◎ 「最近、こういう図式で芸術哲学をやってるんだよね。まだ論文にはしてないんだが、講義では試しにちらほら使ってみたり」
▽ 「なんだこれ。アスペクト分析かな?」
◎ 「あすカルチャーセンターで試してみるんだけど、チョイ不安なんだよね。聞いてくれるかな。縦軸は内容、形式ね。芸術学で伝統的になされる区分だけどね。横軸は意味情報、美的情報。これは情報理論でなされる情報の区分ね」
▽ 「意味と美的ってようわからんな」
◎ 「やっぱり? 内容と形式はいつもそこそこわかってもらえるんだけど、横軸がいまいちわかんないって声が多くてさ」
▽ 「どう違うんだよ」
◎ 「これ、言葉で説明すると長くなるんよ。で、講義では面倒だから実例を見せることにしてるんだが。三段論法を材料にしてね。あ、念のため、∴ は〈ゆえに〉だから」
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◎ 「どうかねえ?」
▽ 「まあわかったようなわからんような」
◎ 「さしあたり、翻訳して伝えることができる情報を意味情報、翻訳すると失われる情報を美的情報、くらいに押さえてもらえればいいんだが」
▽ 「ふむ。まあいいや。そこは割り切ろう。情報美学かい、これ」
◎ 「エントロピーとかめんどくさい数値は使わないから心配するなや。まあ定性分析だな」
▽ 「でどうやって使うの。いや、そもそも俺に何してほしいの」
◎ 「こういう図式で始めたはいいが、具体的な応用で悩んでてね。あす、カルチャーセンターで現代小説のハナシしなきゃならないんだよ。自分的にはこの図式で行く予定なんだけど、テーマが決まらなくてな」
▽ 「ふむ? テーマのアドバイスか。しかしまずは俺にわかるように説明しろや。意味内容はメッセージ? ふむ。言ってること自体変えてるね。美的内容がパフォーマンス? これ見ると「同じことでも言い方次第」って部分かな。で、意味形式がデザイン? ふむ、言い方同じだが三段論法を四段論法で。形を変えたと。んで、美的形式がスタイル? ですます調にテンプレを変えたと。まあわかるっちゃわかるけど、怪しげだな。業界で使われてる用語どおりかい」
◎ 「まあ、俺が考えたんだけどさ、この対応はね。ただしカタカナ語の普通の使い方からそう逸脱してないと思うよ」
▽ 「しかしたとえばスタイルって曖昧じゃないかね。たとえばこの四つ、こういう言い方じゃダメ? 意味内容は、そうだな、テーマ。原爆の不当性か原爆の必要性か。美的内容は、テクニック。説得の技術とか。意味形式は、そうだな、パターン。美的形式は、テンプレだからジャンル」
◎ 「お? いいかも。メッセージ=テーマ。パフォーマンス=テクニック。デザイン=パターン。スタイルってのはジャンル。おお、うまくいってるわ」
▽ 「スタイルってもともと曖昧な言葉だよね。『様式』のことでしょ。個人様式ならむしろパフォーマンス=テクニック。制度的様式はジャンルってことだ。ま、単にスタイルって言ったときはおまえのこれでもいいよ、ジャンルと同義語ってことで。細かいことはまあ後で聞くとして、たとえばどういうアスペクトを表わしてるっての、四つそれぞれ」
◎ 「芸術の代表は伝統的に絵画だから、まず絵で言えば、メッセージは題材だよね。どういう風景かとかどういう宗教的エピソードかとか。何が描かれてるかっていう。デザインは構図だな。マクロな構図。形だよね。でパフォーマンスがその肉付けの仕方だね。ミクロな組織作りだ。筆遣いとか色とかね。巨視的構造作りがデザインで微視的組織作りがパフォーマンス、ッて感じね。デザインは意識的に、パフォーマンスは無意識にやられる傾向があるかな。で、スタイルは、油彩画か水彩画か、水墨画かドローイングか、っていうまあ、画材で決定される、そう、ジャンルのことだよ。ジャンルってわかりやすいね。なんかおまえの用語の方がわかりやすいな。使わせてもらうか」
▽ 「音楽だとどうなるだろう。音楽ってメッセージあんのか?」
◎ 「歌詞のある歌とかオペラなんかははっきりしてるだろ。器楽曲とか室内楽とかの場合は、全体の雰囲気というか、まあ端的にはタイトルかな。題名がメッセージを示すってことになってるんだろうな」
