【月刊俳句界 (株)文学の森 月刊】
『月刊俳句界』は『角川俳句』と並ぶメジャーな雑誌である。俳人の方は嫌なことを書くと思われるかもしれないが、文学金魚編集部から誰にでもわかりやすく、またタブーなく時評してほしいという要請を受けたので、少し赤裸々になるかもしれないが、俳句界の「一般常識」をまとめておきたい。
俳句商業誌は基本的に初心者をターゲットにしている。その多くが高齢者であるため、文字は大きめだ。掲載される原稿の内容も平易である。たとえ難しい内容でも、できるだけかみ砕いて説明されている。巻末には句集の広告と結社広告がずらりと並ぶ。句集はもちろんそのほとんどが自費出版である。(株)文学の森の場合、自社刊行の100冊ほどの句集広告が並んでいる。結社広告は100くらいか。全国には大小500近い俳句結社があるが、小説や詩の世界とは異なり、その99パーセントが主催者を持つ結社である。俳句界は主催者が「先生」あるいは「社長」として君臨する結社で構成されているのである。
このような結社制度は、俳句の世界をとても特殊なものにしている。俳人には当たり前でも、自費出版広告が100冊も並び、有料の結社広告が100本も掲載されている文芸誌など小説や詩の世界では想像もできないだろう。一本当たりの単価は安いとはいえ、ファッション誌でもこの数の広告は集まらないはずだ。今年の春頃に文学金魚の会合にゲストとして参加した時に、小説や詩の時評者から「俳句商業を読んで驚いた」と言われた。「とても文学雑誌だとは思えない、どうしてああいう内容になっているのか説明してほしい」とも求められたが、それは容易ではない。微妙なのである・・・。
俳句商業誌が、自費出版と結社広告を大きな収入源にしているのは確かである。いつもとは言わない、いつもでは決してないが、商業誌編集部が広告主(クライアント)に一定の配慮をするのは当然のことである。大結社とその主催者は、商業誌では優遇される、、、、傾向がある。また結社の同人もそれを歓迎している、、、、傾向がある。大結社の主催者格でなければ、新聞などの大メディアの俳句欄選者にはなれない、、、、傾向がある。大結社に所属していれば、古株与党議員が大臣になるように、いずれ選者や賞の椅子が、、、、もうやめておこう。すべては阿吽の呼吸なのだ。わかりにくい、わかりにくいだろうと思う。
外部の人にとって、俳句文学は芭蕉、蕪村、子規らのイメージだろう。俳人たちにとっても彼らは尊敬すべき先達である。しかし俳人たちが、俳句を純粋な文学として捉えているのかというと、そうでもない。俳句文学と現実の俳壇は別だ。いいことでもあるのだが、俳人はとても従順なのである。575で季語がある形式を、表現のすべてだと考えることのできる人たちの集団なのである。習い事のように俳句のイロハを教わること、指導してくれる人を師と仰ぐこと、その集団に所属することに、ほとんどなんの疑問も抵抗も抱かない人たちなのである。
それに、多くの俳人を怒らせることになってしまうだろうが、、、、俳人は暇だ。できあがった作品の文学的価値は別にして、純粋な肉体労働としては短い表現の方が楽だ。小説や評論よりも俳句は執筆に時間がかからない。俳人は書かない間も俳句について考えているんだと言うだろう。でも、胸に手を当ててみればわかるはずだ。たいていは愚にもつかない俳壇の噂話をして、結社内でのさや当てや出世競争をしているのではないか。結社や師弟制度がなぜあるのかと問われて、それを文学の問題として説明できる俳人はほんの一握りしかいない。定年後の第二の楽しみとして、それまで会社組織でやってきたように、俳壇内での派閥や出世争いに生き甲斐を見出している、、、、という面が俳人には確実にある。
一度できあがってしまった組織は、結社はずっと存続しなければならない。理由などない。新たな同人を募り、年老いた者が死んでいき、主催者が変わっても続けなければならない。目先の利く優秀な俳人は、当然のように新たに結社を興して主催者におさまるだろう。それが俳句の「伝統」だと多くの人が思っている。結社の伝統がいつのまにか俳句文学の「伝統」にすりかわる。どの結社も似たようなものだ。新年会や忘年会を開いて結束を確認し、句会を開き、雑誌を刊行し、今月は自分の句が何句載ったかに一喜一憂しながらまた一年が過ぎてゆく。俳句界では結社が鎬を削り合っている。群雄割拠と言えば聞こえがいいが、どんぐりの背比べの世界である。ならば俳句作品の文学的価値はどうやって評価されるのか、、、、。50か100年経って、5世代か6世代のちの時代になれば、自ずとあきらかになるのである。
このような俳句界で、俳句商業誌はどんな役割をはたしているのだろうか。俳句人口の90パーセント以上が伝統俳句を書き、その系統の結社に所属していることもあって、どの商業誌でも伝統俳句系大手結社主催者格俳人の作品や散文原稿を数多く掲載している。ただ各商業誌に特徴がないわけではない。『角川俳句』は時事的な議論などを積極的に取り込むことで、俳句ジャーナリズムを作り出そうとしている。『月刊俳句界』にはそのような指向はない。誌名のとおり俳句界全体を網羅しようとしている。伝統俳句、新興俳句、前衛俳句、あるいは口語体俳句や最近の横書き俳句にいたるまで、「こういうものもあるよ」といった熱のなさで淡々と紹介していく。過去の俳句文学運動に対しても同様だ。「こういった運動と議論と作品がありました、どうぞ参考にしてください」という姿勢である。俳句界にジャーナリズムはないというのが『月刊俳句界』の特徴だといえよう。
『角川俳句』のジャーナリズム指向も、『月刊俳句界』の達観主義的姿勢も、どちらも正しいし俳句界には必要だと思う。俳句界はジャーナリスティックな議論を常に必要としている。明治初期の子規の俳句革新運動のように、それが俳句の流れを変えることもある。しかしたいていの議論は、泡のように浮かんで消えてゆくものにすぎないのも確かである。俳句界は恐ろしく悠長だ。俳句だけでなく、伝統芸能・文化と呼ばれるジャンルはみなそうなのかもしれない。そのジャンルに決定的な影響を与える人など、百年に一度、いや、三百年に一度くらいしか現れないかもしれない。伝統と呼ばれる文化としがらみの厚みをたった一人の人間の力で変えるのは、ほとんど不可能、、、、なのである。
俳人以外の方は、今現在、俳句界でどのような作家が活躍し、どんな俳句が書かれているのか御存知ないだろう。複雑な力関係でがんじがらめになり、俳壇内に向けて閉じた俳句商業誌など、手に取る気にもならないに違いない。にもかかわらず俳句は素晴らしい芸術であり、愛すべき文学である。私が依頼されたのは非ジャーナリスティックで俳壇網羅主義的な『月刊俳句界』の時評だから、雑誌の編集方針や掲載作品に対して批評する必要はないと思う。『月刊俳句界』を読みながら、淡々と俳句の魅力を紹介していく時評にしたい。私は俳句を愛しているが、結社や商業誌を愛してはいない。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■