ドイツ人作家、ミヒャエル・エンデ作のベストセラー・ファンタジー小説である。主人公は小学生のバスチアン少年。母親が亡くなって歯科技工士の父と二人で暮らしている。父は母親が亡くなってからふさぎがちで、バスチアンは自分は父親に愛されていないのではないかと思い悩んでいる。おまけにバスチアンは肥満児でO脚で、学校でいじめられている。彼の唯一の楽しみは本を読むことである。
ある朝、登校途中にいじめっ子に追いかけられて、バスチアンは一軒の古本屋に逃げ込む。意地悪そうな店主はバスチアンを邪険に扱うが、バスチアンはいじめっこが気になり古本屋に居座る。電話がかかってきて店主が店の奥に引っ込む。バスチアンはふと店主がそれまで読んでいた本を見る。『はてしない物語』と書いてある。バスチアンはなぜかその本に引きつけられ万引きしてしまう。遅刻して学校に着くが教室に行く勇気が出ない。バスチアンは学校の物置に忍び込み『はてしない物語』を読み始める。
『はてしない物語』はファンタージェン国の物語だった。ファンタージェン国ではすべてを飲み込む真っ黒な虚無が拡がり始めている。やがてその原因がファンタージェン国の女王、幼ごころの君の不調にあることがわかる。幼ごころの君は、ファンタージェン国の危機を食い止める方法を探すよう、アトレーユという少年に命じる。アトレーユはバスチアンと同じ年頃だがすでに勇者の気概を持っている。
アトレーユは冒険によって、ファンタージェン国の危機を救うためには、幼ごころの君に新しい名前を贈る必要があることを知る。それができるのは人間の子供だけである。物置の中のバスチアンは、本がしきりに自分を呼んでいることに気づく。あり得ないことだが、本を読んでいる自分と本の内容がリンクし始めたのだ。バスチアンは本の中に、『はてしない物語』の中に入りこみ、アトレーユとともに冒険に乗り出すのである。
「本って、閉(と)じているとき、中で何が起こっているのだろうな?」バスチアンはふとつぶやいた。「そりゃ、紙の上に文字が印刷してあるだけだけど、――きっと何かがそこで起こっているはずだ。だって開いたとたん、一つの話がすっかりそこにあるのだもの」
『はてしない物語』は、ポスト・モダニズム的な〝物語批判〟概念をうまく援用した小説である。主人公のバスチアンは自分が物語を読んでいることに十分意識的である。しかしバスチアンが読み進むにつれ、印刷され動かしようのないはずのテキストが、物語が本の中で流動的に蠢き始める。それが物語というジャンルの本質に読者を引き戻すのである。物語とは「一つの話」が、世界がそこにあるということである。書かれ印刷され、読み終えて閉じられたとしも、常にそこから新たな物語を生み出す力を有しているということである。
「・・・悪も善(ぜん)も、美も醜(しゅう)も、愚(ぐ)も賢(けん)も、すべてそなたにとっては区別はないのだぞ。幼(おさな)ごころの君の前においてはすべてが同じであるようにな。そなたのなすべきことは、求め、たずねることのみ。そなた自身の意見にもとづいて判断(はんだん)をくだしてはならぬ。よいか、けっして忘(わす)れるでないぞ、アトレーユ!」
バスチアンと冒険をともにするアトレーユは、幼ごころの君の使者、カイロンから訓戒を受ける。ファンタージェン国には悪・善、美・醜、愚・賢といった区別はない。ファンタージェン国を治める幼ごころの君がすべてを等価に捉えているからである。つまりファンタージェン国は中心(概念)のない世界である。別の箇所では「ファンタージェンには限(かぎ)りがないのだから、どこでもその中心になりうる――それとも、その中心はどこからでも同じように近くもあり遠くもあるといったほうがよいかもしれない。それはまったくのところ、その中心にゆこうとする意志のみにかかっているのだ」と語られる。
「どうして新しい名を得(え)られることだけが、女王さまのご健康をとりもどす方法なのですか?」