▽ 「タイトルか。それじゃデザインはメロディだな」
◎ 「そのとおり。パフォーマンスは……」
▽ 「まんま演奏って意味だよな。作曲家がデザイナーで、演奏家がパフォーマーってわけだ。絵と違って音楽は分業が普通ってことだね」
◎ 「そう。それでスタイルは……」
▽ 「待った。これも言わせてくれ。……楽器だろ。さっきスタイルは画材って言ってたからな。音楽のスタイルはピアノ曲かバイオリン曲か、オーケストラ曲かってジャンルのことだよね」
◎ 「おう。またしてもおまえの用語の方が勝ってるね」
▽ 「さて、それで明日のレクチャーは小説なんだろ。どうなの、小説もこの図式でアスペクトに分けられるの。まあ分けられそうではあるが……」
◎ 「メッセージは、まあ、これもタイトルに採用されるような、作者の意図のことだな。狙いってやつね。デザインは……」
▽ 「ああこれはわかりやすい。ストーリーだよな。構図、メロディと対応するものといえば、文学ではストーリーしかない」
◎ 「その通り。さて、パフォーマンスだが、文学ではこれが『文体』だというのが俺的分析の前提なんだが……、どうかな?」
▽ 「うむ。まあそれしかないだろうな。朗読って形でパフォーマーの取り分があった時代とは違うし。画家と同じく作家自身がパフォーマーでもあるって解釈が妥当だろう。同じストーリーでも書き方つまり文体によって色合いが変わってくるわな。演奏の仕方だよね。しかし文学ではふつう、文体のことをスタイルって言うだろ」
◎ 「うん、そうだな、スタイルはさっきおまえが言ったように『様式』が定訳だけど、個人様式、社会様式、時代様式っていろいろあるんだよね。ここではパフォーマンスは個人様式、スタイルは社会様式や時代様式なんかの制度的様式のことだと思ってくれ」
▽ 「制度だったらやっぱ俺の『ジャンル』って言い方の方がわかりやすそうじゃん」
◎ 「そうだな。採り入れさせてもらうかも。とくに文学だと、メッセージもストーリーも文体も決まってあと何が独立変数として残るかというと、やっぱジャンルとしての規定され方なんだよね。純文学か大衆文学か、フィクションかノンフィクションか、コメディかホラーか、みたいなね」
▽ 「小説か散文詩か評論か、みたいな大きな分類もここに入ってきそうかな」
◎ 「入ってくるね。分類の規模は自由だから。スタイルの規定のされ方によって、まあそは作家が自己申告することもあれば、掲載誌や広告によって自ずと決まる場合もあるわけだが。とにかくまったく同じものが書かれても、どのスタイルのもとにカテゴライズされるかによって、解釈も評価も全然違ってくることがあるわけだ」
▽ 「デュシャンの便器なんか、彫刻と分類されるのかコンセプチュアルアートと分類されるのかによって大違いだもんな」
◎ 「そういうこと。この表現はミステリーにしては洗練されてるが純文学としては陳腐、とか」
▽ 「うん、だいたいわかった。そこそこ要領よく芸術の各ジャンルを分析できる装置だと思うよ、このチャート」
◎ 「ほら、そこよ。ジャンルって言葉よ。ジャンルってのは、絵画とか彫刻とか音楽とか文学とか演劇とか映画とか、そういうとこで使いたいわけ。思い出したよ、俺も最初ここの〈美的形式〉を『ジャンル』ってラベル貼ったんだけど、そこを考えて『スタイル』に変えたんだわ」
▽ 「ジャンルごとにこの図を描きたいからか。区分としては別の言葉使っとこうと。まあそれは考案者の自由として、それでカルチャーセンター用には? 具体的に誰を論じるかくらいは決めたのか?」
◎ 「それが決まんなくてさあ。絵画と音楽は今まで結構うまくできたわけだ。小説がどうもねえ。作家は誰をもってくれば有意義な分析ができるのか、悩んじまって」
▽ 「小説は概念芸術だからな。人や作品の選択によって議論の微差が大差になりうるんで難しいよな。……そもそも、美術は視覚、音楽は聴覚っていう「感覚性」が芸術の本質を占めるはずなんだが、文学はダイレクトに概念ちうものにアピールしてくるわけだからねえ」
