鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評 No.011 坂井修一「かなしみの歌びとたち」(角川短歌2026年5月号)をアップしましたぁ。坂井さんは連載評論「かなしみの歌びとたち」で「近代短歌史」を「浪漫系対写実系の対立」ではなく「森鷗外対釈迢空(=折口信夫)の対立」で捉えておられます。斬新な視点です。
鴎外も折口も専門歌人ではありません。創作者として本気で短歌を書いたでしょうが、それを言えば小説や評論などを書くときも本気だったでしょうね。複数の文学ジャンルを手がけた作家の場合、何をメインの仕事とするのかは後世の評価に大きく左右されます。鴎外は小説家ということになっていますが死の間際まで執念を燃やして書き続けたのは史伝でした。折口が不世出の国文学者で民俗学者であったのは言うまでもありません。
今でもそうかもしれませんが、学問の世界では研究対象中心に批評家が思考を作り上げてしまうことがよくあります。漱石研究者にとっては子規における漱石の影響、子規研究者にとっては逆ということがしばしば起こります。そういういわば学問的セクショナリズム争いはあまり意味がない。マルチジャンル作家はその仕事全体を捉えるのは絶対原則です。
創作者が官庁縦割りのように専門歌人、俳人、詩人、小説家などに分化したのはおおむね大正時代以降です。現代までそれはほぼ続いており、文学メディアもまた官庁縦割り的です。たまに〝ジャンルの越境〟とかの特集などが組まれたり、作家がホームグラウンドジャンルから出て他ジャンルの作品に手を染めることがあります。しかしはっきり言って成功した作家はいない。ホームグラウンドジャンルの成果で「まあいいんじゃない」と大目に見られていることが多い。
明治までの作家は多かれ少なかれマルチジャンル作家でした。中でも鴎外と折口は突出しています。紅葉、露伴らは漢詩も俳句も書きましたが鴎外・折口ほどまとまったマルチジャンルの仕事を残していない。なぜ鴎外や折口はマルチジャンル作家でいられたのか、また複数のジャンルで優れた仕事を残しているなら、それを全体として捉える必要があるでしょうね。
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