ふまじめで軽薄な新作映画批評① 『スプリング・ブレイカーズ』 SPRING BREAKERS 2013年(米)
監督+脚本:ハーモニー・コリン
音楽:クリフ・マルティネス「ドライヴ」/SKRILLEX
出演:ジェームズ・フランコ/セレーナ・ゴメス/ヴァネッサ・ハジェンズ/アシュレイ・ベンソン/レイチェル・コリン
上映時間:95分
リル・ウェインの総ダイヤモンド歯にはビビったが、シネフィル的にはジェームズ・フランコさんの総銀歯が見たい……ということで、6月某日、『スプリング・ブレイカーズ』を観る。予告編を見る限りではかなり良さげな『ミスター・ロンリー』以来5年ぶりのハーモニー・コリンの新作。まあ、かわいいギャルが4人出てくるんですね。女子高生でなく女子大生というところがミソなんですが、ダサいグレーのトレーナー(フード付き)とか着て登場してきて、最初はすごく垢抜けないわけ。お話的には、この田舎でパッとしない人生送ってる女子どもが、春休み(スプリング・ブレイク)にフロリダに行って、ビキニに着替えて男だのアルコールだのドラッグだのって羽目を外そうとして、やりすぎていろいろよくない方向に深みに嵌っていくという、ありがちといえばありがちなやつですね。
ギャルは、敬虔なクリスチャンでわりとガート固めの黒髪ちゃんと、おっぱいサービス過剰だけどエッチはさせてくれないというピンク髪ちゃんと、悪のりしすぎで尻軽ないかにもアメリカ的美少女って感じのブロンドちゃんが2人いるわけです。カラフルなビキニ着てね。最初の方は、この4人がスパイス・ガールズ合唱したり、膝の上に座りっこしたり、股の間くぐりあったり、バスルームのタイルのうえでだべったりして過ぎてゆく。その間、むちむちな太ももやお尻を常に魅せてくれるのはいいが、何より萌えるのは足下スニーカーってこと。
ここに割り込んで来るのがジェームズ・フランコさん演じるフロリダのギャングスタ(たまにDJもやる)で、ギャルたちがドラッグでパクられて勾留されたときに、大枚はたいて罰金肩代わりしてくれる。でも、そのおかげでギャルたちは単なる「スプリング・ブレイク」どころの話じゃなくて、もう完全にブラックな世界に引き入れられていくことになる。ジェームズ・フランコさん、こんなにだらしなく貫禄ある悪役フォルムに体格(とくに下腹)を仕上げてくださったのかと思うと、ほんとうに頭がさがる。まあ肝心の総銀歯は、実は前歯だけで奥歯は白かったんですが(細かい)。そして海辺の野外に置かれているのにまったく潮風のダメージを受けていない白いピアノを弾いて(実際には弾いているようにはとてもみえない適当なショットで)、ブリトニー・スピアーズ熱唱してくれたりするのですよ。ジェームズ・フランコさんのドレッドヘアーは、加瀬亮の五分刈りと同じような威力があります。余談だけど、ロン毛のイメージ強いスタローンの『バレット』での気合いの入ったアイパーばりの短髪にもキュン死しましたよね。
それは置いといて『スプリング・ブレイカーズ』だけど、もう何がアザトイってさ……金髪娘の前傾化のプロセスね。前半明らかにフィーチャーして撮ってた黒髪ちゃん(まじめ、ほっぺがチャーミング)が、ジェームズ・フランコさんの悪さにびびって「おうち帰りたい」ってめそめそ帰っちゃって、今度はピンク髪ちゃん(コリンの実の妻)をカワイク撮ってるなーって思ったら、この娘も対立するギャングスタの襲撃によって左腕を撃抜かれたショックであっさり帰っちゃって、最後金髪二人が残る。でも、この二人いつの間にか常に同じ服着ててもうほぼ見分けつかない! 双生児化っていうか、バービー化っていうか。目出し帽なんかかぶっちゃったらもうどっちがどっちだか。