『私の男』(2014年、日本)
監督:熊切和嘉
出演:浅野忠信、二階堂ふみ、高良健吾、藤竜也他
原作:桜庭一樹
脚本:宇治田隆史
ファースト・ショットで観客の視界に入るのは、接近して撮影された流氷だ。しばらくすると、氷の裂け目から一人の少女が這い出てくる。命からがらという感じの風体を見せつつも、不敵な笑みを浮かべた少女の横には、「私の男」という題名が表示され、映画の開幕が告げられる。このショットは後に判明する少女が犯した殺人を先行して伝えているが、その理由は正に彼女の「男」にあるのだ。このファースト・ショットにおける少女の存立基盤の提示は、流氷の上というロケーションとともに、本作全体に関わるものとなっている。
2008年に直木賞を受賞した同名の小説(桜庭一樹)が原作となった本作は、近親相姦という禁忌を侵した父と娘の激動の半生を描いた原作の物語を踏襲しつつ、映像を展開していく。北海道南西沖地震による津波で両親を失った花(二階堂ふみ)は、親戚の腐野淳悟(浅野忠信)に引き取られ、やがて北海道の紋別市でひっそりと暮らし始める。淳悟との暮らしは性的虐待を伴うものだったが、これを受け入れていた。倒錯してはいるが、お互いがお互いの支えになっている生活は、花の高校時代から陰りを見せ始める。
物語の大筋は同じであるものの、映画と原作は本質的に異なる作品に仕上がっている。原作は2008年の6月から過去に遡り、各章ではそれぞれ異なる人物が物語っていくという形式を取っている。これは主観的な語りを入れつつも、それを複数人にすることにより、禁忌を扱う上での客観性をある程度保とうとする試みと、そして花と淳悟という爛れた男女(あえて親子とは言わない)の内幕を少しずつ暴いていこうとする試みが並行した結果だろう。それゆえに原作は、ある種のミステリーとして成立しているが、映画ではこうした表現形式を選択していない。これについて、単に観客の混乱を避けるために時系列を年代順にし、二人の関係性だけに焦点を絞ったとした場合、それは一つの理解として正しいかもしれない。だがそれは結果として本作の表層を撫でただけにすぎないだろう。真に重要なのは、本作が原作のようなミステリーではなく、サスペンスとして成立しているところにある。
サスペンス映画は、様々な状況設定や、空間演出により観客に対して恐怖や緊張を喚起させるものと考えて良いが、重要なのはミステリーとは違い、そこに必ずしも謎の解決や推理を楽しませる魅力などが必要ではないということだ。サスペンス-suspense-の語源がサスペンダー-suspenders-であり、ズボン吊りという語の意味が、観客の心理状態を宙吊りにし、ネガティブな感情を喚起させるという意味に変じている事実に立ち返らねばならない。本作は時系列を順番通りにすることにより、禁忌の侵犯という主題に伴う先の見えない不安を漂わせている。それにより本作は、事の顛末が始めから読者に提示されている原作の安定感とは異なる浮遊感が生じているのだ。それは正に観客の心を宙吊りにするサスペンス映画の本質であろう。その特徴をいくつか取り上げたいと思う。
■コミュニケーションの不和■
まず序盤から中盤にかけて、つまりは花の幼少時(山田望叶)から高校時代までの変遷を辿るうちに、観客は様々な違和感に襲われることだろう。それは登場人物の発話の欠如、会話のぎこちなさにある。海岸に瓦礫の山とともに流れ着いた際に、泥まみれになった体を動かしながら避難所を彷徨い歩く花からは感情が感じられず、どこか幽霊のような存在感を放っている。だが、彼女は避難所に安置された母親らしき人物の遺体に近づき、その顔を確認すると、あろうことか蹴りを入れる。花という人物がわかりやすい感情表現をするのはこれが最初であるが、これ以外に母親との関係性を示す情報は一切与えられない。判然としているのは、花という人物が、肉体と精神の両方の面から、「母親≒他の女性」という存在から離別したという事実のみだ。
この後に花は遠縁を称する腐野淳悟に引き取られることになるが、彼は遠縁どころか彼女の実の父親であるということが後の展開で判明する。この情報から遡及して考えれば、花が母親らしき人物の遺体を蹴ったことは極めて暗示的である。母親、つまりは淳悟の元妻からこうした形で離別するということは、淳悟という花にとっての「男」との間に割って入ろうとする人物を排除しようという彼女のスタンスを、先行して提示していると言える。
