辻原登は昭和二十年(一九四五年)、終戦の年に和歌山県印南市で生まれた。戦前・戦中の政治・文化状況を強く感受しながら、一から戦後民主主義教育を受けた最初の世代に属する。少年の頃から小説を書いていたが、作家デビューは少し遅い。六十年(八十五年)、四十歳の時に文芸誌「文學界」に発表した『犬かけて』が文壇処女作である。平成二年(九十年)に同じく「文學界」に『村の名前』を発表し、同年の芥川賞を受賞した。
その後の執筆ペースは凄まじい。ここ十年ほどは毎年のように小説単行本を刊行している。小説の題材も多岐に渡る。私小説的な現代小説はもちろん、経済小説、時代小説、一種の怪奇・伝奇小説をも手掛けている。文芸誌に作品を発表するのはもちろん、定期的に新聞に小説を連載している作家でもある。
このような豊富な執筆量と執筆幅を誇る現代作家は少ない。当然、文学界での評価も高い。芥川賞を嚆矢として、読売文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞、大佛次郎賞、毎日芸術賞、芸術選奨、司馬遼太郎賞、伊藤整文学賞、毎日出版文化賞など小説界の名だたる賞を総なめにしている。平成二十四年(二〇一二年)には紫綬褒章も受賞した。
ただ辻原の場合、あえて〝なぜなのか?〟と問うてみるのは意味のあることだと思う。なぜ辻原は途切れることなく書き続けられるのか、なぜ私小説から経済小説、怪奇・伝奇小説、時代小説まで書くことができるのか、なぜ中間小説・大衆小説をも書きながら、一貫して純文学作家として高く評価されているのかということである。
小説需要が高かった昭和四十年代から五十年代には、確かに純文学から出発して中間小説・大衆小説を手掛ける作家がたくさんいた。しかし一九八〇年代後半から小説は保守化し始める。純文学作家は一般読者には理解しにくい純文学性に留まるようになった。より多くの読者が得られる中間小説・大衆小説を試みても、ほとんど成功していない。辻原はそのような敷居を軽々と超えられた数少ない作家の一人である。
またそこには〝純文学とはなにか?〟という問いも内在している。文学的制度問題ではなく理念として考察すれば、純文学は〝文学の中の最も純なる部分〟、つまり〝小説文学を成立させるための核〟のことである。従って中間小説・大衆小説として分類されている作品でも純文学性が認められれば、それは純文学である。では辻原文学の純文学性はどういった質のものなのか。
文学は社会情勢の変化を色濃く受ける芸術ジャンルである。そして二十一世紀初頭の社会情勢は、一九八九年(平成元年)のベルリンの壁崩壊に象徴される東西冷戦の終結、それとほぼ同時に始まったインターネットを基幹インフラとする高度情報化社会の出現によってもたらされた。この静かだが大きな変化とともに文学の世界も変わった。人間の実存的傷の深さを競うような私小説的純文学は衰退し、自由詩の世界では思想表現が力を失った。戦後文学、戦後詩と呼ばれる文学パラダイムが消滅し始めたのである。
辻原はこのような社会変化のまっただ中に現れた。しかし辻原作品に、高橋源一郎や島田雅彦、池澤夏樹、多和田葉子といった、八〇年代にデビューした多くの作家に確認できるような技法的前衛性はない。戦後文学的な、極限状態に置かれた人間心理を探究する主題が認められないのはもちろん、最も現代的とみなされる、人間存在の希薄さを表現するようなポスト・モダン的主題も見当たらないのである。
つまり主題・技法の両面で、辻原文学に人の耳目を惹き付けるような新しさはない。むしろ辻原作品は古典的な顔つきをしている。もう少し正確に言えば、彼の作品は、いつかどこかで出会ったような印象を与える。しかしそこにこそ辻原文学の特徴がある。辻原文学の新しさは、前衛・後衛といった従来の文学的指標では測れない。辻原は従来の文学を否定するのではなく、そっくりそのまま受け入れることで新たな文学を創出しようとしている。
村の名前は、桃源県桃花源村(とうげんけんとうかげんむら)だ。橘の胸は軽くときめいた。中国にそんな名前の村がほんとうにあるとは、いまのいままで知らなかった。
(『村の名前』平成二年[一九九〇年])
『村の名前』で主人公の商社マン橘は、畳卸業者の加藤と中国に安い藺草(いぐさ)を買い付けに行く。しかし中国側との事前協議では商談を詰められず、どこに行くのか、本当に良質の藺草があるのかどうかわからないまま出発してしまう。中国に着いた橘は、自分たちが中国側担当者によって、桃源県桃花源村(とうげんけんとうかげんむら)に連れて行かれたことを知る。桃花源村は、言うまでもなく陶淵明(とうえんめい)の『桃花源之記』(西暦五〇〇年頃成立)で描かれた架空の土地である。しかしそこはユートピアではない。厳しい現実の輪郭をそっくり保持したまま、奇妙な出来事が次々に起こる不思議な場所である。
