詩と俳句と短歌と小説との越境みたいな特集。文学金魚みたいぢゃんかよ。ほんで作品の巻頭は、金魚のオープニングイベントで墨書展をやってた、安井浩司御大。これって何かの復習?
とかって訊ねたら、現代詩手帖は昔からよく復習をするよい子ちゃん雑誌で、同人誌に書いて評判になったりすると、その焼き直し原稿を依頼されたりするとか。もともと戦後の同人誌「荒地」の復習、もしくは追っかけから始まったという伝統があるそうな。
ほんでもって金魚の復習なら、りょんさんにもわかるかも、と思ったんだけど、これが相変わらずさーっぱり、てか、むしろわかんなくなった。復習してわかんなくして、どーすんだよ、なぁ。
「詩型の融合は可能か」って、えっらい原理的なテーマで「討論」してるわけなんだけど、討論っていうか、いつもの「今年度の収穫」みたく「次は、誰それさんの詩集です」とかって、縁者の本とか取り上げて、行きあたりばったりなことを言ってるだけで、原理なんぞにたどり着くわきゃ、ないべ。そもそも詩のジャンルについて考察しようって場でもって「現代詩は自由詩とも呼ばれていますが」、「現代詩が自由かというと、必ずしもそうではない」(野村喜和夫)なんて超アバウトなこと言って、何かを突き詰めようって気は、さらさらないんちゃうか。
ま、いつもと同じく誰も彼も、「ボクちゃんたちが今ここにいて、えらそうにしていること」だけが大事みたい。シンコクぶることと知性があることは違うってことは、アホのりょんさんでも知ってるが。
だいたい「現代詩を自由詩ともいう」なんて物言いは、少なくとも現代詩の側からは、ついぞ聞いたことないぞ。俳句や短歌の定型詩に対する一般概念としての自由詩から、思想だか技法だかで特化した「現代詩」として自ら特権化しようとしたのは、「現代詩」の方じゃんか。今思うと、バカが深刻な顔してバカ隠ししてた、っつーわけだけど。「ボクちゃんは特別なんだから、一般概念でバカとか言わないで」って、そんなとこに自ら囲い込んどいて、「なのに自由じゃない」って、何なんだ。
俳句でも何でも、詩型ってのはジャンルの掟で、運命で、それを乗り越えるってのは、すごい考え詰めて、人生かけてやることで。そういうのが「本当の詩人」っていうんでないの。ただ雁首並べて、そんなテーマを弄りまわしてるだけのこの人たちって、何者?
そんでもう一つのシンポジウムが「越境できるか、詩歌」。「越境」も「融合」も別に適当なわけだけど。ここでも季語という、あるジャンルにとっては宿命みたいなものについて語ってるっちゃ、語ってるっつーか、ただ玩具にしてるっつーか。
りょんさんは文学金魚をちらちら読んでるだけだけど、季語、つまり季節が日本の文化にとって、どう本質的か、なんで本質的か、ぐらいのことはわかったよ。そーゆーことは、わかってしまえば当たり前みたいに感じるし、まるで最初から知ってたみたいに、それを前提に語っちゃう人もいるけど。それでもわかんないまま、わかろうともしないまま、くだらないおしゃべりで紙をムダにするよりはいいかも。
たとえ、かっぱらいでもさ、かっぱらおうとするのは向上心の現れだからね。「現代詩手帖」で、金魚用語の「自由詩」って言葉が見られるようになった今日この頃なんだから、もっと文学金魚で勉強して、もっと遠慮なく、かっぱらったらどうかな。
りょん
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■