また花が淳悟に出会うまでには、彼女の歩く姿が長回しで捉えられた撮影があるため、二人の出会いは開放的な感覚とともに強く印象付けられる。そして二人の出会いにおいては会話がまともに行われず、有無を言わせず一方が他方を抱きかかえて、養子にするこという意志を表明する。淳悟の花に対するコミュニケーションには、会話などで理解が促される論理的な展開よりも、二人の関係性を強調しようという意図が見て取れるのだ。
そしてこれは単に花が年端もいかない子供であり、また淳悟がそもそも論理性のない情欲と近親を求める男であるという人物設定ゆえに生じる不均衡ではない。時が流れ、花の中学生時代になると、潤悟には小町(河井青葉)という恋人ができるが、彼らの三角関係においてもコミュニケーションにおける不和が発生している。この時期には既に腐野親子(≒夫妻)の関係は円熟したものになっているのか、お互いの指を舐めあうという異様な光景が画面に広がる。
こうした倒錯したスキンシップを小町は目にするものの、彼女はそれについて口を挟むことは出来ない。付き合っている筈の淳悟が、養子であるはずの花といかがわしい関係を匂わせていることに彼女は敏感に反応するが、それだけである。それは花との直接の会話においても同じであり、淳悟には合わない女であるとはっきりと言われても、ただただ絶句するのみなのだ。事後の情報で、小町は泣き寝入りをするかのように、東京へ消えたことが伝えられるが、花が序盤から示していた排他性はこのように明示的でない方法でその影響を露わにする。
このような観客に奇妙な浮遊感を与えるコミュニケーションは、映画の全編を巡ってそのぎこちなさを会話のやり取りなどで表出させる。本作においては一方が質問をしても、他方はすぐに返さず、あるいは返せずに、立ち振る舞いで僅かに感情表現をするのみである場合が多いのだ。それは禁忌を禁忌として扱った上で言及を控えてしまう問題意識の宙吊りと言うべきものを、脚本の段階で組み込んでいることに他ならない。そしてこれは後述する「隠蔽」の主題とも密接に繋がるものだ。
■殺人によって喚起される崩壊感覚■
前述したように、本作は多くの時間帯において近親相姦という問題が浮遊し、強く印象付けられるにも関わらず、それを言及するシーンは限られている。これは相対的に、言及するシーンを際立たせる意図も含まれているのだろう。花の中学、高校時代に時間帯が移ると、彼女が同級生とともに登下校するシーンも挿入されるが、同級生同士の横のつながりは極めて薄く描写され、それぞれのクローズ・ショットも存在しない。それゆえに、花と淳悟の背徳的行為を批判する人物は、彼女の同世代ではなく、かといって淳悟の同世代でもなく、より年長の人間に限定される。大塩(藤達也)という老人は、花が幼少の頃より彼女を気にかけ、そして淳悟の暗部を知るがゆえに、養子縁組に懸念を示していたが、後述するシーンがきっかけで、ついに彼は二人を引き離そうと動いてしまう。
淳悟が十日間仕事で家を離れると知った花は、そのことで拗ねた態度を見せる。だが、それをなだめるように、淳悟は慣れた手つきで制服の上から花の体をまさぐり始める。これ以降の情事は、「処女性」といった主題を表すためか、交わる男女の体に血の雨が降り注ぐという、心象風景が展開される。このシークエンス自体は、冗長かつ誇張した表現によってあまり評価できるものではないが、この禁忌の侵犯が明示的に描かれたことによる後の展開が秀逸である。
大塩の追及を回避しようとする花は、やがてオホーツク海を覆う流氷の上に逃げる。花を追って同じように流氷の上に立っている大塩は、彼女に近親相姦の禁忌を破ることの危険を説き、家族という共同体を淳悟と成すことは不可能であると語る。これに対して花は、そんなことは百も承知であると言わんばかりに「あれは私の全部だ!」と叫ぶ。花は「家族」である前に、「異性」である淳悟を求めており、その価値観を認めない大塩を排除しようと動く。大塩は花に突き飛ばされ、流氷とともに極寒のオホーツク海へと消えて行く。
