『クロワッサンで朝食を』2012年(仏) (上映中)
監督:イルマル・ラーグ
脚本:アニエス・フォーヴル/リーズ・マシュブフ
出演:ジャンヌ・モロー/ライネ・マギ/パトリック・ピノー
上映時間:95分
上映時間95分という中で、何をいつ、いかに見せるかという戦略が考え抜かれており、簡潔さのなかにどことなく飽くことのない豊かさや余裕を感じさせる作品だ。
『パリのエストニア人』という原題をもつこの映画の主な登場人物は、母を亡くしてパリへと家政婦の仕事でやってきたエストニア人の女性アンヌと、その女性が世話をする、同じくエストニア出身だが、人生の大半をパリで過ごした独り暮らしの女性フリーダ、さらに家政婦をフリーダにことわらず勝手に雇った男ステファンの3人である。そのあらすじは、ステファンに勝手に家政婦を雇われたフリーダは、最初はアンヌを歓迎しないものの、次第にアンヌと心を通わせ始めるというものだ。ここにアンヌ自身の物語とステファンと両者の関係性が絡んでくる。
ジャンヌ・モロー演じるフリーダの目と声の力と、ライネ・マギ演じるアンヌのどこか可愛げな表情や行動が印象的である。頑固な老女と家政婦の交流というあらすじはありきたりかもしれないが、簡潔に描かれており、1カットで展開を予期させ、1カットでその転換点を描きだしている。また、同じ小道具を二度三度と異なる局面で異なる意味で生かす点にも、簡潔さへの意識が感じられる。そのようなことを可能にする的確な演出は、会話シーンで聴く人を撮る点にも表れており、ひきこもっていたフリーダがステファンの経営するカフェに行こうとアンヌに提案するという、フリーダの心境の変化を描く重要な場面で、話すフリーダの顔ではなく、アンヌの表情を撮るあたり、この作品の的確さと簡潔さは野心や余裕へと変容する可能性をも秘めている。そして、この作品は物語を簡潔に語るだけでなく、冒頭のエストニアの場面でアンヌに絡んでくる酔っ払いの正体とステファンの正体は少しの間伏せられた後に明らかにされるなど、情報の出し方にも、物語の流れの中で小さなサスペンスとサプライズを映画にもたらそうとする姿勢が感じられる。また、冒頭のエストニアのシーンで開始5分くらいの内に登場人物2人が転がり倒れるという意外なアクションも見せてくれるあたりにも、簡潔さのなかにどことなく演出の余裕を感じさせる。
おそらく50歳前後と思われるアンヌが可愛らしげな表情を見せるのはパリに来てからだ。若いころからのあこがれ(フランス語を話せるのは母国での勉強によるものでパリには初めて来た)からパリにやってきたアンヌは、フリーダの家についたその夜に、こっそり家を抜け出して夜の観光にでる。夜の凱旋門を見たときの、実際に目にしたこと自体への興奮と、実際に目にした凱旋門への「まぁ、こんなものか」という落胆と、自らのあこがれへの嘲笑を示す微妙な彼女の表情は、極めて雄弁だが、同時に簡潔に示されることで、この映画がパリという街とアンヌの物語でもあることが一瞬の内に明確になる。ほかにもエッフェル塔に行ったり、パリの街をさまよったり、フリーダとともにカフェまで歩いたりと様々な局面でパリは登場する。この映画は一方でフリーダとの交流を描きつつ、同時に彼女の夢でしかなかったパリの再発見の物語でもあるのだ。落胆と失望を経た後ラストで再発見されるパリは以前とはことなる表情を見せるのだが、パリが再発見されるラストで、ともすればただ綺麗なパリという印象しか与えない危険があるにも関わらず、あくまで有名な観光地としてのパリを撮り、観客の目の中で、パリが観光地から彼女の居場所へと変容する可能性に賭けている点に、この映画の野心を感じさせる。
ところで、邦題に「クロワッサン」とあるが、エストニアの親類やフリーダに食事を供しながらも、アンヌ自身の食事シーンはほとんど最後にやってくる。エッフェル塔を前にクロワッサンを食べるという、ありきたりな組み合わせのようにも思えるこのシーンのもつ美しさと力強さを目にした時、パリがアンヌにとって出稼ぎの場でも夢の世界でもなく、住みかとなる瞬間を観客は目にすることになるだろう。フリーダとの交流もパリの再発見も、クロワッサンを出す以外、なにも大げさなことはする必要はない。むしろ異なる局面でクロワッサンを何度も用いることで、簡潔さのみならず、物語に厚みと共鳴を生み出すというまっとうな演出を、気負いなく、さも当たり前かのように自然に行っているところに、あの最後に食べるクロワッサンが「にせもの」や「プラスチック」ではなく、冷え切った夜明けのパリで、人肌のように温かくおいしそうに見える秘密があるのかもしれない。
玉田健太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■