◎ 「物質性が希薄なのね。そのせいで小説はメディアの比重が圧倒的に小さいからな。ま、日本の現代小説から一人選ぼうってことだけは決めてあるんだけど」
▽ 「現存の代表的小説家、って線で考えてくと、自然と決まるんじゃね?」
◎ 「そのへんデータがなくて。だから相談してるわけで」
▽ 「名前がでかくても現実に活躍中の人でなきゃダメだな」
◎ 「まあそのつもりだ」
▽ 「作品の発表頻度、芸術性、作風の広さ、制度的認知度たとえば受賞歴や選考委員歴、大新聞連載歴、なんかをインプットしておまえの好きなチャート化で数値出してみりゃいいんじゃないか」
◎ 「それで判定するとざっくり、誰あたり? 俺最近は前衛音楽専門だから……」
▽ 「今いくつか名前浮かんだけどね。このチャートでやりたいんだろ。そうだな、今言った条件に当てはまって、この四区分で分析して面白そうなことが言えそうな作家がいいって趣旨だよね」
◎ 「見繕ってくれ。ほんと明日に迫ってるんだよ」
▽ 「……辻原登かな」
◎ 「え? ああ、そう? なんかホッとした」
▽ 「ホッとしたの?」
◎ 「うん。俺が読んだことある数少ない純文学作家の一人なんで」
▽ 「そりゃよかったな。で、どうやって分析するかね」
◎「いや、まあ、どうやっても、この図式で小説や作家を分析するのはどうせ世界初だから、何言ってもいいんだけどさ。学会発表じゃなくて町のカルチャーセンターだし。しかしいかんせん俺小説は……」
▽ 「中身も俺にいっしょに考えろっての?」
◎ 「なんか言えそう?」
▽ 「そういえば最近、ウェブ見たな……、辻原登がインタビューみたいの受けてて、作家志望者へのアドバイスだったか何だったか『書く前に、いいテーマを見つけなさい』的なこと言ってたな」
◎ 「テーマか……」
▽ 「そう。テーマって言ってたよ。テーマ、この図式だとメッセージに相当する一画から創作は始まる、って考えてるようだな」
◎ 「なるほど。しかしテーマって言っても、俺が読んだ範囲から推測すると、なにかこう、辻原登の言うテーマって普通の意味のテーマじゃないよな、たぶん。コンテンツとしてのテーマじゃないでしょ。メディアとしてのテーマだと思うんだな」
▽ 「書かれる思想内容じゃないってか。そうかもしれんね。辻原の作風は、まああれだな、偽史、再話、パスティーシュ、メタフィクションとそのへん中心だから、コンテンツよりメディアを志向してるっぽいかもね。つまり創作の基本たるテーマってのは、辻原の中じゃ、『どうやって創作するか』的な自己テーマセッティングなところが大きいだろう。創作の内容じゃなくて、方法、狙い、意図、自覚、立ち位置のコントロール、そんなあたりかな」
◎ 「メディア志向か。だとすると、それをあたかもコンテンツ本位っぽい『物語性』重視の作法で書いてるからまたややこしいわけで」
▽ 「そのとおりだな。物語作りなら絶対の自信がある、とどこかで言ってた気がするけど、たしかに辻原のは、人物の心理じゃなくて行動でサクサク進んでくストーリーテリングの印象が強いな、どの作品も」
◎ 「しかし辻原の『物語』って、あくまでストーリーなんだから、内容より形式なわけよ。意味形式としてのデザイン性というか。つまり特定の創作意図や創作姿勢、『これでどうだ』ってメッセージを、あくまで物語本位って形へデザインするわけだ。……ふむ、見えてきたぞ。辻原登におけるメッセージとデザインの関係、潔い感じで理解できそうだわ」
▽ 「初期設定で適切なメッセージを備えていれば、うまいデザインに結実しそうだよ、ってところだな、あのアドバイスも」
◎ 「しかしデザインはいずれにせよパフォーマンスしなきゃ具体化しない。文体で表現しなきゃならんわけだ。ここ、辻原登の文体ってどうだろう。俺、あんま現代小説読んでないんで、辻原文体を他の作家と比べるとかできないんだけど」
▽ 「俺は辻原作品ほとんど読んでるけど、文体ねえ、辻原文体ってのは概して古風な物語作法を確信犯的に守った文体というかな。女性キャラクターの発話が、現実にはありえない女性言葉で律儀に語られたり」
◎ 「ああ、たしかに。最近読んだ『父、断章』って短編集の中のどこかでも、『妻』がきっちり『まあ』と驚いていて俺驚いたよ」
