トンイ
NHK
日曜 23時~
「宮廷女官チャングムの誓い」、「イ・サン」のイ・ビョンフン監督。時代は「イ・サン」以前。主人公トンイの息子がイ・サンの祖父に当たるということだ。歴史大河ドラマである。
日本の大河ドラマは多くの場合、歴史上の英雄、すなわち男性が主人公のことが多い。最近は女性が主人公で、しかもヒットするケースも目立つが、たいてい幕末以降である。朝の連ドラは伝統的に女性が主人公であることを考え合わせると、日本において女性性は近代化とともに支配性を有し、日常的に浸透していったように感じる。
日本と韓国の文化は似ているところも多いが、母性崇拝の強さは韓国にかなわない。それが太古からの歴史の中にがっちり組み込まれて、何はなくても政治を押し進める原動力となっている、と解釈されているように見える。日本の歴史にとっての女性性は、原理や原動力というより、むしろ日本文化がそれへと向かう、美的な目的といったものだろう。
だから日本においては「トンイ」の人気は「チャングム」には遠くおよばない。理由はいくつかあって、「チャングム」には数々の奥深くも楽しい宮廷料理の紹介があったし、ヒロインはどこか昔の吉永小百合を思わせた。が、一番の理由は、チャングムには母の親友を探し出し、親の仇に復讐するという明確な目的意識があった。自分で意図せず見染められ、王の「母」となる、という受身の運命が主眼のトンイと異なり、あくまで能動的な「娘」なのだ。日本の文化は「母」よりも「娘」としての透明感のある、抽象的な女性性を好む。
もっともストーリーの立ち上げ方は、「チャングム」とよく似ている。司憲府大司憲・チャン・イクホンが襲われた。その容疑者として無実の罪を着せられ、殺害された父と兄の汚名を晴らすため、トンイは、宮殿に入って奔走する。
元気いっぱいで何をするかわからず、周りに愛されるというのはチャングム、トンイにかぎらないヒロインのキャラだが、身分を隠した王と出会い、好意を持たれるというのは少女マンガ的なご都合主義ではある。もっとも相手には后も側室もいるわけで、そこでいきなり彼女たちと対立せず、むしろいずれかの女性のサポートにまわることで存在感を出してゆく、というのは時間がかかるぶん、やはり大河ドラマである。
それで韓国歴史大河ドラマのポイントは、やはり王制そのものだ。そこは権力争いを描いても、関係性で動いてゆく日本の大河との大きな違いだ。「チャングム」では、王とはチャングムの状況を翻弄するシステムに過ぎず、彼女は王に対して感情を動かさなかった。そこがチャングムが最後まで、我々も理解し得る主人公であり続けた理由だ。宮廷で王を主要な人物として描くなら、王以外の人物がすべて受身にならざるを得ないのは、何より王制の安定こそが価値の中心であるからには仕方がない。
王制に対峙したとき、人間としての存在が卑小化するのは、王自身も同じことなのだ。これは権力そのものが人間の関係性によって形作られる日本では起きないことだ。卑小化を避けるには「チャングム」の最後のように宮廷を去るか、そうできない王本人なら沈黙とともに謎と化し、自らが「王制」そのものとなるしかない。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■