流氷という不安定な地盤は、禁忌を巡ろうとする人間たちの拠って立つところが、いつでも崩壊しかねないことを示す。そして流氷の下には海があるが、花が幼少時に受けた津波という要素によって、観客には海が死のイメージであることが事前に知らされている。本作の白眉とも言える、正にサスペンス=宙吊りを体現したこのシークエンスは、冒頭と呼応し、物語全体のアレゴリーと化しているのだ。
こうした地盤の崩壊感覚は、淳悟が花を連れて東京へ移り住み、新しい生活をしている時間帯にも発生する。家を訪れた田岡(モロ師岡)という男は、淳悟に表面上は優しげな顔をしつつ、その場にいない花がいつ帰ってくるかを執拗に問いただしてくる。田岡は大塩の死の原因が花にあると考え、北海道より現れたのだ。この第二の批判者は、やがて第二の被害者に成り替わる。田岡は淳悟に刺殺されるが、その際のキャメラの動きは注目に値する。二人の男の取っ組み合いが、片方の刺殺へとつながるプロセスにおいては、キャメラは狭い空間に静かに佇みつつ、斜めに傾いていく。この動きは前述の流氷を代理する機能を果たしており、淳悟が花と築いた新しい生活は、禁忌の侵犯を巡る問題によって亀裂が生じて傾き、崩壊していく可能性が示されるのだ。
更に注目すべき点は、淳悟の場合「守るべき場所=拠って立つ地盤」が家庭空間であるということだ。北海道における流氷のシークエンスの場合は、前述の大塩とのやり取りによって、「家族」ではなく「異性」としての淳悟を重要視していることがわかるが、東京における家庭空間のシークエンスではそれが全く逆になっている。家庭空間において崩壊感覚を喚起させる演出があることは、逆説的に淳悟の「守るべき場所=拠って立つ地盤」が、「家庭空間≒家族」にあることを推量できる。
北海道と東京の崩壊感覚を呼び起こすシークエンスは相対化して考える必要がある。なぜなら二人の男女はお互いを守ろうとして起こす殺人によって、「共犯関係≒運命共同体」と関係性を進展させるにも関わらず、そこに決定的なすれ違いを生じさせるからだ。一方は「異性」としての男を求め、他方は情欲という矛盾を孕みつつも「家族」を求めるという歪な関係性を表面上の養子縁組という要素が「隠蔽」する。このように浮かび上がる「隠蔽」という主題は、それが禁忌の侵犯という問題と、それを巡ることの危険性を常に潜ませるサスペンス映画としての枠組みを強固にし、重層化することによって映画全体の脈拍にも影響を及ぼしている。
■不断なモンタージュによる省略、「隠蔽」のサスペンス■
本作の宙吊られるような浮遊感とそれに伴う崩壊感覚の上には、禁忌の侵犯という問題を巡る際に生じる「隠蔽」という主題が存在する。花と淳悟はすれ違いを生じさせつつも歪な共同体で結ばれ、養子縁組という表面によって近親相姦の問題を「隠蔽」しているが、実はこの上に更なる「隠蔽」があり、それは映画全体の脈拍を決定づける要素として機能している。それはモンタージュと、それに伴う間断のない編集である。
第二の殺人の後、花と淳悟が田岡の遺体の処理をどう行い、警察の目を逃れたのかは全く描かれず、モンタージュによって次の時間帯へとすぐに移行してしまう。田岡の遺体処理が省略された理由は明白であり、それは観客に主要人物である二人に感情移入をさせないためだ。
遺体を処理する場面を丹念に描くことが、殺人者に対する感情移入を誘発することは、『サイコ』(監督:アルフレッド・ヒッチコック)などを参照すれば明らかである。観客は映画の前半でマリオン・クレイン(ジャネット・リー)に感情移入するように仕向けられるが、彼女が辿りついたベイツ・モーテルを経営する殺人者ノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)こそが真の主役である。ノーマンがマリオンを殺害した後に遺体を車に積み、沼に沈めていくプロセスが丹念であることで、「遺体処理が上手くいくか?」という緊張感を孕んだサスペンスが生じ、それによって観客は彼に感情移入を果たす。そしてこれは、後々に明かされる彼の殺人者としての秘密に関心を抱かせるため仕掛けなのだ。
