世界行ってみたらホントはこんなトコだった
フジテレビ
水曜 19:00~ (19:57~)
高度情報化時代である。Google 様によって、どんな街角も目の前に映すことができる今、行ってみたらホントは、という状況とはどういうものか。とはいえ、もう行く必要などないのだ、とも言い切れない。我々はそこへ行って、情報以外の何を得るか。
テレビというものが普及したときも、おそらく同様に思ったものなのだろう。テレビジョン、という名称がそれを端的に示している。これで旅行に出なくてもいい、と思われたはずなのだが、実際はどうなったか。それで海外渡航が減った、という話はついぞ聞いたことがない。つまり情報は、さらなる情報の獲得を欲望させる、ということだ。情報量が多ければ多いほど、さほどに注目され、話題となっている物事についての情報の質が問われるようになってくる。本質を探し始める、というわけだ。
「ホントはこんなトコ」というネーミングは、それを端的に示しているだろう。ネットでいくらでも情報がとれ、またテレビに旅番組が溢れている。それでも「ホントは」どうなのか、という点については、「行ってみ」なければわからない気がするのだ。しかし、それはそうなのか。
行ってみさえすれば、その場所のことが本当にわかるのか。一度行ったぐらいでは、と言い出せば、リピーターでなければ、さらには住民でなければ、ということになろう。しかしその場所の住民はそこに慣れ切ってしまい、外部と比較する目を失っている。では、最も「ホント」のことを感知し得る、理想の旅人とは誰か。そんな旅人がいるなら確かに、大枚はたいてパック旅行に出る必要はないかもしれない。
この番組の「旅人」は、そういう意味では工夫した痕跡が濃厚だ。タレントでも文化人でもない、通常は表に出ない裏方、ディレクター2人を旅人としているのだ。こういうことは掟破りだが、テレビはある文脈ではやることがある。裏方だが妙なキャラクターである者を内輪ノリで採りあげて面白がったり、裏方の新米の素人っぽさをからかったり、という形でタレントを作り出すことがある。そのまま表に出る側にまわるようになる場合もあるが、一瞬のものであることも多い。が、いずれにしてもテレビはそれを自覚的にやる。
だからここで「旅人」役を務めるのが裏方のスタッフであることも、理由があるだろう。多くの旅番組を制作するうち、本当の旅のエピソードは、出演者であるタレントさんがフューチャーされる前、スタッフたちの準備や下調べ段階にあり、語るべきことが多い、ということだったのではないか。
「ホントはこんなとこ」とスタッフたちが腑に落ちたところで、タレントさんがやってきて、彼や彼女の「物語」が始まる。それはタレント誰それのイメージフィルムであり、その土地はタレントの容姿やキャラクターを印象付ける背景となる。そんなものよりよっぽど面白い苦労話は、裏方しか知らないというわけである。
イメージフィルムで完結する旅ならば、それでもう行く必要はない。土地のあり様や人心は捉えられても、そこでの自分との関わりによって様々な変化をみせる。それは音楽の演奏にも似て、知られた曲がよく聞かれるように、訪れる人がさらに増えるということになる。つまり旅人にとって世界は見るものではなく、その声を聞いて応えたり、唱和したりするもの、ということか。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■