顔を照らす照明のコントラストの強い明暗は、前後、あるいは左右に二つの顔を持つヤヌス、すなわち扉の神であり二つの世界の境界に立つ存在であることを表している。ジョージは「こちら側」と「あちら側」の狭間で、二つの世界を接続する媒介者として、能動的な生ではなく、受動的な「声」の受信者としてしか存在していない。最後の「握手」という身振りと「Hello」という「声」は、そのジョージが、霊媒者としての「媒介としての身体」を捨て去り、境界の「こちら側」に能動的に飛び込んでくる行為を意味しているのである。
図8 死者と話をするときのジョージ
死者の「声」を伝達するだけのジョージの存在は、この映画の登場人物、あるいは本作を観る鑑賞者にとって、何かを発信してくるダイナミックな主体ではなく、見られるだけの受動的「客体」でしかなかった。与えられ固定されたものを棄却し、受動的なメディウムとしての超越的「客体」性を放棄すること、境界の内側に零度の身体を投企するジョージの姿を目撃することこそ、僕たちがこの物語に立ち会った時に得られる最も美しい主人公の姿であり、その大きな変容こそが、救い出されるべきこの物語のダイナミズムなのである。その時、初めてジョージの身体にかけられた「呪い」は「能力」として肯定されるだろう。その「能力」がジョージとマリーを結び付け、マーカスを未来へと導いたのだから。
「触れること」―メディウムとしての帽子の投棄(マーカス)
さて、それではマーカスにとっての、「触覚」の優位はいかに表現されているのだろうか。マーカスが里親の家に引越し、部屋にもう一つのベッドをあてがわれた時、誰もいない向かい側のベッドの上の空虚な空間をじっと見つめていたことを僕たちは思い出さねばならない。その空白の場所にマーカスはかぶっていた「ジェイソンの帽子」をそっと置いたのだった。マーカスはジェイソンの帽子を肌身離さず終始かぶっていた。マーカスにとって、世界と直接「触れること」を妨げていたのは、「ジェイソンの帽子」である。ジョージに見られた「ヒア アフター」の意味選択(これから=未来)は、双子の弟マーカスでは「帽子を脱ぐ」という身振りで表象される。この映画において双子の兄の死後、形見である「帽子」は、現実世界との分断のシンボルであり、この「帽子」に双子の兄ジェイソンの存在を重ねてみることができるのである。つまり、マーカスのかぶる「帽子」は、ジェイソンであり、マーカスは「帽子」=ジェイソンを介在させて世界と繋がっている。換言すれば、マーカスはジェイソンを通して世界を見ているのだ。
図9 帽子を脱ぐマーカス
ジョージがメディウムとしての身体を放棄することと、マーカスが媒介項としてのジェイソンである「帽子」を脱ぐ身振りは、現実と直接繋がるという意味において、パラレルに語られており、二人は「ヒア アフター」(死後の世界)から、「ヒア アフター」(これから=未来)へという二者択一、つまり「これから=未来」を選択するのである。ジョージとマリーが「握手」という「身振り」で世界との直接的繋がりを獲得したとするならば、マーカスは、ジョージとの交信後の母親との再会のシークエンスにおける「抱擁」により、媒介項のない世界との直接的「接触」を獲得したと言える。マーカスは初めて「笑顔」で、母のもとに駆け寄り、言葉を交わすのではなく、ただ「抱き合う」のだ。この「抱擁」の直接性が、マーカスにとってのメディウムの放棄と現実との「接触」に他ならない。
図10 帽子を脱いで母と抱擁するマーカス
「触れること」―メディウムとしてのキャスターの降板(マリー)
マリーにとっての媒介性とはテレビである。テレビのキャスターとして存在する限りにおいて、マリーはテレビというメディウムに媒介され直接「声」を届けることはできない。いや、むしろマリー自身が、ディディエを中心とする視聴率を稼ぐという市場原理の欲望の「コンテンツ」を視聴者に伝達する、いわば霊媒師的な存在として、キャスターという役割を与えられているのだ。ジョージ同様、他人の欲望に消費される存在、視聴者の欲望が求めるものを乱反射するかのようなマリーのキャスターの「声」は、ジョージ同様、主体的な「声」を発しているとは言い難い。特定の対象をもたないキャスターとしてのマリーの「声」は、電波の彼方へと雲散霧消するのだ。この映画にとって非常に重要なことは、「声」をいかに捉えるかである。敏腕プロデューサーであるディディエに彼女のイメージは操作され、作り上げられる。そして使えなくなった彼女はディディエに番組を降板させられる。だが、彼女のニュースキャスターとしての間接的「声」は、物語の終盤、ロンドンのブックフェアーの朗読会において、自らの言葉として発話される直接的「肉声」へと変化している。マリーは自分の「肉声」を届ける朗読会という場所を、テレビのスタジオの代替として最終的に獲得したのだ。
