個別のカウンセリングでない、一般論を述べたものがピンとくる、自分に当てはまると思えるときと、そうかなあ、としか思えないときとの落差は大きい。前者の場合、まずその経験が自身のものに似ていると感じられることが第一だろう。そしてそのときの心の動きが、そこに書かれている通りだったと記憶されていることだ。ピンとこないのはその経験がないという場合もあろうが、同じ経験をしたが、そんなことはちっとも思わなかった、というときは一気に冷めてしまう。
しかし一般論として読んでいると、その場で本を閉じてしまおうとは思わない。そういう感じ方をする人がいる、あるいはそれが大多数だ、と知ることはなかなか興味深い。著者に対して予言者的な、あるいはよく当たる占い師的なカリスマ性を期待することはなくなっても、そのカウンセラーと一般的な他者とのカウンセリングを覗くという楽しみは残る。
そうやって他者たちの言説を眺めるときに感じる疎外感は、貴重なものではないか。それは自分が何者かを教えてくれる。そうだよね、と諾なうことができない自分が、そうだそうだと納得し合う言葉たちにとって何なのか、ということも示唆する。その距離感だけが人生だ、とも思える。
疎外感があやふやな劣等感であったり、定義不能の不安感であったりするのは、若いときにはよくある。一方で、むしろそれを拠りどころとして、アイデンティティとする、というやり方もある。そういう発想の転換は、それこそ「こころの処方箋」であるが。
『こころの処方箋』は、我々のような大人には読みやすい本である。精神的な安定を得て、生活の質を向上させるという実践的で有用な書物でもある。したがって親心として、子供が早いうちから読み、こういう知識や覚悟を用意するなら、どれだけトクをするだろう、と考える。自分ができなかったことをさせてやりたい、もし自分が最初からこういうことを知っていたなら、と思うわけだ。
そう思うのだが、どういうわけか子供はこの本をひどく読みあぐねる。中学入試に出るし、そのレベルのトレーニングにはちょうどいい難易度のはずなのだが。親の心子知らずと言いたいが、読みあぐねる子の心がわからない。その処方箋は見当たらない。
まあ、処方箋など探さなくても、読みたくないなら放っておけばいい。必要を感じない、ということなのだし、確かに自分の心を持て余して、そのコントロールのための処方箋がほしい、などと思うのは大人だけかもしれない。
かといって子供に悩みや恐怖がないわけではない。ただ、この処方箋は小児用ではない、ということだ。大人たちの悩みは、社会で善しとされていることにそぐわない、ということだし、それにまず共感しなくてはカウンセリングは務まらない。やがてはそれが思い込みであることに気づく、というのが治療のストーリーだが、子供たちの悩みはそれとは無縁のところ、ときにはむしろその善きものがそもそも理解できないところから生じているのだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■