橘はどこへ行くにも二人の公安警察に監視される。橘につきまとうのは公安だけでない。中国に着いてすぐにみかけた道ばたの西瓜売りが、桃花源村でも西瓜を売っている。橘は張倩(ジャンチェン)という名の女と知り合う。現地の共産党員から迫害されている女である。橘は公安の目を盗んで女と逢い引きする。女と関係を結ぶことで橘は、名前とは裏腹に殺伐とした桃花源村が、ユートピアと呼べるような古い記憶を秘めていることを直観する。「はっと気がついた。そうか、張倩自身が、彼女こそが村そのものなんだ」とある。
しかし女と関係を持ったからといって、橘が桃源郷(ユートピア)に行けるわけではない。女は三千元を旅行者用の兌換紙幣に換金してくれと頼む。西瓜売りは彼女の夫で、それを使って当時はまだイギリス領だった香港に逃げるのだ。女は橘に、逃亡の理由は共産党が古き良き村を破壊してしまったからだと言う。だが現実に即せば、それは身体を与えたことへの代償である。中国人ではない橘は人民元を使えない。要は国外で使える金をタダでくれということだ。女との交渉は、現実の打算的関係とも、不可解で強引な中国当局者との商談で神経をすり減らした橘の幻想ともつかない形で記述される。
土手は思ったほど明るくなかった。もちろん桃の木などどこにもない。月は雲に隠れ、ただ冴えない川明りだけが、土手と川原と水のあかりをぼうっと浮きあがらせた。橘は、柔かな土とはこべやすすきの草を踏み、昨夜の場所にむかって歩いた。靴が露に濡れて重くなる。歩くうち、この土手はこのまま茫漠と奥美濃のあたりまで延びているのではないか、このまま歩いてゆけば、土手下の目深い瓦廂の母の実家にたどり着けるような気がした。・・・・・・すると、ほんとうにみえてきた。そうだ、庭には一本の桃の木があった。花盛りのその木の下に、若く美しい女が赤ん坊を抱いて立ち、彼を待っているのだ。近づき、のぞきこむ。笑っている小さな赤ん坊は橘自身だ。
(『村の名前』)
橘は金を渡すために、女との待ち合わせ場所に行く。その途中で幻想にとらわれる。桃の花のない桃花源村の道が橘の故郷の奥美濃へと続き、実家の庭では桃の木が花盛りである。その下に若くて美しい母親が赤ん坊を抱いて立っている。赤ん坊は橘である。『村の名前』の桃源郷の主題は、母性的なものへとつながっているということだ。ではこれが辻原文学の思想的主題なのだろうか。
私という個人に対して、私が働きかける対象としての自然がつくられるわけです。もともとそこにあるのではなく、私がつくる。その私が働きかける対象として自然がある。これが風景だと思います。(中略)
では、私という個人とは一体何者なのか。どうやらこの私というのは心というものを持っているらしい。つまり内面です。しかし、この内面、心は肉体の中にとらえられている。私があって、対象としての自然がある、あるいは歴史がある。(中略)この関係が一番はっきりするのは、肉体が病んだとき、つまり病気になったときです。このとき初めて我々は自然、あるいは心、そういう問題に気がつく。同時に自然に接近していく、あるいは先鋭化する、敏感になる。
(「我々はみな二葉亭四迷から、その「あひゞき』から出てきた」『東京大学で世界文学を学ぶ』平成二十二年[二〇一〇年]」)
辻原は評論集『東京大学で世界文学を学ぶ』(東京大学での講義録に加筆したもの)で、二十世紀を代表する小説を題材に小説文学を論じている。その範囲は驚くほど広い。「まえがき」に「二十年ほど前、私が四十歳になるかならぬかの頃、もう一度、十九世紀ヨーロッパ小説にどっぷりと浸ることに決めた」とある。つまり『東京大学で世界文学を学ぶ』にまとめられた思考の基盤は、デビュー当時にすでに固まっていたのである。引用は小説の風景描写について論じた箇所である。
辻原が論じているように近代小説の風景描写は、人間がその内面(自我意識)を強く意識せざるを得なくなった社会情勢の変化から生まれた。それまでの文学にも客観的自然描写はあった。しかし自我意識の高まりによって、自然は自己の外にあるものとして客体化された。それどころか「私があって、対象としての自然がある」ようになる。自我意識によって内面化された自然描写が生まれたのである。
『村の名前』は橘を主人公に据えた三人称一視点小説である。しかし実質的には〝私〟を主人公にして〝私の内面〟を描く一人称一視点の私小説となんら変わらない。実際、先の引用箇所でも橘によって外部世界が内面化され、自然描写とないまぜになった形で桃源郷=母性への回帰という主題が明らかにされる。また一人称一視点か三人称一視点かを問わず、人間の内面を描くのが日本の純文学である。あえて言えば、後期芥川龍之介作品を規範とした文芸誌「文學界」=芥川賞が、戦後一貫して純文学の王道とみなしてきたのが私小説である。
