円木は二つ目だったが、真打ちもそのうちというところで、不養生がたたり、遺伝体質の糖尿病が悪化して、白内障がすすみ、すっかり水晶体が濁ってしまった。(中略)
妹とそのつれあいがやっている小松川の賃貸マンションの一室にころがりこんだ。妹もつれあいもやさしい心根をしている。(中略)だまっていちばん日当りのいい2DKを、すでに入居のきまっていた客をキャンセルしてまで円木にあてがってくれた。(中略)家賃はいらない。日当りのいい部屋で、円木は日がな一日、すわって、じっと自分の奥底を覗いてすごす。
(『遊動亭円木』平成十一年[一九九九年])
『遊動亭円木(ゆうどうてえんぼく)』は『翔べ麒麟』に次いで書かれた作品で、辻原九冊目の単行本として刊行された。主人公は中年の落語家・円木である。彼は白内障を患って目が不自由になったため、真打ち目前で落語界を半ば引退している。「むかし、片目の噺家はいた(中略)が高座にあがると、客は笑うよりまずびっくりしたそうだ。片目でさえこうなのに、両目がきかない噺家が笑いのとれるはずがない。二つ目が両目がきかないなんて、悪い冗談だ」とある。なお円木は物語の半ばで完全に失明する。
仕事を失った円木は妹夫婦が経営する賃貸マンションに転がり込む。優しい夫婦で賃料はもちろん、食事などの世話までしてくれる。円木は居候である。物語は円木と彼のパトロンである明楽(あきら)のだんな、恋人の寧々(ねね)、それに妹夫婦を含むマンション住人との交流を交えて進む。しかし決定的な事件を中心に据えた物語ではない。
「日当りのいい部屋で、円木は日がな一日、すわって、じっと自分の奥底を覗いてすごす」とあるように、この物語には影がない。すべてが白日のもとにさらされている。小説だから多少の起伏はあるが、起こるのは基本的に日常的事件である。明るい部屋の中で目の不自由な円木は、「じっと自分の奥底を覗いてすごす」。小説冒頭で鮮やかに示されているように、『遊動亭』は円木の「奥底」を明らかにするために書かれた小説である。
「だけど、円木さん、居候だからって、卑屈になることはありませんよ。わたしたちはみんな、神様の居候じゃないか」
「そんなもんでしょうか・・・・・・」
「そんなもんです。(中略)わたしは、近ごろ、生と死は、昼と夜のようにそんな扉一枚でつながっているのではないような気がしてきた。生のはてに、そのどんづまりに、死が待ちかまえている、てなもんじゃない。(中略)じつは、生と死は何の関係もないんじゃないか。(中略)死は存在しない。いや、存在しない、とすら言うこともできない。(中略)わたしが、死ということについて考えているとおもっていたのはまちがいで、じつは生について考えていたのです。死とは、あらゆる絶対的な不可能性の比喩なんです。(中略)わたしは生きる(「わたしは生きる」に傍点)、といえるだけです」
「神様の居候として、ですね?」
円木にも、明楽のだんなの考えの筋道だけは、湯煙と雪煙のたちまじる中に、一列漂う庭灯ぐらいにはたどれた。
(『遊動亭円木』)
円木は癌で倒れた明楽のだんなと一緒に、彼の遠距離恋愛の恋人・寧々が住む秋田に湯治に行く。湯に浸かりながら明楽は円木に彼の死生観を話す。明楽の言葉には辻原の哲学が的確に表現されているだろう。「生と死は何の関係もない」、「死とは、あらゆる絶対的な不可能性の比喩」なのであり、人間には生しかないのである。死によって何かが終わる、明らかになるのではなく、人間には事件が多いとも平板だとも言える生のほかないということである。だから医者に末期癌だと診断されたにも関わらず、明楽はなかなか死なない。『遊動亭』という小説にとって明楽の死は無意味だからである。明楽は衰弱した身体で生き続ける。
明楽の口から語られた死生観は『遊動亭』の基盤になっている。ただそこに『遊動亭』を還元できるわけではない。辻原は明楽の哲学を小説独自の形に昇華している。『遊動亭』は円木の内面描写を中心に、作品の上位審級あるいは背後に身を隠した作家が、明楽を始めとする主要登場人物の心理描写を交える形で紡がれている。一つの観念を核に同心円状に登場人物たちの内面や心理が渦巻く作品ではなく、様々な心理描写が等価に絡まり合い、やがて一本の太いロープになってどこまでも続いていく。それは辻原が『遊動亭』で初めて形にしたエクリチュールであり、哲学的観念では表現できない作家思想そのものである。
この作家思想の内実は円木によって明らかにされる。『遊動亭』の基礎観念が明楽から発せられたのは、彼が死にかけた人だからでもある。動かない(動けない)明楽は沈思の哲学者として、目以外は健常な円木に示唆を与える。また円木は視力を失うことで闇の世界、つまり擬似的死の世界を生きている。彼はそこから人間の生全体を相対化できる負の生者である。
