辻原登氏の名前を初めて目にしたのは、芥川賞受賞作を紹介する週刊文春の記事だった。(当時、実家では待合室に置くのにと、医療事務のお姉さんが文春と新潮を欠かさず買っていた。)中国の桃源郷か、面白そうだなあ、と、「村の名前」というタイトルと辻原登の名前がはっきり記憶に残った。芥川賞らしくもあり、らしくもない物語性に惹かれたのだと思うが、実際に読んだのはずいぶん経ってからになってしまった。『村の名前』だけでなく数多くの書籍を、気前よくくださる辻原さんにサインをねだってから読むことがここ十年も続いている。
かといって、もちろん辻原氏をとてもよく存じ上げているというわけでもない。ただ、知っているかのように錯覚しそうなので、論者として少し難しい状態にある。今はたまたま春休みだが、四月にはまた大学で、二コマの授業の合間にお目にかかる。辻原さんはいつも快活で、おられると研究棟フロアに花が咲いたように明るい。
その授業で私が十年来、繰り返し、しつこく述べているのは「テキスト・クリティック」という考え方である。最近では条件反射で、学生の発表に瞬時にダメを出す。つまり、それはテキスト(作品)のみから導き出せることなのか、それとも作家に関する評伝・噂・作家本人のインタビュー、その他もろもろのサブ情報から推測できることなのか、峻別して示せ、ということだ。サブ情報を使うなとは言わないが、テキストを読まず、それ以外のところで作られたイメージから手前勝手に連想して「書いてないこと」を読んでしまうのは、学生にかぎらず人の常だ。それも必死に連想するならまだしも、きれいごとを並べておけば文句は言われないだろう、と甘くみられていると思うと、つい意地悪をしたくなる。「それ、どこに書いてあるの」というのがお決まりの台詞だ。ただ、私は生まれながらの意地悪だけれど、作家が求めていることもまた決して通り一遍に誉められることではない。昔、エッセイで吉行淳之介氏が書いていたが、誉められようとけなされようと「正確に読まれたい」ということに尽きるのだ。
要請される正確さを説明するのには、しばしば犯罪捜査の例を挙げる。現場百回、と警察は目を皿のようにして物証を探す。我々にとって、与えられた物証とはテキストだけだ。作家の意図はすべて物証としてのテキストに反映されているはずで、少なくとも、そのはずであるという信念を持って読まなければ、何も見つかりはしない。文学をなめるな。殺人現場に臨むときと同程度の真剣さを持つべきである。何しろプロの作家というものは、確信犯なのだから。
などと、普段は偉そうにわーわー言っているのだが、しかしこの文章ではそれに反する書き方をしようと思う。錯覚も含め、テキスト外の印象も取り混ぜて記す。何ごとにも例外はあるのだ。そもそも裁判の証拠調べで却下されるのは、いわゆる伝聞情報、誰それがこう言っていた、というものだ。(創作物に関して言えば、それがたとえ作者本人の弁であったとしても、必ずしも信用に値しない。本当に伝えたいことなら作品に含まれているはずだから。)けれどもこの場で私が援用するのは、たとえテキスト外のことであっても、すべて私自身が直接、見聞きしたことだけだ。
さらにこの十年来、読んできた辻原登のテキストをチェックし直し、批評をテキスト・クリティック的に再構成することも、今回はするまいと思う。私はたまたま置かれた状況に応じ、自分にとっても珍妙な方法だが、文庫本の後ろに知人が書くような人物論と、テキストに基づく作品論を突き混ぜつつ、理解できたと思われるすべてを記すしかない。真摯な文学者である辻原氏が嫌うかもしれない、その妙な手法はしかしながら、「辻原登」という作家の〈特異性〉に繋がる可能性がある。
まずは、おとなしくテキストに付こう。やっと読むことになった辻原登『村の名前』には芥川賞受賞作「村の名前」と、その前に発表された「犬かけて」が収められていた。今、この時代に振り返ると、それらは芥川賞作家のデビューにふさわしい緻密で濃いエクリチュールであり、真剣味のあるやや前のめり感、という芥川賞的な前衛性をも踏襲している。そこから辻原登固有の、現在の作品へと繋がるものをピンポイントで見出すとすれば、現実との〈ずれ〉ということになろうか。中国の桃源郷へと足を踏み入れる商社マンも、妻の浮気への疑念に苦しみながら彷徨う男も、現実とそこから〈ずれ〉た別世界との境界にいる。
