丑丸敬史さんの処女句集『BALSE』は、だいぶ前に金魚屋編集人の石川さんから書評を依頼されていたのだが、書くのが遅くなってしまった。丑丸さんは私には未知の俳人だが生物学の学究らしい。『BALSE』には栞が挟み込まれていて、安井浩司、筑紫磐井、酒卷英一郎、関悦史、九堂夜想氏といった俳句界の諸賢が短文を寄せておられる。このうえ私が何ごとを、とは思うが、読書メモ風に思ったことをまとめてみたい。
『BALSE』には「緒言」「自序」がある。「緒言」には『旧約聖書』から「太初(はじめ)に言葉ありき」が引用されている。また句集には挿画が散りばめられていて、それはデューラーの銅板画『黙示録』である。最初、丑丸さんはキリスト者なのだろうかと思った。しかしどうも違うようだ。少なくとも、もし丑丸さんがキリスト者であったとしてもそれは句集の主題ではない。句集主題は「自序」に置かれた俳句「晩春やいづこながるるわが産湯」にあるだろう。
五月雨やうすまりゆけるわが産湯 「序章」「産湯」
晩春やいづこの水もつながりぬ 同、「野遊び」
陶枕いづこの夢もひえてをり 同、「陶枕」
蚊柱に銀河くすぐるこころざし 同、「蚊柱」
くべるものなければ銀の蝶くべる 同、「蒙古斑」
命終は春の母胎のうすあかり 同、「受胎告知」
菜のはなや厠に御國おきわする 同、「祖国」
句集収録の作品は、「序章」「第壱章」「第弐章」「第參章」「第肆章」「終章」の六部から構成される。引用にあるように、いずれの章も「産湯」、「野遊び」、「陶枕」のような小タイトルに分割されている。これは丑丸さんが、たとえば「産湯」という主題で俳句を連作した痕跡だろう。それぞれの作品は、現在では古典的と言ってよい顔つきをしている。作品の意味内容もある観念的読解へと読者を誘うかのようである。しかし作品には観念として読解できるような深みはないと思う。作品主題は「うすまりゆける」、「つながりぬ」、「ひえてをり」、「こころざし」、「くべるものなければ」、「命終」、「おきわする」という、終焉と希薄化を表現した言葉に表現されているのではなかろうか。
渚で鳴る巻貝有機質は死して 安井浩司『青年経』
なぎさにて巻き戻す巻貝の夢 「第弐章」
菩提寺へ母がほうらば蟇裂けん 安井浩司『赤内楽』
菩提寺へ母をほうらば母咲けん 同
*
はるがすみかすみしみかどかまどうま 「第參章」「はるがすみ」
れもねいどいづこもひゆるゆふらしあ 同、「れもねいど」
しきしまのすきまにつまをしきつめる 同、「しきしま」
*
サキエル
眞田
さきくませ
熊野のざざ蟲 「第肆章」「使徒のさきはふ國」
鶏の國や
一咳
投じ
開闢す 同、「毛の國」
『BALSE』「第弐章」は、丑丸さんが愛好・畏敬する俳人なのだろう、安井浩司さんの俳句の読み換えから構成されている。「第參章」には平仮名表記のみの作品が並んでいる。「第肆章」は高柳重信が創始した多行俳句作品である。また引用はしないが、『BALSE』には加藤郁乎や永田耕衣といった俳人たちの本歌取り作品も収録されている。つまり『BALSE』は書法的にも内容的にも、二十世紀俳句からの強い影響を受けている。
このような句集を、オリジナリティが欠如した作品集、あるいは俳句ファンが実作を始めた際にしばしば陥る試行錯誤を、そのまままとめた作品集だと片付けるのは簡単だろう。しかしそう断定するのは早急だと思う。
簡単に言えば、現在書かれている俳句の大半が多かれ少なかれ〝丑丸さん的〟なのだ。お手本にする俳句作家は異なるにせよ、誰もが誰かの俳句を念頭に置いて作品を作っている。またたいていの場合、現代俳句作家に切迫した主題はない。丑丸さんと同様、かりそめの句題を設定して作品を連作している。要は先行作家の影響をいかに上手に消せるか、作品主題の不在をどれほど上手に隠しおおせるかが現代俳句作家の〝実力〟である。そのような〝技巧派〟の作品にくらべれば、丑丸さんの作品は露骨かつナイーブである。しかし清々しい試みであるのも確かだと思う。
隠國(こもりく)の花野にきゆるわが産湯 「序章」「産湯」
しんがりの水も去りゆく春の暮 同、「野遊び」
うしろへもへちまゆれたる前世かな 同、「陶枕」
涅槃圖のほとけの東はさびしけれ 同、「涅槃」
字餘の蛇ばかりをる大花野 同、「猫舌」
折鶴の啼く音もろともへしをられ 同、「猫舌」
羊水はいまだかへらぬ春のみづ 同、「受胎告知」
菜のはなや厠に御國おきわする 同、「祖國」
擬古文をのこぎりで挽く秋の蝶 「第壹章」「擬古文」
夏雲もじぱんぐも燒け殘りけり 同、「うきぐも」
復活せし主なりせば陰干しに 「終章」「うきぐも」
院宣に醤油をこぼすあきのくれ 同、「王朝」
句集には丑丸さんの実生活を読み取れる作品が一切収録されていない。ある始原に回帰しようとする意志、失われた何事かを回復しようとする指向が執拗に表現されている。それは極めて現代的な光景だろう。この作家は前衛の系譜に属する言語派作家なのである。「緒言」の「太初(はじめ)に言葉ありき」に表現されているように、丑丸さんの興味は「言葉」にあるのだと思う。ただ「自序」で「晩春やいづこながるるわが産湯」と表現された主題は、この句集の上梓によって一定の方向性を得られたのではなかろうか。
端的に言えば、「産湯」=始原と断定できるような言葉や観念など存在しないのである。それは二十世紀俳句史をなぞるかのような『BALSE』の試みによって表現されている。あるのは言葉ばかりである。それを素直、あるいは愚直なまでの真摯さで描くことには意味がある。中心は空虚だということが自ずから明らかになるからである。
『BALSE』を読んでいると、丑丸さんは連作創作した作品を、かなり絞り込んで作品集にまとめた気配がある。しかしそれは必要ないのではあるまいか。余計なことを言えば、上製本のような豪華な作品集はこの詩人には似合わない。素っ気ない装幀で、だがあきれるほどの量の作品を収録した部厚い句集の方が、この詩人の特性がよく顕れると思う。「丑丸さんって、変な俳人だね」と言われるようではまだ不足である。「丑丸さんって〝本当に〟変な俳人だよ」と言われるようになれば、しめたものだと思う。
岡野隆
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