小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第027回)をアップしましたぁ。『源氏物語』第36帖『柏木』(かしわぎ)巻の読解です。光の妻・女三宮と不義の子を作ってしまった柏木が死去し、女三宮は薫を生みますが出家してしまいます。柏木の心理(言動)には古来様々な説があります。彼の行動が一貫していないように見えるからです。柏木は女三宮と密通しておきながら、自分が死んだ後の正妻・落葉の宮の生活を気にかけ、また光の不興を死に至るまで恐れている。つまり柏木の言動には、女三宮への恋慕以外の要素が入り混じっているわけです。
それを小原さんは、『柏木と父・大臣という父子は、「降嫁」を望んでいたわけです。息子・柏木の方が望みが高く、朱雀院の最愛の娘である女三宮でなくてはならなかったのですが、父・大臣にとっては宮の降嫁であればまず満足で、それゆえ落葉の宮を得るために奔走した。・・・まず最初に父・大臣の宮家志向があり、父を超えようとする息子によってその志向がさらに肥大化した、と考えるべきでしょう。柏木の女三宮に対する、自分でもわけのわからない欲望は、父の欲望に端を発している』と読解されています。また『柏木が源氏を出し抜くような真似をしておきながら、源氏の顔色ばかりを窺い、ついに死に至るまで気に病むということは、彼の抱えていた理想の象徴がまず源氏であった、ということです』と書いておられます。そのとおりでしょうね。
この柏木父子の上昇志向を、小原さんは戦後文学を例に読解しておられます。中でも有吉佐和子の『悪女について』や『芝桜』に『源氏物語』的要素が認められる。小原さんは松本清張的上昇志向を、『ハングリーで真っ直ぐな上昇志向を持つ者は本来、単純で素直な「善きもの」です』と評しておられます。しかし有吉作品で描かれる女性たちは、同じ上昇志向でも質が違う。その『生命力は動物的なものではなく、光に蔓を伸ばす植物のようです。はかなげで確信もなさげで、しかしそれゆえに気を許せば、はびこる』と書いておられます。
有吉さんはこのような思想を岡本かの子から得たようです。小原さんは『岡本かの子の女性性、「命」が男をとって食うか、または救い出すような力強いものだったのに比して、有吉佐和子の描く女性的な生命力は、強いと言うよりもむしろ、したたかなものです。これは源氏物語の世界にもしかするとより近く、立ち戻っているようでもあります』と総括しておられます。確かにそうですね。
歴史の中に〝正史〟があるやうに、文学の世界でも正史と呼ばれるやうな〝文学史〟があります。これらはだいたい男性作家が作り出したものです。しかし不肖・石川は、その発端は多くの場合、女性作家の作品にあるのではなひかと思っています。言うまでもなく『源氏物語』はそういった作品です。和歌と物語の統合とその分離はこの作品から始まっています。また千年以上経っているのに、完全に読み解けたという気がしない稀な作品です。
これは岡本かの子や有吉佐和子についても言えます。正史としての文学史は彼女たちの作品を正確に読解しきれていない。有吉佐和子に女流大衆作家の草分けというイメージを持っている読者は多い。しかし彼女は間違いなく純文学作家です。乱暴なことを言えば、男性作家は女流作家が開示した新たな文学の可能性を極限まで先鋭化することに長けているところがあります。ところが男性作家が作り上げた文学史に照らし合わせると、女性作家の居場所がなくなってしまふ。これは現代の江國香織さんにまで言えることです。彼女は直木賞を受賞しましたが、本が売れているから直木賞といふのでは、あまりに安易でごぢゃります。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第027回) ■