『私の男』がこうした観客が殺人者である二人に感情移入させる仕掛けになる遺体処理を拒む理由として考えられるのは、より突き放した視点を望んでいる、ということだ。花と淳悟の共同体は、お互いがお互いを相対化し合うことで、その輪郭をはっきりさせるが、これは観客が彼らを客観視することで初めて可視化する。崩壊感覚を喚起させるサスペンス演出にしても、彼らの内面に視線を寄せず、むしろ外面的な身振りやそれを取り巻く事象の変化によって生じるものだ。それゆえに、本作は観客が近親相姦をする花と淳悟の内面に目を向けず、不断なモンタージュによって関係性を追うことのみを重視するのだ。そしてこの省略を多く含む不断なモンタージュは、時系列の流れ全体に伝播しており、田岡の殺害後、数年が経過した時間帯から、クライマックスの時間帯までにも強い影響を及ぼしている。
ここで派遣社員になった花と職場を共にする美郎という男性に注目しよう。柔和な外見と育ちの良さが表れる振る舞いによって、人畜無害を形にしたようなこの美郎は、腐野という親子(≒夫妻)から溢れる異常性に向き合いつつも言及はしないという点で、小町と類似し、淳悟とはいつからかすれ違いを感じていると花から直接告白を受ける点では、より観客に近い立場と言える。この告白はどのタイミングで発生したかは曖昧なインサート・ショットによる描写だが、少なくとも花と美郎の受け手と聞き手という関係性において、不和は生じていない。これにより、腐野という歪な共同体を客観視できる人物(≒観客)がいる、という構図も出来上がる。
だが、問題は美郎と淳悟の関係性である。飲み会で酔っ払った花を家まで送り届けた美郎は淳悟と対面するが、その際に指を舐めるスキンシップを求められる。これは淳悟が花としていたものと同じだが、淳悟が彼女を情欲によって孤独を埋めることもできる「家族」として捉えていたのならば、この行動は正にその印を刻み付ける儀式のようなものと読むことも可能だろう。そして美郎はわけもわからずこれを拒否するが、それに対し淳悟は「おめぇじゃ無理だよ」と発言する。この発言は、クライマックスの時間帯にも反復される重要なものである。
クライマックスの時間帯においては、淳悟が花とその婚約者である大輔(三浦貴大)と会食する場面が描かれるが、花が何故淳悟のもとを離れたのかは、やはりモンタージュによる省略によって判然としない。ただのシークエンスにおいて注目すべきは、美郎の不在であろう。実は原作では美郎は、大輔が担っている花の婚約者という役どころなのだが、本作において彼はその座から滑り落ちてしまっている。これはなぜか。
美郎がどうなったかは全く示されることはないが、前述の儀式的スキンシップにおいて、淳悟に彼は「家族」として見なされていない。であるならば、モンタージュによる省略がある限り、美郎を花と自分にとって有害であるとした淳悟が、何らかの形で彼を「排除」したという可能性も大いに残されている。淳悟は大輔に対しても「おめぇじゃ無理だよ」と発言するが、これは花を取られた男の僻みと受け取るだけでなく、ある種の犯行予告としても機能するのではないか。
近親相姦という禁忌を抱えた男女の共同体が、養子縁組という「隠蔽」工作をすることにより、観客は問題意識を抱えたまま独特の浮遊感覚を覚え、時に現れる批判者の存在と地盤の不安定さによって崩壊感覚を喚起させられる。そして、モンタージュは遺体処理や、ひいては第三の殺人の可能性すら省略することで「隠蔽」し、共同体における関係性を重視する。
ラスト、腐野親子(≒夫妻)の顔を映したカットバックにおいては、音は掻き消えている。花は淳悟に呼びかけるが、それが「おとうさん」なのか「じゅんご」なのかは判然としない。お互いを「家族」と見なすのか、それとも「異性」と見なすのか、その答えすら本作は「隠蔽」してしまう。ただ確かなのは、どちらに転ぼうと彼らの拠って立つ場所は常に安定を欠くものであり、禁忌を侵犯したことによる問題が付きまとう、という事実を観客の心は突き付けられるということだ。この禁忌を巡るものを「隠蔽」するサスペンスは、映画が幕を閉じても観客の心を宙吊りにし続けるだろう。
杉田卓也
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■