それに、先に帰っちゃっう二人に対して、ジェームズ・フランコさんが、たとえいなくなってもお前が一番的なことをそれぞれ言っているわけですよ。とにかく、せっかく、この娘かわいいなって思ってたのが(つまり、さんざんかわいいと思わせといて)、あっけなくいなくなっちゃう。さらにさらに、ジェームズ・フランコさんと双生児的なブロンド2人組は肉体的にも結ばれて、3人でとうとう行くところまで行っちゃって、ライバルのギャングスタの抹殺計画へと勢い込んでいくわけですが、ジェームズ・フランコさんはギャングスタの邸宅へとつづく橋の上であっけなーく一発で死んじゃうの。このあっけなさね。 金髪ギャルが二人でドンパチやって生き残って終わり。とにもかくにもあっけない終わりかた。
ここにあるのは、軽々しい冷徹さ、割り切り。つまり、余韻なんていらない。終わりは終わり。この美しい破綻した人がどうなるかなんてどうでもいい。彼らは作り物、人形、マネキン。そういう感じ。それは嫌な感じじゃない。むしろいい感じだ。でも、そのあざとさと奢りに寛容ではいたくないんだよね。もちろん、これはそんなに複雑な映画じゃない。それはまるでアイスクリームでいうとバスキン・ロビンスのホッピング・シャワーみたいな感じで。色とりどりで、口の中ではじけて、舌の上で溶けてなくなる、そういう95分のB級映画だ。だけどそれにしたって、なんだかあまりにも予定調和な後味じゃないか? 最後は、ほとんど『テルマ&ルイーズ』的な、使い古しの女性化された終末感だったと言っていいんだもの(テルマとルイーズも金髪だったよねー)。
この映画のことを、ある批評家が「少女の幻想」と書いているのをみたけど、ほんとにそうかな。たしかに20歳ぐらいまでの女子はこういう破滅的な夢を見がちかもしれないけど、なんていうか、やっぱりあまりにも類型化された、あるいは人形化された、アメリカ的ブロンド美少女の無個性的肖像を眺めていると、わたしなんかは、これは紛れもなく男性の幻想だなと思うよね。いや、幻想というよりももはや強迫観念的な信奉なのだろうか? まあヒッチコックまで遡る必要はないにしても、ヘザー・グレアムとかミーナ・スヴァーリみたいな前世期末によくみた系統の顔の、既視感にあふれたアメリカ的ブロンド美少女が、2001年以降も未だに大量生産されているのは確かだし、ハーモニー・コリンは、それを非常に確信犯的に正当化しているんだろう。露悪的であれ、戯画的であれね。そうじゃないと、せっかくのカワイイ黒髪ちゃんとピンク髪ちゃんをあんなにあからさまなやり方でスクリーンから追い出したりしないし、それにブロンド二人組をあんなに似せたりしないでしょ(だいたい、ブロンドちゃんの一人を演じた女優さんは、本当は混血の黒髪黒目ちゃんでしたから…)。かわいそうに、帰りのバスで黒髪ちゃんとピンク髪ちゃんは泣いてた、ブロンドじゃないと個性があってカワイくても映画的には主役になれないんだよ、脇役はつらいよ、と。でもブロンド娘は泣いたりしない、ブロンドだから。
そうはいっても、童顔、でか目、とんがり唇に象徴されるブロンド美少女の人造的な顔貌は、伝統的なアメリカ映画の一つの象徴的イメージで、実際どうしょうもなく魅力的には違いないんですけど。かくいうわたしだって、ゴールディー・ホーンとかだいぶ好きです。60過ぎでもロリ顔っていう。あのカート・ラッセルの長年の恋人で、ケイト・ハドソンのママね。要は、永遠に美しくともブキミよね、ってそういうことです。95分という尺よし。あと、ビキニでスクーター横並びの画よし。では、このへんで。
Kono Marie
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■