デビュー作の『犬かけて』はもちろん、出世作である『村の名前』も純文学の王道と呼べる作品である。作品の主眼は主人公の内面を描くことにある。しかし辻原は、デビュー当時すでに純文学には風景の内面化が必須だと認識していた。もっと言えば「文學界」的純文学の要請を理解していた。つまり辻原は、純文学の枠組みにきっちり合わせたデビュー作を書くことで、必ずしも純文学にはおさまりきらない自らの思想を表現した可能性がある。
阿倍仲麻呂が異国の中で、しかも唐という大帝国の中枢で辣腕(らつわん)を発揮できたのは、(中略)おれは中国人ではない、(中略)これをみきわめたところからくる苦渋とむなしさの自覚と、諦念(ていねん)のたまものである。(中略)
その祖国が、とつぜん藤原真幸を派遣してきた。(中略)
朝衡(注-阿倍仲麻呂の中国名〝ちょうこう〟)は、自らの過去には透徹したまなざしを注ぎ、(中略)真幸の将来を洞察していた。・・・・・・戦争はまだ終わっていない。(中略)真幸は軍隊をひきいて、唐の運命に埋没するのか・・・・・・。
真幸は、むっつりと黙りこみがちになっていた。(中略)
朝衡の引退は、彼にとって大きな衝撃だった。そこへ翔(注-真幸の親友)が海のむこうからやってきて、母の死を伝え、きみは日本のことをどう考えているのか、ときびしく問いかけた。翔が、日本の父と唐の母のあいだに生まれた混血児であるだけに、その問いは重たかった。
鬱々(うつうつ)と考え込んでいる真幸を、朝衡が呼びつけた。
真幸は静かに書斎に入って、一礼した。
(『翔べ麒麟』平成十年[一九九八年])
『翔べ麒麟(とべきりん)』は初の長篇作品であり、辻原が初めて手掛けた時代小説でもある。平成九年(一九九七年)四月から十年(九八年)五月まで、三百八十回に渡って読売新聞朝刊に連載された。八世紀中頃の中国の唐王朝が舞台で、主人公は遣唐使として派遣された藤原真幸(まこう)である。当時唐には楊貴妃を溺愛して王朝を傾かせたことで有名な、玄宗皇帝に仕える阿倍仲麻呂(中国名・朝衡[ちょうこう])がいた。真幸は武人だが仲麻呂の腹心となって、唐王朝の土台を揺るがせた安禄山の乱平定のために活躍する。
それまで辻原は、人間の内面描写を中心とする純文学作品を書いていた。しかし『翔べ麒麟』でガラリと書き方を変えている。主人公は藤原真幸だが、阿倍仲麻呂を始めとする主要登場人物の内面描写を交えながら物語を紡いでいる。端的に言えばこの書き方は大衆小説のものである。長丁場の新聞連載小説のために、あっさりと出来事(事件)に沿って物語を動かす書き方を採用したのである。
辻原は近松門左衛門や井原西鶴の作品について、「ここでは一人一人の人間の内面というのはそれほど重要ではありません。当時の人は内面なんてしゃらくせえ、そんなことにだれも思いをいたしていない。まず行動です。声に出す言葉と、そして、どう動くか。これを中心に物語がつくられていく。それが近代になるとともに、動かない人間、行動しないで物を考える人間、いったん先に物を考えてくからようやく行動に出る、そういう人間たちが登場します」(『東京大学で世界文学を学ぶ』)と書いている。『翔べ麒麟』は行動する人間たちの物語である。簡単に言えば、近代以前の江戸的な書き方が援用されている。
今一度おさらいすれば、人間の内面描写を中心とする文学は近代国家の成立と同時に生まれた。近代産業は人間を労働用の歯車に変え、孤立した都市住人を生み出した。それは人類が初めて体験する大変革であり、人々は大きく変化する社会から様々な傷を受けることになった。それがヨーロッパで自然主義文学を生み出し、日本に移入されて私小説という形で定着した。内面描写が小説文学の基層になったのである。これは現在も変わらない。
ただ歯車としての労働形態や都市の孤独はもやは現代人の常態である。また様々なコミュケーションツールが発達した現代では孤独の質が変わっている。しかし純文学の世界では、いまだに一昔前の私小説的内面描写文学が規範になっており、それはほとんど制度化している。作家が出自や家庭環境によって深い実存的傷を負っているなら、現代でも私小説的方法は有効だろう。だがデビューのために純文学的制度を受け入れた作家が私小説を書き続けるのは難しい。私小説的方法がかりそめのものだからだけではない。たいていの作家はそれ以外の方法を持っていないのである。
デビュー作には揺るぎがたい形で作家の資質が表現されており、それが主題や技法から読み解けるのなら、辻原が私小説的方法を手放すことはあり得ない。人間の内面探究とそれを的確に表現するための技法が作家の思想だからである。しかし辻原は『翔べ麒麟』でほとんどドラマチックな形で小説の書き方を変えた。私小説的方法は辻原の思想ではないということである。むしろその鮮やかな変貌は、辻原があらかじめ複数の小説の書き方を持っていたことを示唆している。では辻原の思想はどこにあるのだろうか。(続く)
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■