トーベ・ヤンソンの『たのしいムーミン一家』を読み、その後にテレビアニメ化されたものを目にした者にとって、それは原作者同様にショックを受けるものだった。彼女が言う通り「ムーミンはカバではない」。そして「スノークのおじょうさん」はスノークのおじょうさんであって、リボンをくっつけたノンノンだかフローレンだかではない。
アニメは人気シリーズとなり、「ムーミン」は日本の子供たちに親しまれて、にもかかわらず原作者は「これは私のムーミンではありません」とクレームをつけ続けた、ということは知られている。それを聞いて感じるのは、文化や民族の差異を乗り越える難しさであったり、芸術家の気難しさであったりとそれぞれかもしれないが、「トーベ・ヤンソンのムーミン」を知っていれば、彼女の言うのはまったく無理もない。
対応した関係者の苦労には同情するが、耳の形をいじろうと、リボンを外そうと、またクレーム内容の矛盾をあげつらったところで、根本的な思想の理解が欠けている以上、救いようがないのだ。こういったことは万事に言える。
たかが子供向けのテレビマンガに、思想の理解もなにもあるものか、ということだったのだろうか。マンガとはすなわち人気のあるキャラクターがいて、それを取り囲む様々な面白い個性があって、子供にもわかる事件が起きて、というものだろう。ちびまる子ちゃんだって、ドラえもんだってそういうものだし、そんなに低次元の代物ってわけじゃない。
結局のところ「ムーミンはカバじゃない」ということに尽きる。これを単なる自虐を含んだジョークと捉えていると、永遠に理解できまい。ムーミンは、トロールという生き物であり、その「種」そのものでもある。ヘムレンさんもニョロニョロも、スノークのおじょうさんも、その種のものとしてどうしようもなく存在しているのである。その「個性」を強調してリボンをくっつけるなど愚の骨頂だ。
人気のスナフキンも、そのあり様を「個性」として評価しようとすると、何事かが歪んでくる。スナフキンとは「魅力ある人物」の喩ではなく、さらに皆に好かれる「人格者」として成長するなどということはない。スナフキンもまた、自らの血がもたらすあり様で、あるがままに存在するだけだ。「トーベ・ヤンソンのムーミン」とはつまり、「個性を尊重し合う仲間の成長物語」といった通俗なものでは絶対にない。
トーベ・ヤンソンが「暴力なし」と言うのは、だから「暴力によって恐れ、対抗し、克己し、成長する」といった思想とは無縁だ、という意味である。原作にある「姿の変わったムーミンがよそ者だと思われて皆にボカスカ殴られる」なんてのは「暴力」とは言わない。「金銭なし」という注文も同様で、原作にいっさいお金が出てこないわけではない。ようは「ムーミン」とは「近代資本主義社会に回収されるために都合よく教育される子供の喩である一匹のカバ」ではなく、「定義不能なままに存在する、トロールという魔物の種」ということだ。
「定義不能なままに存在する」ものに対しては、ちびまる子ちゃんほどにも、ドラえもんほどにも、教訓を求めることなどできないのだ。しかし我々は本当は、そのようにして存在しているのではないのか。ムーミンがまず言葉からではなく、トーベ・ヤンソンの描いた絵から生まれたというのは、そういうことだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■