鶴山裕司さんの連載評論 『現代詩人論』 『No.001 はじめに』 をアップしましたぁ。鶴山さんがようやくやる気を出してくれて、といふかなんとか素直に言ふことを聞いてくれて、不肖・石川は嬉しいざんす。鶴山さんには金魚屋詩部門のアドバイザーをお願いしているわけですから、口火を切って働いてもらわないことには始まりませんものねぇ。これで今後、金魚屋アドバイザー以外の詩人の皆様にも、作品や評論の連載などをお願いできる環境が整ったと思います。
そんで鶴山さん、ずいぶんおとなしいですねぇ。詩壇のことを知り尽くしているお方ですが、普段の会話よりかなり抑えた論調になっています (笑)。石川は詩にはそんなに詳しくなく、横目でチラチラ見ているだけですが、自由詩の世界は相当厳しい状態になっていると思いますよ。ちょい前に高嶋秋穂さんが短歌批評で、『短歌はぜんぜん読まれていない』 という意味のことをお書きになっていましたが、自由詩は短歌以上に悲惨かもしれない。実作者が主要な読者だというのは短歌や俳句の世界と同じですが、その数すら激減している気配が濃厚です。
そんで鶴山さんは、『戦後詩』 や 『現代詩』 はすでにその可能性を終え、総括されるべきに時期にさしかかっているという意味のことを書いておられます。石川の頭にまず浮かんだのは、そんじゃ詩壇の数少ない商業誌である 『現代詩手帖』 さんはどうなっちゃうの?といふことでありました。もちろん鶴山さんの論は抽象的文学理論で、『現代詩手帖』 さんについては一ミリも論じておられません。でも鶴山さんの理論がある程度正しいとしたら、『現代詩手帖』 さんも質的に変化する時期に差しかかってるんだろうなぁ。文学金魚はどのメディアさんとも仲良くしたいので、ガンバレ 『現代詩手帖』 さんなのでしたぁ。
■ 鶴山裕司 連載評論 『現代詩人論』 『No.001 はじめに』 ■