星隆弘 連載評論『翻訳の中間溝――末松謙澄英訳『源氏物語』戻し訳』(第29回)をアップしましたぁ。今回は源氏が夕顔を車に押し込み、六条あたりの荒れた屋敷へ連れ出す場面です。
夜明けに源氏が耳にする「南無当来導師」は未来に現れる弥勒菩薩へ帰依する言葉です。源氏はその声を聞いて「今生限りの恋ではないらしい」と詠み、来世までの契りを誓います。ところが夕顔の返歌は自分の身を前世の因縁と思いなしており、先々の安らぎなど望めないという沈んだ調子です。誓う男と、誓いを信じきれない女。二人の温度差がすでに現れているところにこの場面の切なさがあります。
また末松謙澄の英訳を日本語に戻す本連載ならではの面白さが今回は注にも出ています。梵語の Upasaka(優婆塞)や Maitreya(弥勒)が、英語を経由することで綴りの揺れた姿で戻ってくるのです。原文の和歌を英語に訳し、さらに七五調の歌に戻す作業は、一度外国語という溝を渡った言葉がもとの岸とは少し違う場所に着くことを教えてくれます。その違いこそがこの連載で味わっていただきたいものです。
ここでちょっと『夕顔』の帖のおさらいを。
・「夕顔」は物語の帖名であると同時に彼女の通称でもあります。本名は伝わっていません。源氏と夕顔の出会いは隣家の垣根に咲く白い花がきっかけで、その花を扇に載せて差し出したことから始まります。花の名がそのまま女性の呼び名になったわけです。夕顔の花は夕方に開き翌朝にはしぼむ儚い花ですから、この名は彼女の運命をあらかじめ映しているようにも読めます。
・次に夕顔は「頭中将の元恋人」という出自を持ちます。かつて頭中将の想い人で、娘(のちの玉鬘)まで儲けながら、正妻方の圧力を恐れて身を隠した女性でした。今回、夕顔が打ち明けた「扇盆の歌は取り違えだった」という話も、複数の男の影がある彼女の過去をうっすらと匂わせているのかもしれません。
・雨夜の品定めとの関係も見逃せません。『源氏物語』の『帚木』の帖で、源氏、頭中将らが女性の品定めを繰り広げ、頭中将は「常夏の女」の話をします。これが夕顔のことです。つまり夕顔の巻は、あの夜の座談の続きを源氏が自分の身で体験する物語とも言えます。
そして今回の舞台である「なにがしの院」は物語の中でも屈指の怪異の場です。荒れ果てた庭、藻に覆われた池、そして「鬼も近寄るまい」という源氏の独白。実はこの言葉が、のちの展開への巧みな伏線になっています。穏やかな朝餉の描写の裏に、不穏な気配が静かに満ちていくのです。
■星隆弘 連載評論『翻訳の中間溝――末松謙澄英訳『源氏物語』戻し訳』(第29回)縦書版■
■星隆弘 連載評論『翻訳の中間溝――末松謙澄英訳『源氏物語』戻し訳』(第29回)横書版■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■