この映画の特異なところは、主人公であり結ばれるべき男女が、幼児でも古代人でもできる原初的行為しか交わしていないところである。ジョージは朗読会で、自分の名前を言う、偶然手が触れる、書簡というメディアによるメッセージの伝達、そしてラストシークエンスで、相手の名前を呼ぶ、握手する、「Hello」と言う、という極めてシンプルな行為と発話しか行っていない。本作の主人公であるジョージとマリーの出会いにおいて、挨拶と握手というシンプルな行為が焦点化される。マリーがテレビから降板することは、重層的に媒介される世界を捨て、現実世界との直接的接触を表しており、上述してきたように、3人がメディウムを放棄し、現実世界と直接繋がり、「触覚」と「声」によってパラレルに「ヒア アフター」(これから=未来)の獲得が描写されるのだ。
剥奪されたプロセスの奪還
しかし意味深長なラストシークエンスはどう捉えるべきだろうか。ジョージはマリーとカフェで待ち合わせをしている。マリーの姿をみとめたジョージは、一度椅子から立ち上がるが思いとどまり再び腰を下ろす。そしてその直後、突然ジョージとマリーのキスシーンが描かれるのである。キスシーンの「想像」の重要性は、ジョージが、他者の死後の世界ではなく、初めて自分の未来を想像する、つまり「ヒア アフター」のもう一つの意味である「これから=未来」を「想像」することにある。ここでの重要な点は、ジョージの「想像」のキスシーンが、その過程を奪われ急にモンタージュされていることである。このような過程を剥奪する映画はヌーヴェル・ヴァーグの新しい映画などで作為的に行われてきた。例えば、ジェン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(1959)のジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグの有名なキスシーンは、男女が部屋の離れたところで目を合わせ、次のカットに切り替わった途端、すでにキスしている二人がクロース・アップで映し出される。つまり、歩み寄って、見つめ合う一般的なプロセス(過程)がすっぱり奪われており、当然、観客の感情移入の過程も奪われているのだ(このゴダールのキスシーンはサミュエル・フラーの『四十挺の拳銃』(1957)の引用である)。現代の観客にとって「奪われるプロセス」がいかに作用するかを考えることこそ、ここでの重要な点である。
図11 ジョージが想像するキスシーン
ジョージの想像する未来のイメージでは、キスをしながら、もはや怖れることなく繋がれた手のクロース・アップも描かれる。このマリーとの未来の願望を実現するために、ジョージはその過程を一歩ずつ歩んで行かなければならない。冒頭で述べたように、突然「奪われる」ということは、この映画の重要なモティーフであった。ここでは「想像」のキスシーンの後、それが「想像」であったことが、すぐにわかるように描写されている。つまり、プロセスを「奪われた」ジョージの「想像」から、現実の描写に移行するこのシークエンスは、ジョージが「奪われたプロセスを奪還する」という意味が込められているように思われるのだ。この「剥奪」と「奪還」の挿入は、死者と交信したい、失った人物と繋がりたいという死者の世界へ行くのではなく、「ここから始めること」を促しており、マリーの階段の下降のシーンにおけるカメラの不自然な運動が映したように、虚構の世界である鏡から、それに映った現実世界を見つめ直し、現実へ回帰すること、つまり「始まり」を伝えようとしているのだ。このようにすべてのシーンが同じテーマの相似的メタファーとして、重層的構造を成して物語に強度を与えているのである。
図12 想像による触れあう二人の手のイメージ
「嘘」―物語を創造する
「想像」のシーンが終り、現実に戻った後のマリーとジョージの握手のシーンで、彼は他者の手に触れたにもかかわらず、死者の世界のイメージを見ない。いや、イーストウッドはそれを描かない。ここで、ブックフェアーの朗読会とラストシークエンスの間に挟まれたマーカスとジョージの降霊の儀式を考察しよう。通常映画は視覚イメージを与えながら、聴覚情報を付加することで物語を展開させるが、この映画における交信の儀式では、視覚イメージは限りなく排除され、主として聴覚情報が与えられることはすでに述べておいた。心霊イメージの視覚情報は制限され、ジョージが「声」というメディアを使い言葉を綴ることで、観客は、その「声」を頼りに、視覚イメージを自ら構築しなければならない。明確な表象が剥奪されることは、不確定な情報が流れ込むことであり、異なる位相世界が物語に埋め込まれることで、観者や他の登場人物たちは、ジョージが「真実」を語っているのか、「嘘」を叙述しているのか知りえないため、宙吊り状態に置かれる。ジョージの口から発せられる「声」は、「記号」の表象であるシニフィアンが、単一の「意味」、つまりシニフィエと結び付いた視覚的表象原理を突き崩してしまうのだ。
