旅の歌い手マーティン・ピピンは、あるとき田舎道を楽しく歩いていました。すると、どこからか男の嘆き悲しむ声が聞こえてきます。聞けば恋人と引き裂かれ、彼女はリンゴ畑で六人の乳しぼり娘たちに監視されながら、井戸屋形に閉じ込められているという。ピピンはその男ロビンの望み通り、恋人ギリアンのもとへ一輪の花を届けてやります。
またあるとき、マーティン・ピピンは見覚えのある田舎道にさしかかり、ロビンの泣き声を聞きます。ピピンは再びロビンの望み通り、ギリアンのもとへ指輪を届けてやります。
さらにまたピピンが通りかかると、ロビンは相変わらず嘆き悲しんでおり、ピピンはギリアンを助け出すと約束します。
リンゴ畑に近づくと、乳しぼり娘たちは、それまで二度リュートを掻き鳴らして踊らせてくれた彼が、その隙に井戸屋形に寄っていったことを警戒しています。ピピンは、これから毎夜、恋物語を聞かせると約束してリンゴ畑に入れてもらいます。
ここまでがイントロダクション。イギリスの子供たちが晩御飯に呼ばれると、「あと一つだけ」と、一番長い遊戯を始めるという。その優雅なお遊びをもとに書き起こしたとされ、楽譜まで付いている。のんびりして時代がかっているが、ちょっぴりナンセンスでかつ素晴らしい形式美である。ファージョンの本領発揮というところだ。本編は、六人の乳しぼり娘たちに話して聞かせる六つの恋物語ということになるが、そのそれぞれも素晴らしい形式美を示す。
ピピンは一つの物語を語り終えるごとに、最初は小さいジェーンから、続いてジェシカやジェインから次々に井戸屋形の鍵を取り上げていきます。最後に、最も強硬なジョスリンが履いていた靴から鍵を出す。ところが錠前は錆びていて、六つの鍵は使えない。結局、ブランコで井戸屋形の壁を乗り越えてギリアンを助け出し、ロビン・ルーのもとへ送り出してやります。
乳しぼり娘たちもそれぞれの恋人たちといなくなり、一人残ったピピンのところへ、ギリアンを閉じ込めていた父親がやってきます。「やれやれ、やっと行ったか」と、呆れ顏。井戸屋形には、最初っから鍵なんぞかかっていないのでした。
完成された六つの恋物語もさることながら、ここがいかにもお遊戯っぽくて、馬鹿馬鹿しくて、それでいてリアルな父親っぽくもあって、一番素敵なところ。他にレビューすべきことは何もありません。すべてにおいて美しく、見事としか言いようがない。
さて、ピピンがまた見覚えのある田舎道にさしかかると、聞き覚えのある泣き声が聞こえてきます。ギリアンを得てもなお、ロビン・ルーは嘆き悲しんでいるのでした。マーティン・ピピンはギリアンを連れ、旅立って行きます。
品がよくてシャープなペン画が、とりわけマーティン・ピピンの魅力を存分に伝えている。主人公のイメージをこれほど引き立てるイラストは見たことがない。ただ、岩波から出ていた旧版の表紙は、リンゴ畑にいるピピンと娘たちがきれいに描かれて、ずっとよかった。なんでどの本もこの本も、新装すると下品になるのか。大事なコンテンツを劣化させないよう、各出版社は編集者やデザイナーの両手を縛っておいてもらいたい。
『リンゴ畑のマーティン・ピピン』の恋物語は当初は子供向けではなく、第一次世界大戦の戦地に赴く三十歳の兵士のために書かれたものだという。人間も本も年月が経つにつれ、成熟が早まっているのか、未成熟ゆえの劣化が進んでいるのか、判断に苦しむ。
岩波書店 旧版『リンゴ畑のマーティン・ピピン』表紙
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■