「そうそう、その決心とやらを知りたくてならなかった」(中略)
「わたくしはですね、・・・・・・わたしは落語になります」(中略)
「どうやってなる?」
「おぼえるんです。おぼえてなるんですよ。上方東京、古今東西およそ千二百六十ばかりの噺(はなし)がございます。いえ、人情ばなし、怪談ばなし、長篇ものをがっさいすれば、二千を下りますまい。これをおぼえます」
「ぜんぶおぼえる?」
「はい、ぜんぶ」
(『遊動亭円木』)
作品の末尾で円木は明楽に、「わたしは落語になります」という決心を語る。上方・江戸を問わずすべての落語を覚え、落語の図書館に、ジュークボックスになるのである。辻原が後に『円朝芝居噺 夫婦幽霊』で描いたように作者がわかっている噺もあるが、大部分は沢山の噺家によって練り上げられた古典落語である。テキストはもはや変えようがない。しかし落語家ごとに異なる解釈、微妙な声の揺らぎなどによって、実に多彩な顔を見せる。「わたしは落語になります」という円木の言葉は、『遊動亭』のエクリチュール、すなわち辻原の作家思想を最も端的に表現した言葉である。より辻原文学に即せば、「わたしは小説になります」ということである。
物語というのは、共同体の内部でつくられている。個人ではなく複数の人たちが共同体の内部で物語を作り、それが語られ、耳を傾けた人たちの共有の体験となる。つまり、物語というのは、声に依拠しているわけです。
近代の小説、つまり言語で書かれた小説は、「本になった」物語です。この物語(小説)は、本という形で、共同体から切り離された個人がつくり出したものです。共同体から切り離された状態、あるいはみずから切り離した個人によって書かれた。
小説というのは、物語から声が失われたものというふうに考えてもいいと思います。黙読という行為です。声を出さないということが本によって可能になったわけです。そのとき「声」はどうなったか。声が閉じ込められることによって「内面」が発生します。
(「舌の先まで出かかった名前」『東京大学で世界文学を学ぶ』)
声と物語を巡る評論には、小説文学に対する辻原の思考がよく表現されている。物語は元々は無数の人々の声によって作り上げられたもので、共同体全体の財産だった。しかし文字が発明されると一人の作家によって書かれるようになる。近代になると作家名を冠した本が一般化し、物語はさらに孤立した作家によって作られ、ますます共同体から遠ざかった。物語は声と共同体を失ったわけだが、その代償として人間の「内面」を生み出した。孤独に書く作家が自己の内面深くを探究するようになっただけでなく、作家と同じように孤独な読者も目で本を読むことによって、そこから自己の内面を形成するようになったのである。
辻原の文学は物語が持っていた無数の声を、その共同体を小説に取り戻すことを一つの目的としている。しかし単純な原点回帰などない。たとえ複数の人間が声で物語を作っても、テキストを声に出して読んでみてもアルカイックな共同体は得られない。声の物語の共同体はもはやその原初形態をうかがい知れないほどぶ厚い文字(テキスト)におおわれている。また小規模だが作家と読者が内面を共有する新たな共同体は無数に存在する。生まれつき文字と内面を知るわたしたちがそれを無視するのは不可能だ。むしろわたしたちの自我意識は文字と内面から構成されている。
そのため辻原は無謀な迂路を選択する。あらゆる過去文学を総体的に捉えるのである。上層には十九世紀、二十世紀の近・現代文学がある。その下の層は江戸文学だ。辻原が『東京大学で世界文学を学ぶ』で明らかにしたように、時代を追って過去の小説の書き方や主題を検証していけば、やがて失われてしまった声の物語の共同体が薄ぼんやりと見えてくる。しかしアルカイックな物語共同体を明らかにするのが目的なのでは必ずしもない。原初的物語共同体は、なんびとも決してそこに辿り着けないという意味で存在しない。根底は不在なのである。
原初的物語共同体は、誰も明らかにできないという意味で不可知の〝死〟の世界である。確かに時代を遡れば遡るほど、物語は複数の声とその共同体の存在を予感させてくれる。しかしどこまで遡ってもわたしたちが読むのは文字である。それは多かれ少なかれ声を失っている。つまり物語の〝生〟の世界には厳密には文字しか存在しない。『遊動亭』で明楽が語ったように、人間に認識できるのは生の世界だけである。声の物語の共同体は文字として残された微かな痕跡を手がかりに、新たに生み出すほかないのである。