しかし結局、文学とはそういうものではないか、という声が聞こえてくる。現実を踏まえ、描きながら言語によって別の世界を構築する。テーマはそれぞれであったとしても、出来上がった小説世界は所詮、例外なくそういうものである。だがそれは「結果として」ということだ。辻原登の〈ずれ〉は創作の結果として現れたものではなく、むしろ最初から目的とされていたように感じる。では、その〈ずれ〉は何のためのものか。
【辻原登氏についての証言。誤解を恐れず、むしろ誤解をまねくように言えば、辻原さんはきわめて常識的な人です。あまりにも常識的で、普通の常識人を自認する人々には理解できないぐらい。とんでもなく自由な発想をする人だから、気をつけるように、と注意を受けたことすらあります。何に気をつけるのかと思ったけれど、まったく役に立たない忠告でもありませんでした。つまり、人は「常識」と認識しながら、いかにありきたりな現状に囚われているだけか。そのこと自体、本当はたいへん非常識だし、そこにはたいてい勝手な都合が働いていることが多い。辻原さんは別にそんなことを指摘はされませんが、そんなふうに思わせる瞬間がある、ということ。それは結果としてこの上なく〈教育的〉でもあります。】
「犬かけて」と「村の名前」に先駆けて、失われたデビュー作というべきものがある。「ミチオ・カンタービレ」というタイトルだったというその原稿は、今は読むことができない。19歳のときに文藝賞の佳作に選ばれたその作品が、なぜか陽の目を見なかった経緯については、辻原登本人が文学金魚のインタビューで述べている。マルグリット・デュラスの『モデラート・カンタービレ』の焼き直しのような作品であったというそれから、推測ではあるが、生来の〈ずれ〉にまつわる手がかりが得られよう。
【辻原登氏についての証言。これは私事で、なおかつ僭越な物言いで恐縮ですが、デビューに関わってマルグリット・デュラスの名が出てくることに、何かしら個人的なご縁を感じます。私が二十代の頃、朝吹亮二・松浦寿輝の選で「ユリイカの新人」となった詩作品群はデュラスのエクリチュールを下敷きにしたものでした。小説作品を初めて書こうとしたときも、参考にしたのはデュラスの若い愛人、ヤン・アンドレアのテキストにおける会話体の処理だったと記憶しています。】
詩人にかぎらず、人が小説を書こうとするとき、どうしても筆が引っかかる「小説っぽい制度」というものがある。「私は、『侯爵夫人は五時に家を出た』とは書けない」(ヴァレリー/ブルトンによる)といったことでもあり、会話体の「 。」という形式を馬鹿らしく感じるといったことでもある。それを乗り越えるのは、大勢で跳んでいる縄跳びの縄に入るようなものだ。思い切りがいるが、入ってしまえばどうということはない。その背中を押し、うまく縄の隙間に滑り込ませるのはリズムである。自身の経験からも、「デュラス節」と呼ばれるマルグリット・デュラスの音楽的なエクリチュールは、書くことの初心者に、入り込むべき構造とリズムの両方を与えてくれることを知っている。デュラス作品とは、その意味でもきわめて〈母性的〉なものである。(辻原登にとっての母性、あるいは女性的なるものとは、ようは「包み込んでくれるもの」である。「犬かけて」に示されるような屈折とは、「そうあるべき立場の女がそうでなければ困る」ということだ。もちろん男というのは大方そうなので、この単純さは、後に詳述する「父」との関係性とは対照的である。)
そしてその「入り込むべき構造」が最も明確に示されるデュラスの小説が、まさしく19歳の辻原登が選んだ『モデラート・カンタービレ』である。「普通の速さで、歌うように」という音楽用語をタイトルとするこの作品は、情熱と狂気をテーマとしながらも古典的な美しい形式を持ち、後年の『愛人』と並ぶデュラスの最高傑作である。またその『愛人』も「写真に裏打ちされたドキュメンタリー的な事実」という明確なバックグラウンドを持つ。つまり、デュラス節の自在な美しいエクリチュールを支えるものは、しっかりとした骨組み、形式、背景なのである。このことはすなわち辻原登作品の読解にも繋がってゆく。