▽ 「規範どおりすぎると驚くよね」
◎ 「物語の規範どおりだといいことあるのかな」
▽ 「そりゃ効果的だからな、物語を中核にすべしってコンセプト貫くなら、文体は無難すぎるほどに慣習をなぞっとく方が。へたな言語遊戯などにかまけ始めると、物語という勝負所がぼやけてしまうだろうよ」
◎ 「ふむ。メッセージとデザインの強調が、パフォーマンスの抑制によって確保される、ッて技法――メタ技法だろうかね」
▽ 「メタ技法……。文章テクニックの抑制というテクニック。つまりそれこそがパフォーマンスの一種……か。お、いけるんじゃない? パフォーマンスで無駄に目立たぬように、ってメタ・パフォーマンスがなされているわけだな!」
◎ 「一つ繋がったな! で実際、どうなの、作者の名を伏せて1頁読んで、あ、これ辻原登、ッてわかる文体なの、どうなの」
▽ 「いや、わからんだろう。俺はわからない。辻原文体ははっきり淡泊系で、文体でアクを醸す作家じゃないことは確かだ。よほどの文学通じゃないと『あ、辻原』とはならないだろう」
◎ 「スティーブ・ライヒ系じゃなくてテリー・ライリー系ってことだな」
▽ 「え? ミニマルミュージックって俺にゃみんないっしょに聞こえるんで」
◎ 「じゃニューエイジミュージックで言えば、スティーブ・ローチ系じゃなくてマイケル・スターンズ系ってことかな」
▽ 「よけいわからんっつの。わからんながらこれで出来てきたじゃないか、現代日本を代表する作家について摘出できたじゃないか、〈メッセージ・デザインの前衛化のためにパフォーマンスを後衛に回す、疑似逆説的メタパフォーマンス技法〉って構図が」
◎ 「メタパフォーマーとしてのアンチパフォーマー」
▽ 「なるほど。それを言うなら、メタパフォーマーとしてのメッセンジャー、メタパフォーマーとしてのデザイナー、そしてメタパフォーマーとしてのスタイリスト、とも言える」
◎ 「スタイルについてもか?」
▽ 「いや、実にこのスタイルこそ、辻原文学でいちばん肥大した器官かもしれないぞ」
◎ 「そうなのか?」
▽ 「個人様式を抑制すれば、必然的に制度的様式への依存度は高まるだろ?」
◎ 「そういう一般論じゃ弱いでしょ……」
▽ 「ていうか、さっきも言ったように再話とかパスティーシュが辻原作品の主要技法だからさ。まさに文学の歴史や制度を利用した創作法ってことになる。メタフィクションにしてもフィクションの約束事に依存する方法だしな」
◎ 「ふむ。つまりこういうことか、辻原文学を定義するとすれば、〈メッセージ・デザインの前衛化のためにパフォーマンスを後衛に回すというメタレベルのパフォーマンス技法で生み出された、スタイル定位の小説群〉と」
▽ 「そんなところだ。俺が読んだ限りの辻原作品にはそれが当てはまるな」
◎ 「辻原のポジションを考えるとこれ、現代日本文学の典型的属性って可能性もあるしね」
▽ 「それはどうかな。少なくとも辻原に限って言えば、そういう潜在的な論理が確立しているからこそ、おまえが読んだというあの短編集でも、いくらでも不定形の展開やら放り出し気味のエンディングやらが通用することになる」
◎ 「『チパシリ』の終わり方なんて唐突だし、『天気』なんて筋がつらつら逸れていく感じだし、表題作の末尾の文なんぞもことさらに説明を省いた的な露骨なわからなさがあるわけで」
▽ 「あの短編集の中で俺がいちばん好きなのは『午後四時までのアンナ』だが、『きのうはちょびっとしか拝めんかったけど、きょうのはようみられる』ってオチっぽいセリフ、発声源には名前も顔もないんだよね。そういう疑似手法というか…‥」
◎ 「あの声は別に、普通に考えても効果的な手法じゃないの? 疑似ナンセンスな。とにかく辻原流メタパフォーマンスの充満があってこそのあれこれなわけか。普通だったらオチにならないオチでも、普通のオチ以上の余韻で締めくくる機能を発揮できちゃうみたいな。……なるほどな、メタ手法的空気が細部のことごとくを反響させる仕様ときちゃ、次から次へとコンスタントに書き続けても安心ってのがよくわかるな。多作なわけだ」
▽ 「ところで、この図式の四つの象限に、文学のジャンルを当てはめるとどうなるかな? それぞれのアスペクトに特化したジャンルは何か、ッてことだが」