「正しい名だけが、すべての生きものや事がらをほんとうのものにすることができるのです。」幼ごころの君はいった。「誤(あやま)った名は、すべてをほんとうでないものにしてしまいます。それこそ虚偽(いつわり)の仕業(しわざ)なのですよ。」
「ひょっとすれば、かれ(アトレイユのこと)は女王さまにさしあげる正しい名前をまだ思いつかないのではないでしょうか?」
「いいえ、もうわかっています。」幼ごころの君は答えた。
ここで語られているのは孔子的〝正名論〟である。すべての物事にはその本質(正しい名)があるという思想だ。エンデが東洋への強い関心を抱く作家であることはよく知られている。エンデは従来のキリスト教的思想の枠組みの中に、東洋思想を取り入れたのである。
中心のないファンタージェン国という設定は、基本的には東洋的世界認識である。ヨーロッパが実存主義以来の神の不在認識を、さらに深めたポスト・モダニズム哲学から導き出した認識だと言ってもよい。しかしファンタージェン国には負の中心観念(あるいは空虚だが世界の核としての中心観念)が存在する。それが幼ごころの君である。
幼ごころの君は善悪などの対立概念を一切認めない。すべてが世界を構成するための必要要素だと捉えている。彼女はバスチアンやアトレイユの前に姿を現すが、それは仮の姿である。幼ごころの君は本質的には不在(非在)であり、世界の他の諸要素との関係性において中心として機能する。あるいは世界から求められることによってのみ存在する中心だと言ってもよい。
言うまでもなく、従来のキリスト教世界(思想)では神が唯一絶対の世界の中心である。しかしエンデの物語世界においては世界の核(中心)は陥没点のようなものだ。またそれは世界の変化に伴って、正しい名(新たな世界本質)として名づけ直されなければならないのである。
本の物語世界に入りこんだバスチアンは、幼ごころの君に新しい名前を与える。また現実世界ではいじめられっ子の彼は、物語世界では美男子の勇者に変わっている。それが心地よくてバスチアンは物語世界に居残り、現実世界での自分を忘れようとする。『はてしない物語』の後半では、使命を終えたバスチアンを現実世界に戻してやろうとするアトレイユらの努力が描かれる。それは危機を乗り越えて人間的成長を果たす少年少女を描くビルドゥングスロマンの構造である。
「ぼくが出ていってから、どのくらいになるの?」
「きのうのことだよ、バスチアン。(中略)父さんはもう心配で心配で、気が狂(くる)いそうだったよ。どこにいたんだ?」
そこでバスチアンは体験したできごとをはなしはじめた。何もかもすっかり事細(ことこまか)にはなしたので、数時間かかった。
父さんはじっと耳を傾(かたむ)けていた。そんなに熱心に聞いてくれることなど、これまで一度もなかった。父さんには、バスチアンの話がよくわかった。
現実世界に戻ったバスチアンは父親との〝正しい〟関係を取り戻す。また彼は一回り大人になっている。学校の物置で読みふけった『はてしない物語』は、ふと眠り込み、目覚めた時には消えてしまっていた。しかし古本屋から万引きしたのは確かである。バスチアンはそれを後悔し、自分の意志で古本屋へ謝罪に行くのである。
『不思議の国のアリス』、『ピーター・パン』、『オズの魔法使い』、『指輪物語』、『メアリー・ポピンズ』、『ムーミン』など、ファンタジー小説の傑作は圧倒的に欧米作品が多い。日本の文学作品で根強い人気を誇っているのは宮沢賢治の童話作品くらいかもしれない。その一つの理由が中心概念にあるのは確かだろう。それは初めて世界の多様に触れた子供たちが、何を求めているのかを示唆している。「問い」には「答え」がなければならない。しかし優れた「答え」は、つねに正しい名として不断に名づけ直されなければならないのである。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■