辻原登の失われたデビュー作が、別の作品の〈再話〉であったことは意味がある。構造を作り上げることをもってオリジナリティと呼ぶなら、それはオリジナリティの欠落ということになる。文藝賞の選考で吉行淳之介氏と小島信夫氏が強く推したにもかかわらず、江藤淳氏がどうしても掲載に反対したというのは、そういう立場からだったかもしれないし、あるいは江藤氏が結局はいつも信奉するところの私小説的な〈真実〉を欠落させている、と考えたからかもしれない。(もちろん慶応卒でなかったからかもしれない。)しかしオリジナリティというものも一つの神話であり、構造の構築もまたいずれ別の構造物のコピーである。その構造の中心に、プライベートな真実=事実らしきものが見え隠れしたときのみ、私たちはそのテキスト構造を作家の仮想的な人格構造と重ね合わせることができるのであり、それをもって作家を「理解し得た」と感じるのである。そしてそのように感じさせることは、純文学的な読者サービスの一環であり、読者はそのサービスへの返礼として、作家の「オリジナリティを認める」。
【氏についての証言】を待たずとも、辻原登は直観力にすぐれた作家である。そんな作家―読者間の取引きについてはとうの昔から、もしかすると19歳の頃から気がついているはずだ。だからこそ、そこへまんまと荷担しようとしない。ぎりぎりのところでそれは回避され、読者はカタルシスの代わりに肩すかしを得たように感じる。一作や二作なら、気まぐれなアマノジャクとも取れるし、構造的な失敗とも取れる。が、エンタテイメント的な要請にも、純文学的な前傾姿勢にも応えつつ、最後のところは常に、決して判をつこうとしないのは、それを一種の〈悪魔の取引き〉として見切っているからではないか。通りのよい〈思想〉に魂を売ろうとしない頑固さは、それ自体が〈思想〉ではないにせよ、まぎれもない〈信念〉である。(辻原登は終戦の年の生まれだが、こういう文学者なら、きっと戦中でもうまく逃げ切っただろう。)
さて「文学はこのようなものでなくてはならない」という各々の(江藤淳氏的な)〈思想〉は美しいものではあるが、果たしてこのような頑固さ、〈信念〉よりも強いものなのか。その問いは、自称オリジナリティを誇示する近現代文学が、果たして再話という行為よりも重要なものか、という問いと軌を一にする。
【辻原登氏についての証言。辻原さんは教育者の役割を肩肘張らず、ごく自然に果たせる方です。お父様の薫陶かもしれません。最近まで、辻原さんから教えていただいたと思っていたことが3つほどあります。本当は、もっとずっと大事なことを本文の結論には示したいと思いますが、とりあえず。
「①敵と味方は峻別せよ」。何かの会話の折りに、そうおっしゃいました。けれども辻原さんご自身は、それほど頭が固くはなさそうにお見受けします。むしろ私のタイプを見て取って、それに合わせておっしゃったのかもしれません。
「②人はプロポーションだけは保たなくてはならない」。座右の銘としております。『発熱』の一節ですが、単にルックスを保持せよという意味ではなく、「人は変わってはならない」という意味だと考えます。歳月とともに緩やかに変化してゆくのは当然ですが、生活や状況の影響を受け、それに浸食されることは敗北です。決して変わらない資質があるなら、紛れようもないはず。偉くなって権威的になることだって、結局のところ精神的な肥満ではないでしょうか。もっとも辻原さんは「そんなこと書いたっけ。よく言うよね」などとおっしゃっていましたが、何しろご自身がちっとも変わりません。ほかに新聞連載で読んでいた『韃靼の馬』で、登場人物が「いつも快活」とあった一文に、「あ、辻原さんだ」と思いました。本当に軽いフットワークで、いつも快活です。どんなことがあっても快活でいなくてはならない、と固く決めておられるかのようです。精神と肉体のプロポーションを保つのは、そういう意地なのだ、と私も自らに言い聞かせます。
「③本質を見極めようとするなど、あさましい」。これも『発熱』から。がーんときました。詩人、小説家といった創作者というものは、例外なく本質論者だと思っていました。そもそも文学が学問足るには、そうでなくてはならないだろう、と。それは今でも、一般的にはそうだと思っています。結局、作家・辻原登をある種、特異な書き手とし、普通のアプローチで批評することを難しくしているのは、こういったところではないか。辻原さんご自身は例によって、「そんなこと書いたっけ」とおっしゃるのでしょうが。つまり、これもまた本質というわけではないと。】
「本質」信奉に疑義を呈するがごとき辻原文学だが、しかし『東京大学で世界文学を学ぶ』の最後、第十講義はパスティーシュ(模倣)について述べられ、それを全講義の「エッセンス」であると、自ら語っている。「本質」はないが、「エッセンス」はあり得る。「本質」を無化するような手法が、まさにそれである、ということになる。(続く)
小原眞紀子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■