◎ 「小説がデザイン本位の芸術であることは間違いないよね。小説の本質は物語だから」
▽ 「同感。で、物語・ストーリーに対峙するのはミクロなコトバか。コトバで勝負するのは詩だよな。個人様式で勝負するのが自由詩、制度的様式に依拠する醍醐味を尽くすのが和歌俳句みたいな定型詩だとすると、ふむ、パフォーマンス本位は自由詩、スタイル本位は定型詩ってことになるね」
◎ 「辻原登は小説的な小説家であり、定型詩的な小説家であり、非-自由詩的な小説家ってことになる?」
▽ 「それ間違いなさそうだな。で、メッセージはどうだろう。メッセージ本位の文学ジャンルというと?」
◎ 「メッセージは真偽の言える命題だよな。言語表現全般に広げれば、科学論文みたいなものがメッセージ本位制作の典型になるんだが、文学に限定するとなると……」
▽ 「まあ評論、ってことになるのかな」
◎ 「ルポとかエッセイ、ノンフィクション、ドキュメンタリーなんかも一応メッセージ本位だろう。エッセイでウソを書かれちゃ困るしな」
▽ 「すると、『それ』的小説家ってことでもあるわけだ、辻原は」
◎ 「四つの角のうち一角の縮小によって小説の戦闘能力を最大化。そういうアンチパフォーマンス的なメタパフォーマンス系、の作家が辻原登ってことだね」
▽ 「パフォーマンスへのアンビバレンツだね。言語フェチへの禁欲衝動こそが詩ならぬ小説創作の原動力だってのはほとんど自然法則だから」
◎ 「やっぱその傾向は現代日本文学の本流の傾向そのままなのかね……?」
▽ 「小説と詩の暗黙の分業みたいな風土は、少なくとも小説側にはあるような気がするね。詩の方も意識してたとえばデザイン性を抑えたりしてるのかどうか知らんが、小説側にははっきり戦略的禁欲衝動が働いてるんじゃないかと。もちろん成文化されてなんかいないけどね。小説的経済の論理からすれば、パフォーマンスは元来自由詩の領分なわけだよ」
◎ 「辻原登はそれを最もわかっている非-詩的小説家というか、逆に詩の固有価値尊重主義者というか」
▽ 「詩人の領分を侵すまいとする戦略的純粋主義者……? 谷川俊太郎の詩を見て詩作を諦めたとかいう大江健三郎的な? ちょっと違うか」
◎ 「だいぶ違うような。ま、詩と張り合うと映画を気取るよりシンドイことになりかねないって話かな、小説は。さてと、出来たかな。辻原登論、この会話全部、明日のレクチャーに使おっと」
▽ 「これ全部かよ? 注文は小説論だろ。分量的に辻原登論になってるのは半分以下だが? 前フリの芸術ジャンル・アスペクト論でたぶん6割以上いってるけど?」
◎ 「いいのいいの。全体のパフォーマンスに比べてテーマ的メッセージ&デザインが縮退してるってこれ、辻原文学の正反対というか、まさにネガポジ関係になりおおせたわけで」
▽ 「ネガポジねえ。内容と形式が対象と反対ならつまりこう、補完しあって良き評論になるとでも?」
◎ 「評論じゃなくてカルチャーセンターなんで」
▽ 「それにしちゃ学問を衒いすぎてなかったか、前半とか」
◎ 「小説が詩を気取るのと違って、カルチャーが学問を装うぶんには損しないんだよ」
▽ 「ふーん。ま、学はともかく論として、アンチ辻原的な実験で辻原を論じてみたよ、って言えそうではあるな」
◎ 「そう言っとく。それってコンセプトの部分だから、コンセプト即ちテーマ。つまり究極にはテーマ定位の、きわめて辻原登的な試論に仕上がったってわけだ」
▽ 「あ、結局モロ辻原的なわけね、アンチ辻原的であるにとどまらず」
◎ 「うん」
▽ 「微妙に出来すぎだな……。なんか、俺が辻原登にしろって言ったわりにはおまえ、始めッから論じる作家決めてたっぽくね? 俺っちにただ言わせてね?」
◎ 「ん? いや、それはない。おまえにゃ感謝してるって。単純に、現代日本の小説、改めて芸術学的に論じるとしたらその名前が真っ先に出る確率が高かった、ってだけのことでしょ、お互い」
▽ 「なるほど、かもな」
三浦俊彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■