稀代の噺家・三遊亭円朝の不伝の芝居噺を、現代の作家・辻原登が新発見する。本作はこの出来事に端を発して作家の手で再現された幻の作「夫婦幽霊」と、その顛末をまとめたルポルタージュであり、研究論文であり、探偵小説である。作家は、探偵、研究者、翻訳者の三役を務め上げる。突然に、文芸史上の発見、事件と言ってもいい出来事の当事者となった作家の口ぶりは、その第一行から無理に興奮を抑えたような調子で、まずは三遊亭円朝への想いが事件の詳細に先駆けて奔り出て、その次には円朝の口演を写し取り後世に伝える大役を果たした速記についての詳述が続く。これは作家の、現行の知的興奮を捉えた技術である。
小説の善し悪しは書き出しが何を伝えられるかによると思う。流麗の文章であっても、どことなくだらだらした、見切り発車な調子がイの一番に伝わってきて、興味をそがれて、疎遠になっていくということがある。小説世界の面白さを覗くまえに作家の顔つきがちらついたような感じだ。だからこそ、作家の興奮が流れ込んでくるような書き出しは否が応でも読者の期待を煽り立てる。しかも、このような作家の実在感、語り手の温度は、本作の肝でもある。語り手の温度を帯びて、文字が声になる。
「夫婦幽霊」は辻原の知己の大学教員の遺品の中から、速記符号原稿の束として発見された。作家はそれが三遊亭円朝の噺の原稿ではないかと直感する。しかし速記符号はそのままでも読むことも聞くこともできない。ましてや明治中葉に田鎖綱紀が発明した田鎖式によるものとなると、現代の速記術にもほとんど伝わっていないという。困り果てたところに、田鎖鋼紀の弟子筋に、改変を経ているものの田鎖式を伝承する人物が見つかる。直感は当たった。速記符号原稿の題字は円朝の口演「夫婦幽霊」だった。
速記者は若林玵蔵・酒井昇造。両名が円朝の「怪談牡丹灯籠」を嚆矢に数々の落語の速記本を手がけたのは、資料に基づく事実だ。円朝の口演を、楽屋に控えた両名が速記記号に写し取っていく。円朝の声を別の言語体系に変換するものだから、辻原はそれを翻訳と呼ぶ。速記記号はさらに円朝の言葉、明治期の東京言葉に逆翻訳されて作品となる。ところが、明治期に出版された「牡丹灯籠」ならば逆翻訳者は円朝の口演を記憶に辿ることも可能だが、本作の逆翻訳者辻原にはそれができない。円朝の肉声は現代に残されていない。現代の作家は痕跡を頼りに円朝の声を再現しなくてはならない。その仕事に当たって、「ふいに円朝の声が聞こえたような気がすることもあった(p.28)」という。
本作は二つの物語に貫かれている。一つは「夫婦幽霊」本文、もう一つは「夫婦幽霊」本文再生の物語。作品の大部分は「夫婦幽霊」に割かれているが、その間にももう一つの物語は進行している。読者はそれを「夫婦幽霊」に付された註を通して窺い知る。「夫婦幽霊」の進行は、翻訳の進行と同期している。翻訳作業に現れた異変も「夫婦幽霊」の進行中に語られることになる。辻原は語る、符号原稿の中に幽霊がいる、と。明治31年に口演され速記された「夫婦幽霊」の原稿中に、明治32年以降に発明された速記方式が採用されているという。この事実が記されているのは註の中である。本文は恙なく進行し、円朝の声は途切れることなく語り続ける。語り続けるように再現される。口演があったのかどうか、つまり速記に変換された円朝の声があったのかどうか、疑義が呈される最中にも。
口演なくして、はじめに速記宇符号ありき、となるなら、これはもう狂人のなせる業としか思えない。(p.140)
文中に時折、「狂人」という言葉が差し挟まれる。近代小説の根幹として、ドン・キホーテへの言及も一ヶ所ある。「夫婦幽霊」にも狐憑きが登場する。「狂気」が頭をもたげてくる。円朝は「夫婦幽霊」中に「円朝」を登場させている。
この円朝、私であって私ではありません。(…)明治の御世を、私は知っておりますが、彼はまだ知りません。彼は女を知っておりますが、まだお幸(※円朝の妻)を知りません。(p.134)
登場するのは彼・円朝だけではない。私・円朝もまた。
菊治は行きます。帰路を辿っております。円朝め、追いつかねばなりますまい。(…)ようやっと菊治に追いつきましてございます。菊治のやつ、腕組みなどして、まだ考え込んだようすで(…)(p.39)
語り手は物語世界の登場人物を付け回して謎を解く探偵だ。そして語り手・円朝を、辻原登が追っている。ところで語り手・円朝の明治31年の口演が怪しくなってきた。それでも辻原は円朝を追う。追っているのは何者か。それこそ幽霊ではないか。
「夫婦幽霊」では幽霊が現れるには道具立てがいる。幽霊が出るとの噂話、人気ない暗夜の吾妻橋、橋のたもとの柳の枝葉…。三本揃いの状況で、現実がぐにゃりと幻のほうへと変形するのだろう。「円朝にいかれてしまっている人間(p.20)」の見た幽霊も、あるいはその類いのものか。ドン・キホーテが巨人を確かに「見た」ように、辻原も円朝の幽霊を見た。谷中の全生庵に保存されている丸山応岱作「夫婦幽霊図」を見たときか。熱に浮かされた狂気の幻かもしれない。しかし冒頭に記したように、語り手の熱は読者に伝わり、文字が声になる。無いものをあるといって読者をペテンにかける意図は、もちろんない。
「群像」での連載が単行本化するにあたって、辻原が書き下ろした訳者後記の一章は、速記原稿の幽霊の正体としてある可能性を投げかける。円朝の嫡男であった朝太郎は、放蕩のすえ廃嫡されるに至る不肖の息子であったが、雅味あふれる趣味人であった彼が、円朝の死後、速記を身につけていたらどうだろうか。道具立ては揃っている。朝太郎は親戚筋であった芥川龍之介の生家に出入りしていたことがあり、その近所には田鎖綱紀の弟子が住んでいた。朝太郎は、亡父・円朝の声を、口演の痕跡である速記原稿によって蘇らせようとした。それが朝太郎の親孝行だった。そして関東大震災当日の未明に、紙束を大事そうに抱えて芥川の生家を訪ねる。「夫婦幽霊」の狐憑きさながらに、大災害を予言する。「夫婦幽霊」の作者も狂気の人であった。幽霊を追う者はみな、狂気の人なのだ。
すべては辻原の創作であって、「夫婦幽霊」もその速記原稿も存在しない——それは未決定のまま残されている。しかしそれはもう問題にならない。速記原稿は声の痕跡であり、声の痕跡は速記原稿ばかりではない。「夫婦幽霊図」はたしかにある。円朝の速記原稿も、それをもとに起こした口演原稿も全集に編纂されている。道具立ては揃っている。
本作において辻原登はたしかに作家ではなく訳者である。翻訳は幽霊を捕まえる仕事だ。意味は言語の幻影=ghost=幽霊である。実体としての別言語を用意し、そこにそっくりの幽霊を出現させる。辻原の単独でも、朝太郎との共謀でも、円朝の幽霊を捕まえる企てが、本作に結実している。
星隆弘
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