しかしこの降霊のシーンが他の異なるのは、霊媒者としての受動的な言葉の伝達ではなく、初めてジョージは自分自身の「声」をマーカスに発信している点である。すなわち死者のジェイソンが去った後、不在のジェイソンの言葉を、自ら創作するのである。まるでディケンズの物語が読者の心を救う物語を創作するように、彼もまたマーカスのための物語を紡ぎ出すことになる。この場面こそ、ジョージの「呪い」が「能力」に変わる最も美しい瞬間だろう。いや、それはもはや使者と話せる「能力」ではなく、「嘘」=フィクションを語る「能力」である。ジョージは断片的イメージの束に文脈を与え、細部を繋げリニア化することで、一つの「物語」を提示していた。しかし、この儀式の途中から、ジョージはイメージに「物語」を与えることをやめ、「イメージなき物語」を創造するのだ。ジョージが主体的に物語を創作することにより、一人の少年の世界への対峙の仕方が変わる。ディケンズを愛するジョージにとっての受動的身体の放棄とは、「物語を創作すること」だったのである。「フィクション」を能動的に語るジョージの「声」とラストシークエンスにおける「想像」は、過去から今に至る「呪い」の継続ではなく、ジョージが「今、ここ」から「未来」へ受動的身体を投企した最も美しい姿なのである。この最後の儀式はマーカスだけではなく、ジョージとマーカスのためのものだった。この通過儀礼のシーンを通して二人は変容する。この後の、マーカスが母と「触れること」(抱擁)とジョージがマリーと「触れること」(握手)は表裏一体であり、この物語において、全く同じ構造と機能を持っているのだ。直接的な世界との繋がりを妨げていたものをそれぞれ放棄し、「物語を始める」ことこそ、3人がこの物語において獲得したものであった。それが、「触れること」という主題によって見事に描写されているのだ。
図13 現実の握手の手の描写
物語は終わったときに始まる
ヤヌスという「神」の役割を担っていたジョージが、カフェに座りマリーを待つラストシーンでは、交信の儀式の二つの顔の明暗の照明とは対照的に、正面から美しい太陽の光が顔に降り注いでいる。ジョージの部屋の暗いライトや儀式においてジョージを分断する陰影のライトは、このラストシーンの光の美しさを表象するために、温存されていたのである。「1月」を司るヤヌス神は、「始まり」の神でもあった。妻を亡くしたギリシャ人が愛していたが誰にも言えなかった看護師の名前「ジューン」でもなく、ホテル「メイ」フェアでもなく、「ヤヌス」(1月)=「始まり」をジョージは役として、すでに与えられていたのである。この映画の強度は、鏡像の世界に映し出された自分を見ることで、ジョージ、マリー、マーカスの3人が物語の中で絡み合い、変化し、「日常に帰り」、「現実を肯定し」、「ここから始める」こと、つまり過去ではなく、「これから始まる未来」を選び取ることを幾重ものメタファーで描写する緻密な構造による。最後のシークエンスは、運命的な出会いと同時に、「ここから始まる」未来を3人が歩んでいく。逆説的だが、エンディングにおいて初めてこの物語は「物語を始める」のである。
図14握手をするジョージとマリー
スペクタクル・イメージは排除され、男と女が「握手」し「Hello」という、最も原初的身振りと言語により幕を閉じるイーストウッドの映画は、視覚的「表象の力の否認」に基づいている。現代を生きる観者にとって、この映画を観る特権とは、内在化された突然「奪われた生」、「現前する死」を表象する冒頭のスペクタクル・イメージと、エンディングにおける原初的身振りと言語との振れ幅の大きさにあると言い換えることもできるだろう。視覚の限界性ではなく、聴覚・触覚的想像力を志向するイーストウッドは、物語の失効したポストモダンの時代の中で、再び「物語」を始めようとしており、アガンベンによる「声」と同様に、物語が生起する瞬間の「潜勢力」に映画表象の力を見ているように思う。主人公たちが「新しい物語」を始めること、それがあのラストシーンにおけるメディウムの放棄と「握手」という身振りに賭けられているのである。手を掴む、手を握る映画としての『ヒア アフター』。マリーは津波のスペクタクル・イメージの中で、確かに「手を(Give me your hand)」と叫んでいた。しかし差し延べたその手は、少女の手を握ることはできなかった。今、マリーは少女の手を、直接届くことのなかったテレビの向う側の人々の手を握ることができる。彼女の手はジョージの手に直接触れ、しっかりとその手を握り返すのだ。
北村匡平
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■