辻原はそれをパスティーシュ(作風模倣)という方法を使って実践している。作家によって為されるパスティーシュには必ず解釈が介在する。過去作品は新たな現代的作品として生まれ変わる。ただそれは過去作品と技法や主題を共有している。パスティーシュは単に新たな作品を生み出すための方法ではないのである。それは過去に遡ることができる方法でもある。
相対化して言えばすべての文学作品はパスティーシュである。現代だけでなく過去にもパスティーシュは行われていた。文学は無限に繰り返されるパスティーシュの総合体だとも言える。意識的なパスティーシュによって、作家は過去作品がどのように生成されたのかを理解できるようになる。
辻原は『東京大学で世界文学を学ぶ』を、「十回以上にわたる長い講義でしたが、そのエッセンスが今日のパスティーシュです」という言葉で終えている。パスティーシュは極めて現代的なポスト・モダン的方法である。比喩的に言えば、パスティーシュは過去作家と現代作家の声を複層化させる。声の共同体ができあがるのである。それはまた過去の読者共同体と現代作家のそれとの複層化でもある。パスティーシュによる文学生成は、原初的物語共同体の生成構造と相似である。
落語家・円木がすべての落語の噺を覚えるように、辻原はパスティーシュのために過去作品を読む(覚える)。円木が古典落語を声に出して上演することで新たな作品を生むように、辻原は過去のテキストに自らの声を重ね合わせることで、古くて新しい作品を生み出すのである。
みなさんが玄関ホールまで出てきて、徳江さん、奥村執事、江藤さん、芝さんたちと別れの挨拶をして、沓(くつ)脱ぎに足をおろそうとしたとき、足音がして、ふり返ると、ミセス・バーネットに手を引かれた緑子が階段を駆けおりてくる姿がみえるではありませんか。(中略)
緑子がミセス・バーネットの手を振り切って、うれしそうに走り寄ってきます。わたしは、両腕を広げて、思いきり彼女を抱き締め、
「お嬢さま、どうかお元気で!」
といいますと、緑子はわたしの胸の中で涙が止まらなくなりました。
それから、緑子は爪先立って、わたしの首を強く抱き締め、耳もとでそっとささやいたのです。
「さよなら、ゆきの」
(『抱擁』平成二十一年[二〇〇九年])
『抱擁』はイギリスの小説家、ヘンリー・ジェイムズが一八九八年(明治三十一年)に発表した『ねじの回転』をパスティーシュした作品である。『ねじの回転』で主人公の私は、仕事でロンドンに住む妻を亡くした貴族に雇われて、家庭教師として田舎の屋敷に赴く。屋敷にはフローラとマイルズの二人の子供、それにグロースという名の家政婦がいる。私は屋敷で男女の幽霊を見る。しかも子供たちを誘惑していると感じる。グロースに話すと、前の家庭教師のジェスルと庭師のクウィントではないかと言う。二人は身分違いでしかも恥知らずな関係に陥り、恐ろしい死に方をした。グロースには幽霊が見えない。
私はジェスルとクウィントが、子供たちを虜にしてこの世で思いを遂げようとしているのではないかと怖れる。なんとか子供たちから幽霊を引き離そうとするが、フローラは精神に異常をきたしてしまう。私はグロースを付き添わせて彼女をロンドンの父親の元に送り出す。私は屋敷に残ったマイルズと対決する。マイルズをクウィントの幽霊から引き離すための悪魔払いをする。しかしそれが終わった時、マイルズは私の腕の中で死んでいたのである。
『抱擁』の舞台は戦前の東京で、私は前田侯爵家に雇われ緑子という少女専任の小間使いになる。見えるわけではないが、私は緑子が霊に取り憑かれているのではないかと感じる。女中頭の話しから、自分の前任者が雪乃という小間使いだったことを知る。雪乃の夫は二・二六事件の決起将校の一人で、逮捕され銃殺された。雪乃は葬儀を終え、前田家を訪ねて緑子を抱きしめた後に自殺してしまう。私は緑子に取り憑いているのは雪乃の霊ではないかと思う。しかし霊が緑子を守っているのか、害を為そうとしているのかわからない。
思い詰めた私は、ある日緑子に向かってナイフを振り上げる。緑子に取り憑いている雪乃の霊がどう反応するのか、見極めたかったのだ。しかし緑子は表情を変えず、私は庭師の野口に取り押さえられる。私は殺人未遂容疑で逮捕されるが、嫌疑不十分で釈放される。奉公人たちの取りなしで前田家に暇乞いに行くことになった私は、緑子が「さよなら、ゆきの」と言うのを聞く。緑子は雪乃の霊と対話していたかもしれないが、それを引き起こしたのは私だということである。緑子の母親は「あなたが警察に連れてゆかれてから(中略)緑子にはまったく不審なようすがないの。何かが憑いていたとしても、それは落ちたのかもしれないわね。あなたがいないことが」と私に語る。
辻原の『抱擁』には様々な解釈が見られる。一番大きな違いは子供は緑子一人で、しかも彼女は死なないということである。『ねじの回転』で私はなんとかフローラ(女の子)を救うことができたが、悪魔払いでマイルズ(男の子)を死なせてしまう。女家庭教師ジェスルを殺した庭師クウィントの霊が子供たちに害を為す元凶なのである。
しかし『抱擁』に霊は存在しない。辻原は「あらゆる一人称小説には、幽霊が出る可能性があります。「わたし」が不在の場所について何かを語ろうとするときに妄想になるわけです(中略)。そして、他者を感染させる力も出てきます」(『東京大学で世界文学を学ぶ』)と書いている。『抱擁』は霊の共同幻想を巡る心理劇である。
『抱擁』では庭師の野口が私のナイフを奪い、緑子を助ける。女を欲望し、その欲望で女と子供を破滅させた『ねじの回転』の庭師クウィントとは逆に(マイルズの死はクウィントの二度目の破滅である)、野口が霊の共同幻想を破るのである。『抱擁』は男の霊によって女と子供が破滅する物語ではなく、現実の男によって霊の共同幻想が破られる物語だということだ。『抱擁』には緑子、前の小間使い・雪乃、私、それにアメリカ人で英語家庭教師のミセス・バーネットらから構成される女たちの共同幻想体が存在する。
「かんじんなこと、やはり、緑子、何かにポゼス(注―possession:所有・占拠、この場合はいわゆる狐憑き)されているということだわ。ここからが大切だから、よく聞いて下さい。何かにポゼス(中略)されているならば、それ、緑子をどうしようとしているのか、みきわめること、大事ですね。いいですか、do harm to her or do good to her、分かりますか?」
わたしは首を振りました。
「do harm to her、彼女に害をなすのか、それともdo good to her、善をなすのか・・・・・・」(中略)
ミセス・バーネットが、わたしの腕にそっと手を置き、まるで少女のようにいらずらっぽく微笑んで、
「ポゼスされている人、あなたかもしれない・・・・・・」
(『抱擁』平成二十一年[二〇〇九年])
『ねじの回転』で主人公の孤独と恐怖をさらに深めるのは家政婦のグロースである。グロースは霊の姿に怯える私の恐怖を強く共有しながら、「いや、わたしには見えません」と言う。その理由を辻原は「グロースさんに見えないのは、グロースさんは描写ができないのです。なぜなら文盲だからです。単に声の描写ではなくて、文章です。これは文章による幽霊です。(中略)グロースさんは「見えない」というよりも「読めない」というのに近い」(『東京大学で世界文学を学ぶ』)と分析している。文字とそれが生じさせた内面がなければ自我意識は霊を分別できない。アルカイックな声の物語共同体員は、たとえ見ることができてもそれを詳細に描写できないのである。
これに対し『抱擁』で私と恐怖を共有するミセス・バーネットは現代人であり、英語教師という意味で二重に言葉の人である。彼女は霊など存在しない生者の世界で、なおかつ霊に怯える私の心性を見抜いている。「ポゼスされている人、あなたかもしれない」と私に言う。理知的に言えば緑子の愛らしさによって、彼女を溺愛しながら非業の死を遂げた雪乃の心理が追体験され、それが私に霊の存在を信じさせただけでなく、緑子の中で雪乃の記憶を呼び覚ましたということである。しかしそのような小説プロットが重要なわけではない。
ミセス・バーネットは私に〝do harm to her or do good to her〟(彼女に害をなすのか、それとも善をなすのか)見極めなさいと言う。辻原は注意深く主語を省いているが、辻原文学に沿えばこの文章の主語は〝You(主人公の私)〟である。
『ねじの回転』のジェイムズの思想は明快だ。ジェイムズにとって人間理性を超えた霊の世界は存在する。この思想に沿って作品はマイルズの死まで一直線に進む。しかし『抱擁』には作品を統御する思想が設定されていない。私には文字通り二つの選択肢がある。『抱擁』は〝do good to her〟の作品だが、本質的に〝do harm to her〟の作品にもなり得るのである。端的に言えば、そこに辻原が多作の作家である理由がある。パスティーシュによって無限増殖的に小説を生み出すことそのものが、辻原の作家思想である。(続く)
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■